イタドリの道

 明日から夏休み。すみれは、級友の房子といつものように国道の交差点で別れると、肩で大きくため息をついた。「フリーマーケット、行きたいな」房子のお母さんが、明日札幌でフリーマーケットに出店するので、一緒に行かないか、と誘われたのだ。房子のお母さんは、これまでにも何度かすみれを誘ってくれたことがあった。でもそのつど、おばあさんが、行くことを許してくれなかった。すみれはおばあさんとその娘、華おばさんと三人で、国道から一本脇に入った寂れた商店街の一隅で暮らしている。家は三代続いた金物屋で、間口の広い堂々とし店構えが、昔の繁栄をしのばせている。おばあさんのお父さんは、それまで主に馬具を扱っていた店を継ぐと、商才を発揮して、時代とともに暮らしに必要なものを次々扱い、ないものがないといわれるほどありとあらゆる商品を店に置いた。この辺りに店らしい店が無く、毎日客が押し寄せた。二代目が一財産を築いたのだ。
 すみれは、家の玄関をあけ「ただいま」とつぶやくと、靴を重そうに脱いで、おばあさんのいる台所兼食堂に入った。おばあさんは、何かなべで煮ていた。
 「ただいま、いいにおい」
 「お帰り。ジャムを作っているの。これが終わったら、すぐお昼ご飯の用意をするからね」
 「うん」
 すみれは、部屋にかばんを置くと、奥まったところにあるお父さんの部屋に入った。すみれのお父さんが子供のときから、使っている和室の八畳で、床の間があり、いつも季節の花が一輪飾ってある。お父さんは、東京にいる。すみれのお母さんは、すみれがまだ赤ん坊のときに病気でなくなった。この後お父さんは、すみれを北海道の自分の母親に預けて、自分は夏とお正月の年二回帰省する。いつも真っ白い糊のきいたワイシャツのカラー、上等そうなスーツに外国の香りがするネクタイ、お父さんの身なりは、このひしゃげたような田舎まちにはない東京のかけらだった。
 すみれにとっては、東京を身にまとったお父さんは遠い存在だった。帰ってきても、いつもろくに口もきかないで、食事を済ませると自分の部屋に入ってしまう。だけどおばあさんにとっては希望、いや命そのものだった。子供のときと変わらずおばあさんの期待にこたえてくれるやさしい孝行息子だ。高校からは札幌に出て、大学は東京、そして国家公務員になった。おばあさんは、若いころ自分もこの眠っているような小さな世界を飛び出したかったが、婿をとって家を継ぐしかなかった。かなえられなかった夢を、息子恭介がかなえてくれたのだ。
 この部屋に入ると、お父さんの歴史が廃墟のように見えた。プラモデル、集めたカード類、ラジコンカー、勉強机に貼られたシール。すべてが整然と飾られ、今にもこの部屋の主である男の子が入ってきそうだった。おばあさんは、すみれをかわいがった。「すみれは、高校は恭介と同じ札幌の高校に行くのよ」というのが口癖だった。おばあさんはすみれを第二のお父さんとして、育てていた。

 「こんなガラクタもフリーマーケットに出せば、売れるかな」
すみれは、フィギュアをひとつ手にとって、にぎやかな会場で売る人になった自分を思い描いた。
 「ああ、今度こそ絶対行きたい」
 すみれは、部屋を出ると、金物屋の棟続きの隣で喫茶店をしている、華おばさんのところへ行った。華おばさんはお父さんの妹で、すみれがこの家に預けられたころに離婚をして戻ってきた。金物屋の一部倉庫として使っていたところを喫茶店に改装して、そこの店主になった。おばさんの喫茶店も、金物屋のほうと同じく、客足は途絶える一方だった。すみれが入っていくと、客は無く、おばさんは、本を読んでいた。「あら、お帰り。」と顔も上げずに言った。すみれはこの華おばさんは、苦手なところもあったが、お母さんが生きていれば同じくらいの年なので、たまに話を聞いてもらう。
 「おばさん、房ちゃんのお母さんが札幌のフリーマーケットに出店するの。房ちゃんのお母さんの車に私も一緒に乗っけて連れて行ってあげるって、言ってくれているの。去年はおばあさんが、私はまだ小さいからだめだって、行かせてくれなかったけど、私はもう6年生だから、小さくないわ。」わざと不満そうに言って、華おばさんの方を伺った。おばは、本から目を上げて、すみれの方に向き直ると、すみれに言った。「行けばいいじゃないの。房ちゃんのお母さんが連れて行ってくれるのだから。母さんは、すみれちゃんをもっと自由にさせて上げなきゃいけないわ」
 おばさんは、今日は運よく機嫌がよかった。「母さんに私から言ってあげる」といって店を出て行った。
 これできまりだ。すみれは、明日行くことを伝えるために房子に電話した。

 夏になると、このあたりの川原、農道、空き地、どこにでもイタドリがはえる。毎日毎日伸びるのが目に見えるほどずんずん大きく高くなって、人の背を越して見上げるような高さになって、白い花をつける。秋から冬にかけて葉を落としたオオイタドリは、太い茎を暗い茶色に変えていく。このあたりの子供は、このイタドリの茎を切って、笛を作る。長い物から短いものを順に並べ紐で結わえただけのものだが、立派に曲がふけた。
 すみれは、お父さんの部屋に、このイタドリで作った笛がいくつもあるのを見ていた。昔のものだが、何か塗ってあるのかきれいに保存されている。すみれは、崩れるのを恐れて手に触れたことは無いが、お父さんの心がここにあるような気がして、時々この部屋に来た。

 フリーマーケット会場は、大きなドームで行われ、人でごった返していた。すみれが想像していたようなガラクタ市ではなくて、売り物はみんな普通の商品のようにちゃんとしていた。その割に値段が安く、すみれは「家の店の商品よりいいものが安く売られている」と思った。
 帰りに、ドーム近くのコンビニで、房子のお母さんが、房子とすみれにお菓子と飲み物を買ってくれた。すみれは、店内をしばらく見て、戸を開けて出ようとしたとき、何かを見た様に感じた。振り向いて目で探すと、お父さんに似た人がいた。店員の制服を着て、柔らかな表情を顔に浮かべ、それとやや低い物腰。お父さんとはまるで違うけれど、似ている。背の高さ、やせて少し猫背なところ、顔の感じ、がとても似ている。

 「お父さんじゃない。お父さんがここにいるわけが無い。」すみれは、思い直して店を出た。駐車場は、西日が当たってくらくらするくらい暑かった。ふらふらと歩いて車のところまで行ったが、房子たちは、まだ戻っていなかった。もう一度、足早に店に入ると、あの人はレジにいた。声を聞いたとき、「お父さんだ」と確信した。
 すみれは、走って店を出た。何がなんだかわからなかった。
 それでも家につくころには、落ち着きを取り戻し、お父さんがあそこで働いているはずが無い、という考えに傾いていた。札幌で大勢の人といっぱいの物に囲まれて、疲れたのだろう。

 フリーマーケットの日から10日ほど経ったころ、おばあさんがうれしそうに、「お父さんが帰省するよ」といった。今度はあまりゆっくりできないらしいけど、すみれは今までになく早く会いたい、と思った。年二回、お父さんが帰るとき、その前に家中をきれいにする。大掃除だ。おばあさんは、日ごろは腰やひざが痛い、胃の調子が悪い、血圧が高い、と体の不調を訴えているのだが、このときばかりは、元気を取り戻し、店の商品に積もっている埃を丁寧にはらい、板間も柱もピカピカに雑巾がけをするのだった。以前は、畳みもあげて外に干し、戸をはずして洗うことまでしたのだが、さすがにもう無理だった。このおばあさんのはしゃぎぶりを、華おばさんは、苦々しく見ていた。昔からおばあさんの愛情は兄の恭介が独り占めして、妹の華にはまったくといっていいほど与えられなかった。華おばさんは、不承不承掃除を手伝ってはいたが、「何でそんなに大騒ぎをするのかね」と誰に言うとも無く言い放つのだった。
 お父さんが帰ってきた。いつもと変わらないお父さんだった。きちんとした身なりが、とてつもなく暑いこの日に、なんだか芝居じみて見えた。「やあ、元気だったか」とすみれに声をかけると、すぐに自分の部屋に入っていった。すみれは、これまでいつも、お父さんともっと親しく話したかったが、話しかけられるのをおずおずと待っているだけだった。お父さんには、話しかけられるのを強くこばむような雰囲気があった。コンビニで見かけた人とは、何もかも違っていた。「あの日は、私、どうかしていたのだわ。店員さんとお父さんを間違えるなんて」
 歓迎の夕食は、おばあさんが何日も前から手配をしておいた鮎が中心のご馳走だった。お父さんは、食事中もあまり話さず、おばあさん一人があれこれとお父さんに聞いていた。
 「このごろ仕事は忙しいの。この前電話したら、通じなかったけど、番号を変えたのかい。」
おばあさんは、お父さんの返事を待たずに、「来年すみれは中学生になるのよ。高校は、恭ちゃんと同じ高校へやりたいのだけれど、勉強がどうだろうね。誰かに勉強を見てもらったほうがいいだろうか」おばあさんは言いたいことだけ言って、台所に行ってしまった。
 すみれは、お父さんの横顔を見ているうちに、ぜんぜん思ってもいない言葉が出てしまった「お父さん、すみれのお母さんがなくなったときの事を教えて」
 「すみれが赤ん坊のとき、病気で亡くなったんだよ」
 「何の病気だったの」
 「・・・それは」
 台所から、おばあさんがメロンを持ってきた。「はい、恭ちゃんが好きなメロン。」おばあさんは、それからずっとお父さんに、すみれが聞いてみたい質問をし続け、返事を聞かないまま夕食が終わった。
 お父さんは、自室に入って、おばあさんは後片付けもそこそこに、疲れてしまったのか寝てしまい、おばさんも自分の部屋へ行って、すみれは、一人取り残された。お父さんの部屋に行けば、話しできるけど、行ってもお父さんの口から何も言葉が出てこないことはわかっていた。家の中に、すみれの家族が全員いるのに、誰一人として私を丸ごと引き受けてくれない。すみれの心は寂しさで張り裂けそうだった。
 次の日、おばあさんの大きな声で目が覚めた。お父さんが、もう東京へ帰るという。朝一番のJRで行くので朝ごはんはいらないということだった。すみれは、急いで玄関まで走っていくと、お父さんが「いいから寝ていなさい。また冬に帰るからね。」といって出て行こうとした。すみれは、思い切って言った。「お父さん、すみれも一緒に東京へ行きたい。今、夏休みなのよ。もう一本列車を遅らせてくれれば、支度するから。お願い、連れて行ってほしい。帰りは一人で帰るわ。お金は持っている、ずっと貯金していたから飛行機代もある。」
 お父さんは、出て行った。パジャマのまま、すみれは玄関で座ってしまった。
 おばあさんは、駅へもっていくといって、おにぎりを作り始めた。眠そうに起きて来た華おばさんは、「もう間に合わないわよ」と哀れむように言った。

 お父さんが帰って1週間ほどして、すみれは、札幌で行われる模擬テストを受けることにした。すみれは、高校受験のことを考えて今から何か対策が必要なことを、おばあさんに説明して、クラスの人も一緒に受験するとうそをついて札幌に行く許可を取ると、朝一番の列車に一人で乗った。模擬テストは実際行われたが、すみれは、行かず、フリーマーケットが開催されたあのドームへ行った。途中で、乗るバスを間違え、ドームに着いたのはもう昼過ぎだった。それから、コンビニを探したが、似たようなコンビニが大きなドームを囲むように、いくつもあった。歩いて次々に店に入り、あの人を探しているうちに、もう札幌駅に戻らないといけなくなった。せっかく来たのに、すぐ見つかると思ったのに、と残念でならなかった。ところが、これが最後と思って入ったコンビニにあの人がいた。すみれには時間が無かった。つかつかとその人のそばに行くと切り出した。
 「お父さん」。
 顔を上げたその人は、「すみれ・・・」と言ったままぽかんとしていた。
 「お父さんの住所を教えて。」といって手帳とボールペンを渡した。お父さんは、住所と電話番号を書くとすみれの顔を見ずに、「すまない」と言ってすみれに差し出した。すみれは、お父さんの家に行ってもいい日を聞いてから、急いで札幌駅に向かった。すみれは混乱していた。ここに来るのに、何かはっきりとした考えがあったわけではない。けれど、何か、なんでもいいから、もやもやした気持ちの出口を求めて、あのお父さんに似た人のところへ行ってみようとしただけなのだ。それなのに、「すみれ」という名前があの人の口から出てくるとは、驚きだった。怒りとうれしさとそれからぞっとするような怖さが心の中をぐるぐる渦巻いていた。

 家に帰ると、夕食ができていた。おばあさんは「どう、模擬テストは難しかった」ときいた。すみれは,「うん、すごく難しくて、ぜんぜんだめだった。もしも私が中学受験をするのだったら、無理。これからはもっとテストを受けるようにするわ。夏休みに勉強しなくちゃ」と言った。華おばさんは、「無理して札幌の高校に行かなくてもいいじゃないの。お金も無いのだし。このごろのお店は閑古鳥が鳴いてお客さんなんて来ないじゃないの。いったいどうやって、札幌の高校に行かせるのよ。昔と違うのよ」と語気あらく言った。
 おばあさんは、「華は黙っていて。この私が何とかします。恭介のように立派にして見せるわ」と胸を張った。すると、「兄さんは立派なのかな、本当に」とおばさんは意味ありげに言って席を立った。華おばさんは何か知っている、とすみれは思った。
 華おばさんは喫茶店にいた。営業はしていないが、新しいランチメニューの試作にとりかかっていた。常連客で持っている店なので、時々季節感のあるランチを出すことが必要だった。
すみれは、入っていくと「おばさん、何かお手伝いさせて。夏休み中は忙しいときにお店を手伝うことにする」と明るく言った。
 豆を煮ながら、すみれは思い切って
 「今日、札幌でお父さんに会った」と言った。
 「札幌で会ったの。やっぱりね・・・」
 「おばさん、知ってたの」
 「札幌かどうかわからなかったけど、電話しても使われていない、手紙を出してもあて先不明で戻ってくるから、おかしいと思っていたのよ。勤務先もたぶんやめていると思う。確かめるのはしていないけどね。本人があの調子で、何も言わないし。判で押したみたいに年二回帰ってくるし。元気なのだからいいのかなあと思ってたんだけど。でも母さんには、言わないほうがいいわ。母さんも感じているけど、真実を知るのが怖いのよ。私、昔は、兄さんに嫉妬したけど、同時に痛々しいな、と思ってた。今でもそれは変わらないけど。母さんの期待を一身に背負わされて、がんばったけど、人との付き合いができない人で、お役人の世界ではさぞかしつらかっただろうと思う」
 「すみれのお母さんのこと、ちゃんと知りたいの。教えてくれる」
 「ああ、そうね」とおばさんは、ちょっと口ごもって、すみれのほうに向き直った。「すみれちゃん、急に成長したわね。お母さんはね、心の病気になって、自分で命を断ったの。」
 「なんとなくそうじゃないかと思ってた。だって病気で亡くなるとしても病名があるのに、誰も病名を言わないから。おばさん、ありがとう、話してくれて」
 すみれは、おばさんの話の内容の悲惨さより、自分の足元から頭の先まで一気に実体を持った本物のすみれになったような感動に満たされた。
 「おばさん、私、明日札幌に行くから、おばあさんには適当に言っておいてね」
 そう言うと、お父さんの部屋に行って、シールだらけの勉強机に突っ伏して、声を殺して泣いた。

 翌日、午前中にコンビニに着いた。店にお父さんはいなかった。店員さんに、アパートの住所を言ってだいたいの場所を教えてもらった。地図を描いてくれたので、アパートはすぐにわかった。お父さんは留守のようでチャイムを押しても応答が無かった。すみれは、ふと「お父さんは、昨日すみれに見つかって、アパートを引き払ってしまったのかな」という思いが心をよぎった。でもすぐにその考えを追い出した。しばらくドアの前に立っていたが、お父さんが住むこの町を歩いてみようと思い、通りに出て歩き始めた。なんとなく緑の多そうなほうへ歩みを進めていくと、川に出た。すみれの町の川ほど大きくはなかったけれど、匂いは同じだった。コンクリートの護岸に数人の釣り人がいた。腰をおろしてしばらく眺めていたが、アパートに引き返そうと、立ち上がったとき後ろから人の気配がした。すみれが振り返ると、お父さんが立っていた。すみれは、うれしくてうれしくて跳び上がって抱きついて、声を上げて笑ってしまった。お父さんは驚いたようだったけれど、ちょっと笑って、「来たの、昨日の今日だよ」と言った。続けて真顔になって「すまない、お父さんは・・・」といいかけたとき、すみれは、お父さんの言葉をきっぱりとさえぎって言った「ちょっと待って」ごそごそとかばんの中からなにやら紙包みを大事そうに取り出すと、「これ家から持ってきた。吹いて。私はこんなイタドリの笛を見たことが無いの。私も作ったことあるけど、こんなにきれいに立派にできない。ね、吹いてみて」と差し出した。お父さんは、黙って見ていたが手に取ろうともせず、「吹けない。吹きたくない。吹いたってしようが無い」と言って顔を背けた。すみれは、コンクリートに座りなおしてお父さんも座るようにうながし、もってきたお茶をコップに注いだ。「はい、お茶。今日は曇っていて少し風があって、川原にいても涼しいからいいね」お父さんは、何も言わず川を見つめていた。「お父さん、生きていてくれてありがとう。すみれは、大好きなおばあさんとおばさんに大事に育てられて、こんなに幸せに暮らしているよ。今までのことはどうだっていいの。だって、今これから、すみれとお父さんは新しい航海に出るのだから。海は荒いし天候もどうなるか。二人で力を合わせてこれからの事に対処しないといけないのに、昔の過ぎたことにかまっていられないでしょう。」すみれは、一息でコップのお茶を飲みほすと続けて言った。「私は来年中学でしょう。あと三年したら、こっちの高校に入るわ。おばあさんの願いはかなえてあげないと。というよりおばあさんの願いと私の願いがいつの間にか、区別できなくなっちゃったの。おばあさんを喜ばせることで私は幸福になれるし、私も高校生活を札幌で過ごしたいと思うから、ね、二人が同じひとつの願いを持っているってことなのね。私、だから一生懸命勉強しようと思っている。お父さん、あと三年ここにいて。今までここで暮らしたように、コンビニで働いて、ここにいてほしい。どこへも行かないで、ここで踏ん張っていてね。もう私とお父さんの船出は始まっているから、やるしかないの。」
 それまで黙って聞いていたお父さんが、立ち上がって、「もう行かなきゃ、仕事だから」と言って歩き出した。すみれは、不意をつかれ、あわてて後を追った。追いつくと、お父さんのシャツのすそをぐっと思いっきり引っ張り、「お父さん、私はお父さんの娘だよ。お父さんが私を守ってくれなきゃ誰が私を守ってくれるの」と大声で叫んだ。涙がとめどなく流れお父さんの顔が見えなくなっても叫び続けた。「私はお父さんと一緒に生きて行きたい。私はお父さんと助け合って暮らして生きたい。二人で仲良く幸せに暮らしていれば、いつか亡くなったお母さんが二人のところに戻ってきてくれる。そしてみんな安心できると思うの。お母さんが亡くなったのはお父さんのせいでも私のせいでもない。病気だったの。」
 言葉が終わらないうちに、お父さんは、すみれを振り切って、足早に去っていった。

 あの日以来、すみれは何もする気がなく、一日中部屋に閉じこもることが多くなった。お母さんは、赤ん坊のときに、そしてお父さんもずっと前に、すみれを捨てたんだ、という思いにとらわれた。悲しくて、やるせなくて、そして何より孤独だった。深い闇のこの広い宇宙の中にたった一人で置き去りにされたようで、苦しかった。
 でも、なぜお父さんは、すみれの必死の訴えから逃げて行ったのだろう。すみれが会いに来るのを嫌がっていたわけではない。住所も言ってくれたし、川にいたときもお父さんから寄って来てくれた。すみれのことが嫌いなのではない。では、どうして・・・。すみれは、息苦しさから、部屋を出て、お父さんの部屋に行くと、イタドリの笛を片っ端から手に取ると、手で引きちぎって壊し始めた。そしてすべてを力任せにばらばらにしてつぶしてしまった。しゃがみこんで、改めて、部屋を見回した。この部屋はお父さんの部屋だと思っていたけれど、おばあさんの宝箱だったし、今でもおばあさんの物なのではないかと言う気がしてきた。お父さんは、おばあさんの作った世界に導かれたまま大きくなり、今もなお、そこから逃れられずにいるのではないか。年二回、お父さんは、おばあさんの夢がまだ続いていることを、示すために帰ってくる。
 すみれは、畳の上に散らばった、イタドリの笛のかけらを拾い、それがきれいに塗装され、装飾が施されていることに見入った。野の草の笛は、普通、カッターで適当に切って、紐で結ぶだけの素朴なもの。道端や野原に勝手に生えて、一日に一節のびるほど勢いよく大きくなる。子供たちは、笛を作って、吹いて遊んで、それで終わり。なくして忘れる。すみれは、お父さんは菊祭りに出品されるワイヤーで形作られた菊の花みたいだ、と思った。誰にも何にも言われない道端のイタドリと注目を集める型にはめられた菊の花。お父さんが展覧会の菊の花なら、すみれも、自分をイタドリだと思い込んでいる菊の花なのかもしれない。いつの間にかおばあさんの夢を自分の夢だと思い込んでしまったような気がする。そうだ、それにあの日、お父さんがすみれから離れていったのは、お父さんから見れば、すみれの言うことがおばあさんと同じ、お父さんの周りにワイヤーをはりめぐらせることだったのかもしれない。すみれは、よろよろと立ち上がって、部屋を出た。

 明日で夏休みが終わるので、急いで宿題を済ませなければいけなかった。おばさんが、
「すみれちゃん、はい暑中見舞いよ」と言ってはがきを持ってきた。
 すみれが差出人を見ると、名前が無い。いつまでもそこを立ち去らないおばさんに「今頃、暑中見舞いにしては遅いね。誰だかわからないし」とわざと興味なさそうにして、勉強に戻った。おばさんが部屋を出ると、すぐにはがきを読んだ。
 「暑中お見舞い申し上げます」とだけ書いてあるその下に絵が描かれている。川の両岸にたけの高い草が生い茂り、その川が海に注いでいる。そこに一そうのしゃれたボートが浮かんでいて、二人の人が乗っている。大人と子供。夕日が海に沈もうとしていた。すみれは、にっこり微笑んで、はがきに向かって「おとうさん」と言った。