さみしい橋

行方 洋子

 うっそうとしたカラマツ林の中をまっすぐな一本の道が通っている。林を抜けると、川に出る。そこに架かる小さな橋を渡ると、切り立った岩山と蛇行する川によって切り取られたような一片の土地に出る。林の中とちがってそこは明るい光が降り注ぐ別天地だ。水田が地所いっぱいに広がり、岩肌に沿うように家が二軒建っている。古くて小さな平屋と、比較的新しい二階建ての家だ。二つの家は、寄り添うように並んで、いくつもの納屋と倉庫をあたりにしたがえている。

 隅田捨男が甥の寛二を伴って山陰から北海道に渡ってきて、ここに住み着いて以来、ここは隅田地区と呼ばれている。隅田地区は、よく洪水に見舞われたが、他の地区より土地が肥えていた。東北から集団入植した他の連中は、広々とした土地を取って畑作をしたのに対して、出身もちがう二人は、この奥まって、誰も見向きもしない辺地に居を構えることにしたのだ。やや高くはあるが河川敷同然のこの地は、大雨でも降れば冠水して作物がだめになることも多く、誰もが、山陰の変わり者二人はそのうちどこかに行ってしまうだろうと思っていた。ところが、二人には帰るところが無かったと見えて、一年の収穫が洪水でだめになるたびに、道路工事や建設作業に出て、何とか生活を続けた。それどころか、このあたりでは、できないとされていた米を作った。捨男は四十を過ぎて若い嫁をもらい、寛二も同じ頃所帯を持った。

 年月が過ぎて、今は、古い平屋に寛二の嫁、清子とその孫の浩一が住み、隣の二階家には捨男の子、平造と静子の夫婦二人が暮らす。清子は、夫が亡くなってからは隣の平造に自家の水田を任せ、生活をみてもらってきた。後にも先にもこの二つの家族は、いつも助け合ってやってきたわけで、このあたりの連中に頼ったり、頼られたりの関係を持つわけにはいかなかった。他の人々は、隅田のことを、あるときは羨望のまなざしで、あるときは白眼視した。自分たちに溶け込もうとしない者を排斥したいという感情と、米を作って生計を立てている才覚をうらやんだりしたのだ。隅田地区に入るのも出るのも、橋を渡るしかない。

 捨男たちは、はじめ丸太の橋を架け、洪水で流されるたびに、次々に堅固な木橋に架け替えた。お上に頼ることも、近隣の人々に頼ることもせず、隅田の家の者だけで橋を架けた。それは、生業を維持するために必要な物ではあるけれども、よその連中がやって来る為の物ではない。橋を自前にしておくことで、この別天地を確保できると考えたのだ。清子の一人息子は、息が詰まるようなこの地をいやがり都会に出て行った。結婚して離婚して、自分が子供を引き取り、しばらくどうにか暮らしていたが、まもなく自転車に乗っていてひき逃げにあい、死亡。後に残されたまだ二才にならない子供、浩一を祖母の清子が引きとった。その頃平造夫婦には、娘が一人いた。ハルという名で、浩一より五つ年上だった。

 浩一が小学校に上がる年、ハルは六年生になった。
 「浩ちゃん、やっと一緒に学校に行けるね」と、ハルはうれしそうに言った。二人で橋を渡って、学校に行くことをずっと待ち焦がれていたように、「もう、少しもいやじゃないわ、学校に行くこと」と言いながら、明るいカラマツ林の中を、走り出した。浩一は、背中のランドセルを揺らさないようにそっと小走りに追いかけた。「待ってよ、ハルちゃん。おいていかないでよ」と今にも泣き出しそうな声をあげた。ハルは、しばらく立ち止まるが、浩一が追いつくのを待たずにまた走り出した。浩一は、真っ赤な顔をしてべそをかきながらも必死に追った。それでも、国道に出ると、ハルの表情から笑顔がきえた。そして自分が先に立って、浩一の遅い歩みにあわせた。うつむき加減に口を真一文字に結んで、息を凝らして歩く様は、まるで浩一を目に見えない敵から守っているようだった。

 学校に行ってもそれは続いた。全校あわせても児童数五〇人もいない小規模な学校のこと、みんなすぐに顔見知りになった。隅田地区の子は、ハルと浩一だけだ。ハルは、休み時間になると浩一のいる教室に出かけた。そして廊下からそっと浩一を捜すのだった。浩一は、休み時間でも一人ぽつんと席に座っていることが多かった。ハルは、一年生の時からずっと休み時間をもてあましていた。所在なく居場所がなかった。ほかの女子は、みんな生まれた時からいっしょに育ち、村祭りや年中行事にはみんなで参加するので、家族のように知っていた。隅田の人は、行事に滅多に参加することが無く、どうしても話の輪には入れないのだ。ハルは、浩一が入学してくれたことで、休み時間に過ごす場所ができたことを喜んだ。浩一が、一人退屈そうにしているのを目にするたびに胸が痛んだが、何となく安堵する気持ちもあった。たまに浩一が誰かと話していたり、みんなと一緒になって遊んでいると、気持ちがざわついた。けれどもどんなときもハルは、決して教室に入らなかった。それどころか、用心して教室の前でも立ち止まらずに通り過ぎ、歩きながら浩一を見つけた。誰であっても悟られたくなかった。職員室の前まで行き、また同じ廊下を戻る。そして再び教室の前を通り、もう一度浩一を目で捜した。

 祖母の清子は、下校時間になると、浩一を迎えに行っていたが、学校に着くのが決まってとても遅かった。「いやあ、ごめんね、だいぶ待ったかい?」と言いながら手には泥だらけの軍手、黒いゴム長を履いて小走りにやって来る。真っ黒に日焼けした顔をはにかんだようにゆがめて笑う。浩一は、何も言わず急いで軽トラックの助手席に飛び乗り、「ばあちゃん今日は安全運転でね」と荒っぽい祖母の運転を冷やかすのだ。それがいつもの挨拶で、「ただいま」と言う代わりに浩一が考えたことだった。本当は、「ばあちゃん」と言ってとびつきたかった。けど、もう一年生なので我慢していた。そして一月もしないうちに浩一は、下級生がみんないなくなった校庭で一人長く待たされるのがいやになってきた。ある天気のよい日に一人で家に向かって歩き出した。畑のあちこちで耕運機がもうもうと土煙を上げている。国道には一段高くなった広い歩道がある。その歩道をずっと歩いていけばカラマツ林の中に入る脇道にさしかかる。後はその道を入っていくだけだから、道に迷うことはない。歩き始めるとすぐに暑くなってきて、汗をかいた。浩一は、立ち止まって背中からランドセルをおろすと、厚手のジャンパーを脱いだ。涼しい風がスーッと体を通り抜けた。もう一度ランドセルを背負いジャンパーを手に持ってまた歩き出す。ヒバリの声を聞きながら、足取りも軽く、このままどこまでも歩いて行けそうだった。

 そして歩いていると、側溝から何かが飛び出してきて、目の前を素早く、しかしほんの一瞬立ち止まって、浩一の方を見てから、国道を横断していった。黒い小さな動物だ。浩一は後を追った。車がくるかどうか考えなかった。ジャンパーが手から落ちたが、気づかないままかけだしていた。背中でランドセルがぐるんぐるん鳴っていた。ギギーッ、と大きな音がして、我に返り、見ると、トラックが慌ててブレーキをかけたことがわかった。冷やっとしたけど、もうすでに道路を渡りきっていたので、運転手に怒鳴られる前に、畑のあぜ道をそのままかけていった。あぜ道は、細い水路に沿って続いている。水の中をのぞいても何か生き物がいるように見えない。さっきの動物を思い出した。もう一度見たかったけれども、どこにも見あたらない。立ち上がり、見渡す先に鳥居があった。白い花がいっぱい咲いている木に囲まれて、なんだかそこだけ華やいでいる。初めて見る景色に、吸い寄せられるようにそちらの方へ歩いて行った。鳥居は近づくにつれて大きくなり、真下に立って見上げると、石の巨人のように浩一を見下ろしていた。浩一は、何度も下をくぐっては、そのつど見上げた。青い空がまぶしく光る。山の方に目をやると、苔むした石が何段も組まれていて、それを登って行くと小さな社があるのだが、そちらの方は昼間なのに杉の大木が茂っていて、なんだかとっても暗い。もう一度道の方から鳥居を眺める。白い花と厳かな鳥居は、明るく浩一を歓迎してくれているようだ。浩一は、おずおずと鳥居をくぐって石段を登り始めた。石段は苔むして滑りやすく、徐々に狭くなっていく。だんだん近寄ってはいけないような感じがしてきた。歩みを止めて、何気なく振り返ってみた。するとあの堂々とそびえるように立っていた鳥居が、背中をかがめて、すっかり小さくなり、暗い笑いを浮かべているように見えるのだった。

 あわてて石段をかけあがった。立派な社だと思っていたのに、間近で見るとそれらしいのは屋根の形だけで、普通のちっぽけな家が立っている。ガラス窓に背伸びをして、そっと顔を近づけて中を見た。中は真っ暗で何も見えない。目をこらして、ガラスに額をくっつけるようにしてもう一度見ようとしたとき、コトンとかすかに戸が開く音がした。浩一は、驚いて後ろに飛び退き、一目散に元来た石段を駆け下りた。一斉に鳥や何かが鳴き始め、山自体が追いかけてくるようで、どこをどう走ったのか覚えていないくらいがむしゃらに走った。そして気がつけば、畑の中の道にいた。 おそるおそるゆっくりと振り返ると、山は、何もなかったかのように、こんもりと静まりかえっていた。浩一は、安堵してその場に座り込み、荒い息を全身で繰り返した。

 清子が学校に着いたのは、いつもよりそれほど遅かったわけではなかったが、校庭を見回しても、だれもいない。清子は、先生か誰かに浩一のことを尋ねてみようか、と思ったがやめた。騒ぎになるのがいやだった。「浩ちゃん」と呼びながら、清子は校庭の隅々をくまなく探した。それでもいないので、再び軽トラックに戻って、帰り道をゆっくりと走った。きっと浩一は、しびれを切らして歩き出したのだ、と思うことにした。細心の注意を払いながら、子供の姿を探した。特に右側の歩道を見ていくと、何かベージュ色の物がちらっと見えた。胸騒ぎがして、あわててブレーキを踏んでそのまま停車。道路を横切って、拾い上げて見てみると、浩一のジャンパーだった。もうほとんど側溝に落ちかけていたが、フードの部分がかろうじて歩道の草に引っかかっていたのだ。清子は、ジャンパーを持って、しばらく歩道にたたずんでいた。歩道側の周りの畑はどこまでも果てしなく広がっている。風が土を巻き上げ、そのたびに肥やしの牛糞が鼻をつく。意を決して、おそるおそる下りて行き、側溝をのぞいてみたが、雪解け水がザーザーと音を立てて勢いよく流れているだけで、浩一が落ちた痕跡はなさそうにみえた。清子は、側溝の急な斜面をやっとの思いで這い上がった。ふとそのとき、小さな山が意外な近さで迫っているのが目に入った。けれどもすっかり動揺していた清子の心をあっさりとすり抜けてしまった。ハルに知らせよう、そして一緒に探してもらおうと、思い立ち、再び学校に車を走らせた。

 清子がハルの教室に行くと、昼休みで一人ぽつんと窓辺に立っていた。清子が走り寄って、「浩一が、いないんだよ。どこにも」と言うと、ハルは、顔色を変えた。「一人でうちに帰ったのじゃないの」と言うなり自分の机の横にかけたカバンをとり、「ちょっと先生にことわってくる」と言うと小走りに職員室に行った。先生に、浩一のことは何も告げず、用事ができたので早退すると言った。隅田のことで大げさな騒動になってほしくなかったこともあったが、何となく自分ならすぐに探し出せるという自信があった。ハルは、すぐに戻ってきて、「おばちゃん、私も一緒に探すから」と言って二人して車に乗った。清子は、浩一のジャンパーを見つけたところに車を止め、二人でもう一度念入りに側溝を調べたが、何も目新しい発見はなかった。「おばちゃん、うちに帰って浩ちゃんが帰ってないか、見てきて。私は、ここから浩ちゃんになったつもりで歩いてみるから。浩ちゃんが、うちに帰っていなかったらこの道を戻ってきて。もし、家にいたら、そのままうちで待っていて、私はこの道をいつものように帰るから」 「ああ、わかったよ」といってわかれた。

 ハルは、辺りを見回して浩一らしい子供の姿を見つけようとしたが、辺り一帯は土埃でかすんでいるのかよく見えない。ハルは、浩一の心に近づこうと、目を閉じて集中した。
 そうするとなんだか浩一の目を通して、周りの風景を見ているような感じになれた。この道をトコトコ歩いている。暑くなってきて、たまらず上着を脱いで、手に持ちずるずると引きずりながら歩き続ける。時々顔を上げて、おばちゃんの車が来ないか確かめる。

 ハルは、立ち止まった。臆病な浩一のことだ、何かに出会ったか、誰かに声をかけられなければ、そのままこの歩道を歩いていたに違いない、と思った。何か、いや誰かに出会い、車に乗せられたのかもしれない。上着が落ちていたことが、何となく無理矢理乗せられたのではないかということを思わせた。この村の人々の間に長い年月醸成されてきた隅田に対する複雑な感情を、ハルは改めて思い知らされたようで、ブルッと大きく身震いした。そしてハルは、走り出した。家に向かって一目散に駆けた。国道はゆっくりと左にカーブしながらなだらかに下っている。ハルは、駆けながら、自分の中からわき上がってくる疑いが急速に確信になっていくのを感じた。

 一方畑のあぜ道に座り込んだ浩一は、ここがどこなのか、どうすればいいのかわからず途方に暮れていた。やがて目から涙があふれ、次第に大声でしゃくり上げて泣き始めた。するといつの間にかどこからともなく男の人が現われ、「どこの子だ?何泣いてるんだ?」と大きな太い声で頭の上から怒鳴るように言った。浩一がおそるおそる見上げると、大きな赤い顔が心配そうにのぞき込んでいた。浩一は、少しほっとして「隅田浩一」というと、「隅田の子供?あそこにこんな小さい子供がいたのか、知らなかった」と言うなり、浩一の手を取って「送ってやる、ただし国道までだぞ。俺はあそこに近づきたくねえからな。おめえは、そこまで行けば道はわかるだろう?」と言いながら、少し広い農道に止めてあったトラックのところに行き、浩一を乗せた。

 浩一を乗せたトラックが、カラマツ林への道にはいるところで止まり、浩一らしき子供が一人下りたのが、国道沿いにきたハルの目に入った。とはいえ、まだかなり遠かったので浩一をはっきりと見たわけではなかった。トラックは、一瞬の停車ののち、ハルの横をスピードを上げて走り去った。運転席の人を見ることはできなかった。ハルが橋を渡ったとき、清子は、車に乗ろうとしていた。「おばちゃん、浩ちゃん帰ってきた?」とハルが大声で叫ぶと、清子はハルの方に手を振りながら、「帰ってきたよ。たった今、林の道を歩いていたから私が連れて戻ったところ。家に浩一を入れて、ハルちゃんに知らせようと思って今家を出るところだったのだよ。ありがとうご苦労だったね」とうれしそうに言った。

 浩一は、何も言わず、このことはそれっきりになったけれど、隅田の人たちの心にわだかまりが残った。ハルが目撃したトラックは、いつの間にか、浩一を誘拐して解放した悪者になっていた。そしてその悪者は、いつものようにこの村の誰かだった。隅田の大人三人がみんな聞きたがる話を、ハルは繰り返し聞かせた。繰り返すたびに、悪者がより悪質になっていった。浩一はというと、何をきかれても「知らない」というほかなかった。 時々あのときのことを断片的に思い出したけれど、話すきっかけも、必要もなかった。嘘をつくつもりはないけれど、みんなの期待に反するようなことをわざわざ言いたくなかった。ばあちゃんの安堵する顔があれば、それでよかったのだ。

 ハルと浩一は相変わらずよく一緒に遊んだ。このところは、もっぱら裏の岩山をよじ登ったり、川を歩いて渡るというような危なっかしい遊びを好んだ。母の静子は、ハルが岩山の崖を素手でよじ登るのを見て、止めようとしたが、ハルは、「浩ちゃんと私は、強くないといけないの。私は浩ちゃんを強い子にするんだ」と言い張って頑として聞き入れない。平造は、「まるで山猿だ」といいながら、とがめもせずたばこをふかしていた。清子は、ハルのことを頼もしく思いながらも浩一にもしものことがあったら、と内心ハラハラしていたが、止めようもないので、二人が遊ぶのをできるだけ見ないようにしていた。

 「ハルちゃん、僕、狐を見たよ、小さいの。一匹じゃないよ、たぶん」浩一は、川の林側の岸辺にハルを案内した。橋を渡って、川伝いにしばらく笹藪をこいでいくと、カラマツ林の中に少し開けたところがあって、大きな石がゴロゴロ重なり合っている。浩一は、「僕が見たのは、家の窓からだけど、この辺かな」といいながら、石のある方へゆっくりと入って行った。ハルは、川岸の木につかまりながら、「そんなに林の中に入って行っちゃあぶないよ、蛇がいるんだよ」と、いつものおてんばぶりはどこへやら、一歩も林の中に踏み込もうとしない。浩一は、できるだけ音を立てないようにそっと石の隙間や、空洞をのぞき込んだ。浩一があんまりいつまでも石のあたりをのぞき込んでいるので、ハルはしびれを切らして、「もう、私帰るよ」と言おうとしたとき、子狐が二匹、石の間からとび出してきた。浩一を恐れる風もなく、目の前でじゃれている。浩一は釘付けになった。ハルも、驚きのあまり、身じろぎもせずただ黙って見ていた。子犬より少し大きく、コロコロとかわいかった。しばらくすると、二匹は追いかけっこするように林の中の方へ入っていった。浩一は「ハルちゃん、もう戻ろう」と小声で言いながら、まだ見ていたそうに、ぐずぐずするハルを促し、だまって橋まで先に戻った。渋々追いついてきたハルに、「親狐が帰ってくると、引っ越しをしてしまうかもしれないだろう。これからもあの子狐たちを見ていたいから」と浩一は言って聞かせた。生き物のことになると、いつも小さな浩一が先生みたいに話すのだが、そんな浩一をハルは、頼もしく思っていた。

 夏休みも終わろうとする頃、ハルが風邪を引いたのか、熱を出した。いくらかよくなったけれど、なぜかいつまでも微熱が続いた。静子は、さすがに心配になって、遅い晩ご飯の時に「ねえ、この子医者に診せた方がいいかな」と平造に言ってみたが、酒でほろ酔い気分の平造は、「医者に金を持っていくのはいやだね」というばかりだった。結局、いつものように寝ていればそのうちに治るだろうと寝かせておいた。稲の穂が少し目立ってきて、この調子だと今年は豊作だな、と思われていた矢先の頃、山と川に挟まれて、逃げ場のない行き止まりのようなこの土地に、いきなり南から風が吹き始めた。そしてあっという間に雨が激しく降り出し、林がゴーッとうなり声を上げ、見る見る間に川の水かさが増していった。大人たちは、右往左往して、田んぼを見回るのだが、いかんせん滝のような雨に、なすすべがなかった。次の日も、そしてまた次の日も、雨は降り続いた。暴風雨はいつものことで、そのうちに収まるものだが、今度ばかりは少し様子が違っていた。三日目の朝、清子が目を覚ますと浩一がいない。「浩一、浩一」と叫びながら表に出たが、姿が見えない。相も変わらず雨は激しく降り、家の近くまで水が押し寄せている。隣の家に駆け込んで、「浩一がここに来てない?いないんだよ」と言うなりハルの部屋を見に二階に行った。ハルは、青白い顔で起き上がりながら少し咳き込んで、「おばちゃん、浩ちゃんがいないの?」と言うと、ゆっくりと着替え始めた。「私、探してくる。きっとあそこだわ。雨がやまないので、心配になったのよ」と清子の顔を見ようともしない。そんなハルを、清子は、押しとどめようと、必死に語りかけるが、耳を貸そうともしない。清子の声に飛起きた平造と静子は、ひたひたと家にまで迫りくる水を見て、驚き雨合羽を羽織ると家の外に飛び出していった。

 「ハルちゃん、ハルちゃん」と呼びながら清子も家を出た。田んぼも、道も、水浸しで、その水面を雨は容赦なくさらにたたき続けている。清子は、事態が尋常でないのを感じ、「浩一、ハル」と腹の底から声を張り上げた。それにしても雨が邪魔して何も見えない、どんな声もかき消されてしまう。清子は、歩こうとしたが、ひたひたと確実に足を絡め取ろうとする水に、思うように歩けないでいた。それでも「浩一、ハル」と何度も声を張り上げていると、何か聞こえたように思った。声のする山の方に水を漕いで登っていくと、浩一がずぶ濡れで木の幹に引っかかっていた。「怪我はないかい?大丈夫?」 浩一は、「うん」というようにうなずくが、ぬれた顔がゆがんでいる。「よしよし、もう大丈夫だよ」と言いながら清子は、浩一をおんぶすると、転ばないように慎重に家に運んだ。家は、床上にまで水が来ていたので、隣の平造の家に入り、最後の力を振り絞って、二階に上がるとすぐ、浩一もろとも倒れ込んだ。清子も浩一もしばらく口もきけず上がり口に横たわっていた。落ち着きをとりもどして、ぬれた上服を脱ぐと、清子は、浩一をハルの布団に寝かせ、自分も 浩一に添って寝てしまった。

 浩一がどこへ行ったのか、ハルには分かった。浩一はきっと狐が心配なのだ。川を渡って、林の中に入ったけれど、川が氾濫して水が押し寄せてきて、困っているに違いない、と思うとハルは焦った。もっと速く歩きたかったが、長靴に水が入って重く歩きにくい。橋に向かって行くしかないのだが、水の力で押し戻されそうになる。一歩一歩と歩みを進める度に体中の力をかき集めなければならなかった。

 浩ちゃんを助けられるのは私しかいない。だって誰も浩ちゃんの居場所を知らないんだから。林の中の大きな石か何かの上に立っていてくれればいいけど。浩ちゃん、待っててね。

 川と雨が一緒になって、水ばかりがあふれる中をハルは、ふらふらと、すっかり冠水してしまった橋を渡ろうとした時、あっという間に激流に飲み込まれ、川底に引き込まれた。あわてて起き上がろうともがいたが、川はハルを離そうとしなかった。
 その頃平造と静子は、田んぼが風に痛めつけられ、水に沈められていくのをじっと何もせずに見ていることなどできなかった。思い思いに動き回り、田んぼから少しでも水を出そうと、思いつくままあれこれ力を尽くしていた。田は、自分たちを支えるすべてだ。順調だったすべてのものが、今、圧倒的な力で自分たちの目の前で、台無しになっていく。文字通り水の泡となって、消える。何度も繰り返されてきた災難だが、そのたびに平造の心に父祖への恨みとも、憐憫ともつかない気持ちがふつふつと頭をもたげるのだった。

 平造も静子も、身も心もすっかり疲れ切って、家に入った。一階の床にも水が上がって、身体を休めるどころではなかった。けれども、嘆いていても仕方ないので、また気を取り直して片付けていると、静子がふと思い出して「そういえば、浩一がいないっておばちゃん言ってた気がするけど、もう帰ったのかしら」と独り言のように言った。すぐに二階に上がって、驚いた。ハルの布団に浩一と清子がいて、ハルが消えていた。

 雨がようやく小降りになってきた。平造たち夫婦は、何が何だか狐につままれたみたいだったが、清子には心当たりがあった。ハルを見つけなければいけなかったのに、浩一を見つけてしまったら、事もあろうに眠ってしまったのだ。自分が浩一のことを知らせに来なければ、ハルは今でも二階で眠っていたに違いない。清子は、うしろめたかった。そして平造夫婦がこのことに気づくのは時間の問題だと思った。でもこの場ではどうしても言い出せなかった。清子は、「私、探してくる」と言って真っ先に家を飛び出した。雨がやんで、空も少し明るさを取り戻していた。空気が澄んで、すっきりと視界が広がり、その中にハルの姿はなかった。平造夫婦は、家の中を探してもハルがいないので、外に出て来て探した。家の周り、浩一を見つけたあたり、ビニールハウス、納屋、倉庫、どこにもいない。三人は、まったく口をきかなかった。そして、橋を渡った可能性を心で打ち消した。池のようになってしまったけど、大事な田んぼの中も、ジャバジャバと入って隅々まで探した。ちょうどそんな時、橋の向こうから声が聞こえてきた。「こりゃ、すごい。ここがこんなになっているとは」という大げさな驚きの声に続いて、「大丈夫ですか、無事ですか?」と安否を確かめる声が聞こえた。静子が、たまらず「娘がいない。いなくなった」と泣き声を上げた。

 それからは、村の駐在が消防団に声をかけ、川の捜索をしたが、捜索は遅々として進まず、何の手がかりもなかった。そして川が、ようやく元通りの穏やかさをとりもどした頃、警察による大規模な川の捜索が行われ、ずっと下流でハルの遺体が発見された。
 ハルの死は、残された者たちに悲しみと暗い影をもたらした。静子は、平造に「たった一人の子供なのに、病院に連れて行くことを渋った」となじった。平造は、この追及をかわすため、「隣が、あの日やってきてハルに何か言ったんだ。それであの雨の中を出て行ったんだ。おまえも知っていたと思うが、ハルの病気はだいぶよくなってたんだ」としょんぼりとつぶやくのだった。清子は、ハルの死に責任を感じていた。でも浩一があんな雨の中を朝早くどこへ出かけたのか、そしてハルがどうして知っていると言ったのか、分からず、それがいつまでも頭から離れなかった。

 「浩ちゃん、あの日のことなんだけど、どこへ、何しに出かけたの?」 「ばあちゃん、僕、狐が心配だった。林の子狐たちは、だいぶ大きくなったけれど、少し前から小柄な方が、後ろ足を引きずっていたんだ。血がいっぱい出てて、怪我をしているみたいだった。でも何も助けてあげられなくて、見ているしかなかった。それから雨が続いて、何日も林に行けなかった。僕は、行くのを我慢していたんだよ。で、あの朝夢を見たの、狐のいる大きな石の上まで水につかっている夢を。それで・・・行かなくちゃいけないと思って、家を出た・・・けど、僕がそんなことをしなきゃ、ハルちゃんは川で溺れたりしなかったんだ・・・ごめんなさい」「泣かなくていいよ、浩ちゃんが悪いのじゃない。狐が心配だったんだもの。それで、川の方へ行くつもりが、山の方へ押し流されたのだね。分かったよ、よく話してくれた。浩一は、悪くない、優しい子だ」

 静子が村の人に捜索の助けを求めた事が、隅田の長い閉鎖的な歴史に風穴を開けるきっかけになった。ハルを失った静子は、平造の言うことに従わず、村の雑貨屋の手伝いを始めた。清子も、浩一の学校の行事や集まりに顔を出すようになり、知り合いもできた。それに対して平造は、農作業を一人ですることが多くなり、ますます寡黙になっていった。昼中は、黙々と一人でトラクターを動かし、早々と酒を飲み始める日々が何年も過ぎていった。

 ある冬の夜、清子と浩一が夕食を食べていると、隣から激しく言い争う声が聞こえてきた。このところ毎日繰り返されている夫婦げんかだ。平造の酒癖は手に負えないほど悪くなる一方だった。清子は、お世話になっている平造に、何も説教がましいことも言えず、聞こえないふりを通していた。だが今日は、いつもとちがうただならぬ雰囲気を感じて、清子は、隣のうちに乗り込んで、二人の間に割ってはいった。そして平造に、思いっきり突き飛ばされ、いやというほど腰を打った。「おばさん、大丈夫?」静子は、自分も顔を腫らしながらも清子をかばった。そこへ浩一が、入ってきて、静子と二人して立てなくなった清子を家につれて戻った。
 「ばあちゃん、僕今から診療所に行ってお医者さんに来てもらうから」と言って浩一は家を出た。冬空に細い三日月が白い大地を意外なほど明るく照らしていた。「ハルちゃん、ハルちゃんは僕が強くなることを願ってた。今は、みんな寂しくてとっても苦しいけど、僕がいつか大きくなったら、ハルちゃんみたいに強くなって、みんなを安心させるんだ。だからいつまでも僕を見てて」浩一は、白い息をフーッとはいた。