砂猫

 村の真ん中を大きな川が流れている。川中ばっちゃは、あたしのばっちゃで、川に浮かべた船で二人で暮らしている。鮮やかなオレンジ色の窓枠に、ベージュの船体、真っ赤な風見鶏が船首に取り付けてある。全体に見るだけであったかくなる船の色だ。じっちゃがうなぎ漁をしていたときからのもので、当時から派手な色は変わらない。じっちゃがなくなる前は、毎日家から船に通っていたが、ばっちゃが一人になると、漁もしないのに船に住み着いてしまった。船はちっちゃく、船室はあたしとばっちゃが体を伸ばして寝るのがやっとの狭さだ。ばっちゃはじっちゃのにおいが染み付いたこの船の中にいると、寂しくないのだそうだ。
 あたしは、はじめからずっとこの船。この船から岸に下りたことがない。ばっちゃは時々、外へ出かけるけど、あたしは行かない。かもめやサギが遊びに来るし、川の魚を見ていると退屈しない。今日もいい天気だ。
 思いっきり伸びをして、大きなあくびを一つする。時々いびきに変わるばっちゃの寝息が部屋から聞こえる。朝日に背中を暖めてもらいながら、ボーッと川面を眺めていると、いつの間にかまたまどろみ始めている。船は、どんなに小さなさざなみがたっても、大きく揺れるけど、あたしは平気。この揺れが、なんとも心地よく、眠りを誘う。

 「川中さん、いる?」 突然声がして、朝のまどろみが吹き飛んだ。それと同時にあたしは部屋に飛び込んでいた。「はーい、どなた?」ばっちゃは、寝巻きの前をかき合わせ、ぼさぼさの長く伸びた白髪を急いでなでつけ、船室から顔を出した。「協会の馬場です。お休みでしたか」と言うと、いきなり船に乗り込んできた。
 ばっちゃがあわてて戸を閉めようとするが、馬場のほうがわずかに早かった。入り口の戸を押さえ部屋の中を見渡しながら、言った。「ここにお住みになっているのですね。漁をしないでしかも川で生活をすることは、認められてないですから。前にも言ったと思いますけど」 馬場は、わざと目をそらしながらゆっくりと息を吐いた。ばっちゃは、寝巻きのままうなだれて黙っていた。あたしは、といえば隠れるところなんかないけど、ばっちゃの後ろで出来るだけ小さく身を伏せていた。馬場は、ばっちゃが何か言うのを待っているようだった。あたしとばっちゃは声を出さないで話した。『ばっちゃ頑張れ』『どうしよう。とにかく寝巻きのままだし、髪もばさばさだし』 『ばっちゃ、早く戸を閉めて』『あ、そうだね』 すっかり気を抜いておさまりかえっている馬場の不意をついて、ばっちゃは戸を閉めた。馬場はばっちゃにだしぬかれ、「今日は帰りますけど、またきますからね。とにかく違法ですから」と低い声で言い捨てて船から下りて行った。
 馬場が来るには、わけがあった。川中じっちゃが組合長をしていた頃河川改修の計画が持ち上がり、じっちゃが強硬に反対したため、馬場の父親が経営する馬場土建と対立した。じっちゃも馬場の父親もなくなってしまった今でも、息子はそれを根に持って、ちょくちょく出勤前にやってくるのだ。ばっちゃは、馬場がいつも最後に言う「イホー」の意味は分からなかったが、馬場の意地悪の根はよく分かっていた。

 ばっちゃはあたしの背中をなでながらやさしく言った。「この船から出て家に帰らないといけないのかな。でも、この船はじっちゃの忘れ形見。ここにいると、一人取り残された今でも少しもさびしくない。それに、スーちゃんは船猫。船の色とそっくりな砂色で、いつの間にか住み着いている。はじめから船の一部みたいだったから、ここを出て暮らせるとは思えない。スーちゃん、ばっちゃはここにずっといる、安心していいよ。」
 とんとんと軽くあたしの背中をたたいて立ち上がると、「スーちゃん、あさごはん!」といって笑った。あたしのごはんは川にある。ばっちゃは魚つりが苦手だから、かごを沈めておくだけ。エビガニばかりの時は悲しくなるけど、イワナやフナが何匹も入っているときもある。『今日は大漁かな』ばっちゃは手袋をしてかごを手繰り寄せて、重そうにゆっくりと引き上げた。バケツに大きなエビガニがゴトンと落ちて、あとはどじょう一匹、あとはあとは・・・なし。『ついてないな、今日は』『ほら元気を出して』ばっちゃは、バケツからエビガニをつまみ出した。エビガニは大きなはさみをがむしゃらに動かして怒っている。あたしはこいつがちょっと怖い。でもエビガニが船から落ちてしまうまで一日中でも遊べる。あたしはさっそく軽くエビガニにジャブをお見舞いした。エビガニとあたしの戦いの幕開けだ。
 ひものを焼くいいにおいがして、戦いは中断。あたしはばっちゃのごはんを分けてもらって、また対エビガニ戦に。ばっちゃは後片付けもそこそこに、「極楽、極楽」といって仰向けに大の字になってうたた寝を始めた。船は波の子守唄にあわせてタプタプゆれていた。

 遠くで歓声のようなざわめきが聞こえる。あたしはエビガニの大きなハサミに苦戦を強いられ、だんだん戦いに飽きてきた頃だ。声のするほうを見てみると、小さなボートにわいわい言いながら、いっぱい人が乗っている。手に手にオールを持ちせっせと漕いで、川を下ってくる。あたしは、急いでばっちゃを起こした。ばっちゃは、寝ぼけた様子で辺りを見回していたが、ボートに気がついて、「あれは、ラフ何とかといって、遊んでいるのよ。こっちまでこないから大丈夫」『?』「このあたりはヤツメウナギの養殖場だから、こっちに入れない」と言いながら、ばっちゃは、食事の片づけをはじめた。すると、別の船が川下から近づいてきた。「川中さーん、おはよう」「あら、お久しぶり、川端さん。今日はいいお天気ね。」「このところ、困ったもんよ。あれ、見ただろう? なんだか大勢で遊びにくるんだもの。おかげでうるさくて川は荒らされるし」
 川端は、たった一軒生き残ったウナギ漁師。じっちゃの頃は十軒近くあった漁師も、すっかりいなくなってしまった。川端は農家だが、兼業でやってきた。最盛期に参入した新参者だったが、今では、ウナギの価格が急上昇して大もうけ。この川のウナギを独占している。ばっちゃは、片付けの手を止めず、急に忙しそうだ。「この猫、まだいるの?でっかくなったね。このごろこのあたりも野良猫が増えたみたいで、川中さんも気をつけたほうがいいよ、この猫メスだろう」ばっちゃは、せわしなく部屋に入ったり、ほうきではいたりしている。川端は、今日は話があってきたようで、ちょっとやそっとで帰りそうもない。
 「ところで、この船どうするの?大分傷んできている。このまま放って置いたらどうしようもなくなるよ。それにもう漁はしないんだろう。廃船にするのも、金のかかることだし、どうだろうこの船、うちが引き取ってあげてもいいと思っているんだけどね。」と川端さんはいかにも気の毒そうに言った。「いろいろ心配してもらってありがとう。でもそんな気はないの、これはじっちゃの形見だから。今日はこれで」そういうとばっちゃは船室に入って戸を閉めた。あたしは、ばっちゃがそうするのが分かっていたので、先に部屋に入っていた。
 川端さんが行ってしまうと、ばっちゃはあたしを抱き上げてぎゅっと抱きしめた。ばっちゃが泣いているのが分かった。しばらくしてあたしの背中にポトンと一つ暖かいしずくが落ちた。じっとしていることしか、あたしに出来ることがないのが、つらかった。

 しばらくしてばっちゃが思いついた。「スーちゃん、ペンキを塗ろうか。この船が以前みたいにピカピカになれば、あんな事いわれないで済む。窓枠のオレンジ色も、風見鶏の赤色も、まだ家の納屋に残っているはずだから、とりにいってくるわ。本当は、船全体を塗れればいいんだけど、まず手始めに楽に出来て、効果てきめんなところから取り掛かろうね。」 ばっちゃは、すっかり元気を取り戻して、意気揚々と船を下りていった。あたしは、ばっちゃを見送った後、しばらくボーッとしていた。今日はあんまりいろいろあって、すっかり気疲れしたようだった。船にばっちゃがいないと、あたしの心は寄る辺なく、今か今かとひたすらばっちゃの帰りを待つ。でもそれだけではない。ばっちゃが帰るまでは、この船を自分が守らなければいけないと思いながら、船の周りをピリピリしながら歩き回る。そしてさらに、ばっちゃの帰りが遅いと、ばっちゃの身に何かあったのではないかと、心配でいてもたってもいられなくなる。心も体も船を下りて、迎えに行きたくなるけど、それは出来ない。船の外は、あたしの世界じゃないから。実は何度も前足を伸ばしてジャンプしようとしたけど、恐ろしくてどうしても出来なかった。
 いつの間にお天気が変わったのか、空はどんよりして、風も出てきた。風に頬ひげをなでられながら、船に揺られていると、心配や緊張は、いったんどこか遠くへ去ってしまい、眠気が押し寄せてくる。護衛の自分が眠ることは、許される話じゃないけど、眠ってしまう。そこでこんな夢になる:あたしは山盛りのアカツメクサを目の前にしている。あたしの食べ物じゃないけど、守っている。あたしは体勢を低くくして注意を怠らない。そこへ野ウサギが次々やってきて、あたしのアカツメクサを食べようとする。次々撃退するが、追い返しても追い返しても次から次へとやってきて、少しずつアカツメクサはなくなり、ウサギの数はどんどん増えて、もう逃げようともしない。あたしの周りは、ウサギだらけ。あたしの尻尾を踏んづけて、あつかましく平気な顔している。『痛っ!』 とび上がって目が覚めた。振り向くと、今朝追い回していた、そしてすっかり忘れていたあのエビガニがハサミで尻尾を切ろうとしているのか。『冗談じゃない』、あたしは、即時対エビガニ戦に復帰する。
 エビガニは、しぶとく、なかなかの難敵。大きなはさみで挑むことをやめない。でもほんの少しずつ船の隅に追いやり、ついに動かなくなった。あたしは、われにかえってあたりを見回した。もう船の周りに夕闇が広がり、風が雨のにおいを運んでくる。ばっちゃは帰ってこない。『おなかすいたな、まだかな』
 それから、いくらもたたないうちに、ポツポツ雨が降り出し、雨は一気にザーザーと大きな音を立てて船を激しくたたきはじめた。あたしはあわてて、船室の扉にばっちゃが作ってくれた専用入口から船室に飛び込んだ。雨の音がうるさくて、他の音は何も聞こえない、でもぬれるよりましだから、隅にうずくまってじっとしていた。どれほど時間がたったのか分からないが、気がつけば船室もあたりも真っ暗、相変わらずの雨音。どうやら眠っていたようだ。それにしてもばっちゃはどうしたのだろう。どうして帰ってこないのだろうか。

 雨はますます勢いを増して、川に浮かぶ木の葉のような小船を打ちのめし始めた頃、ばっちゃがずぶぬれで帰ってきた。両手にペンキの缶、背中に大きな荷物をしょって、倒れこむように船に乗り込むと、雨に打たれたまましゃがみこんでいた。あたしは、ばっちゃが帰ってきたことがうれしく、部屋の中を走り回った。一息ついた後、ばっちゃは荷物を部屋の外に置いて、「スーちゃん、遅くなって、ごめん。おなかすいたろう、今いいものあげるから」と、いいながら入ってきた。ばっちゃは、着替えをしながら、「ペンキの缶、刷毛ついでにトンカチ、くぎ抜きなどの大工道具、つり道具、魚の缶詰、飲み水・・・みんな持ってきた。家から船までそれほど遠くないけど、重すぎて続けて10歩も歩けない。荷物を降ろし休みながら、少しずつ歩き続けたのでこんなに遅くなってしまったの。そのうち雨が降ってきて・・・」とまだ息を切らしながら話してくれた。そして、横になると、すぐ眠り始めたので、あたしはばっちゃのところに行って、おなかにくっつくと、「ごろごろ」しながら、ばっちゃの手をやさしくなめた。

 次の日も、次の日も雨が降り続き、ペンキ塗りはお預け。ばっちゃは、すっかり疲れてしまったのか、部屋で眠るばかりだ。何日かたったある朝、川の土手に車が止まり、激しく降りしきる雨の中を二人の男がこちらに駆け下りてきた。一人は馬場でもう一人はしらない人だった。「川中さーん、川が増水しているので、避難してください」馬場じゃない人が大きな声で叫んだ。ばっちゃは、起き上がって、窓を少しあけて、男を見た。協会の人だ。いつもの意地悪ではないと思ったけれど、船からおろそうとしていることに変わりはなかった。馬場は何も言わず、やや後ろに立っている。その表情は分からないけど、威圧感があった。川の水が増え、どんどん流れも早くなっていることは、いやでも分かっていた。ばっちゃは、すんなり「はい、わかりました。片付けをして家のほうに避難することにします。ご苦労様」と言った。すると今まで黙って後ろにたっていた馬場が「早くして下さい。われわれが見届けます」と言って、何か手伝うことがないか、たずね、車で家まで送るとも言った。とにかくばっちゃが船から家に避難するまで、てこでも動きそうにないのだ。ばっちゃは、今、船から下りてしまったら、もう戻れなくなるような気がした。

 雨脚ますます激しく、風も強さを増して、岸辺の二人は立っていることも目を開けていることもままならない。「馬場さん、もう言うことは言ったので次のところへ行きましょう」ともう一人の職員は止めてある車のほうへ駆け出したが、馬場は、なにやらなおもしばらくぐずぐずしていた。ばっちゃとあたしは、時々来る大きな風に、船をあおられ、部屋の中で、身の置き所に困って、右往左往している。川の水はかさを増し、吹く風はますます勢いよく、船は大きなうねりに乗り上げたかと思うと、一気に川底に真っ只中のシーソーゲーム。岸にあふれんばかりの水と怒り風のせいなのか、船のもやい綱は、いつの間にか外れていた。
 川幅いっぱいの大水は激流となり、小さなばっちゃの船を今にも飲み込まんばかり。あれ狂う暴風は船をくるくる回してもてあそぶ。岸に立って船を眺める馬場がだんだん小さくなっていき、ついには岸がどこなのか、どこへ向かっていっているのか皆目分からなくなった。ばっちゃとあたしは、部屋のすみにゴツンゴツン体をぶつけながら、なにも出来ずにかたく目をつぶっていた。
 木の葉のように、船は風に舵を奪われ、水に流されていた。
 「スーちゃん、怖くないからね。」と念仏のように繰り返しながら、ばっちゃは、部屋のすみに固まっているあたしの方に、いざりながらやってきた。手を伸ばして、あたしの体を持ち上げ、懐に入れた。「ばっちゃも、じっちゃの懐にすっぽり入っているんだもの」と言ってすこし顔をくしゃくしゃにした。笑ったのかもしれないけど、あたしには泣いているようにも見えた。 『ばっちゃ、大丈夫だよ、じっちゃがばっちゃを入れ、ばっちゃがあたしを入れているのだから。これほどの安心はないよ』 『スーちゃんとばっちゃ、二人の船出だよ』
 船は、ぐるぐる回りながらどんどん下流に流されていく。川岸にも大きな岩にもぶつからず、水に飲まれもせず、壊れることもなく古い小さな船のまま流されていく。
 船が大きく揺れるたびに水が部屋の床を濡らす。そして水溜まりができ、だんだん大きくなっていく。水は塊となって部屋中を走りまわる。ばっちゃは、急いでかい出そうとするが、うまく立つことが出来ず、転んで水を浴びる。徐々に部屋は水に浸かっていく。あたしも、懐にじっとしていられない。窓枠や棚に飛び移りながら、ばっちゃから目をそらすことが出来ない。このまま船が沈んでいくのかな、と二人が思い始めた頃、雨音がやみ、風も静かになった。急に静かになったので、外を見ると、川岸が遠くにかすんでいる。もうすぐ海だ。ずいぶん長く川を下ってきた。ばっちゃは、服やタオルやらなんでも手当たりしだい、布を部屋の水溜りに浸した。水を一通りぬぐってしまうと、その場で眠った。あたしも眠って夢を見た:しゃれたハウスボートが海をいく。今にも沈もうとする大きな夕日に向かってまっしぐら。もう間に合いそうにないけど、最後まで全力疾走する。待ってお日様!あたしとばっちゃを待ってくれるよね。こんなに一生懸命船を走らせてきたのだもの、おいていかないよね。
 もう少しで夕日に手が届くというところで、目が覚めた。あたりは、夢と違って薄暗く、曇っている。ばっちゃも目を覚まして、背負ってきた荷物に手を突っ込んでゴソゴソ何かを探している。「食べ物も水も持ってきてよかった。ここは海なのか、それともまだ川なのか・・・。どっちでもいいから、まずは水を飲んで腹ごしらえ」ばっちゃはもぐもぐ干し魚を口に入れ、あたしにもくれた。あたしには魚はかたすぎて、かめばかむほど脳に響く。何も考えられないほどあごも疲れる。頭を右左に振りながら干し魚と格闘していると、いつものばっちゃの話が始まった。
 「じっちゃは若い頃、外国船で甲板磨きをしていた。おかげで世界中回った。あるときヨーロッパの運河に停泊する船で暮らしている人たちを見て、いつかはこんな暮らしがしたいと思ったそうだ。ばっちゃと結婚した時からずっとその夢のことを話していた。船は、いつもは運河に止めていて、いつでも好きなときに海に出て旅が出来るんだって。だから、じっちゃは漁船に風見鶏をつけて、部屋を作り、こんな派手なペンキを塗って、夢に一歩でも近づこうとしていたんだよ。窓辺にゼラニュームの鉢を置いてたこともある。ばっちゃはじっちゃが立派なボートを買って、本当に海を航海する日が来るといい、と思ってた。じっちゃが船の話をするときが、ばっちゃは一番好きだった。だからこの船は、じっちゃの夢の化身だ。」
 あたしは、何度も聞かされてすっかり覚えてしまったばっちゃの話を聞いているのが好きだった。聞いていると、すでに何度も見た映画のように、すべてのシーンがよみがえる。じっちゃは死んでしまったけれど、じっちゃの思い描いた夢は、生き続け、今もあたしとばっちゃを幸せにしている。
 いつの間にか船は海の波間を漂い、潮の流れに乗って、沖へ向かっていた。ばっちゃは、船にモーターがついているのを知っていたが、使い方を知らない。風見鶏につかまって、ばっちゃがそっと言った「このまま、スーちゃんと旅にでる。もう戻らないから、いいね」。『やっとだね』 あたしは、まだ行ったことのない国の行ったことのない町のことを思い描いて、これから行けると思うとうれしかった。どんよりと曇った空に、どこから現れたのか数え切れない数のカモメが、船の上を舞い始めた。カモメの鳴き声がうるさくて、そのなかに混じる他の音には気がつかなかった。

 突然、沖のほうからけたたましい音を立てて大きな漁船が近づいてきた。「どこから来たの」漁師らしい人が声をかけた。ばっちゃは、「川から来た。もやいが切れて流れているけど・・・」と後は小さくつぶやいて、それから『放って置いて』は言わなかった。漁師は、「今助けるから」と言ってまず、ばっちゃを漁船に移そうとし始めた。ばっちゃは、「船から出たくないのです。ほっといてほしい」と、おずおずと言った。漁師は、一瞬きょとんとばっちゃを見た。「どうやって川へ帰るの。操縦できるのだったら、いいけど。ちょっと見せて」と言いながら、漁師は船に乗り込んできた。「こりゃだめだな、ぜんぜん使ってないんだね。仕方ない、じゃ、引っ張ってもらうわ。俺、頼んでくるから心配しないでこのまま待ってて」漁船は猛スピードで行ってしまった。ばっちゃは、あたしを抱いて、立ち上がり、じっと船に打ち寄せる波を見ていた。

 戻らないわけにいかない。じっちゃとあたしと一緒に元の川に戻らないと言うことは、ばっちゃには出来ないこと。ばっちゃに出来ることは、じっちゃの船からはなれずにいること。スーちゃんと一緒にこの船で暮らし続けること。そうしていれば、いつか旅が出来るかも知れない。ばっちゃは、そう考えを決めて、ぽんぽん船に曳かれて川に戻っていった。
 川に戻ると、川端さんが待っていて、船をつないでくれた。「大変だったね。流されたって聞いて、心配してたんだ。怪我はないかい?それにしてもこの船、なんともなってないようだね。こんなにしっかりした船は、もうこのごろじゃつくることは出来ないだろう。たいしたもんだ」と言って、握り飯をばっちゃに渡して帰っていった。あたしは、握り飯のにおいの中に好物の鮭のにおいをかぎつけた。『おなかがすいていたことをすっかり忘れていたよ。早く食べよう』 『うん、有難くいただきましょう』 『ばっちゃ、よかったね』 『うん、いつかきっとスーちゃんと、旅に出る、それまで元気出して、また頑張るよ』 船を闇が包み、どこからやってきたのかコオロギが一匹、船のへさきに止まって静かにないていた。

 次の朝、いつもより寝坊していると、出勤前に馬場がやってきて「川中さん、無事だったんですね、港のほうから協会に連絡があって聞きました。すぐに来ようと思ったのですが、あちこちで川があふれて、対応に追われてしまってね。それで、いつも言っていることですが、やはり川にすむのは危険でしょう。昨日みたいなことがまたいつおきるか分からない。はっきり言って、何が起きてもこちらは責任が取れないと言うことですよ。今回のことも、漁業組合の好意で費用やらなにやらは要らないということだから、いいですが、ま、あんまり自分勝手なことは、やめたほうがいい。みんなに迷惑をかけるんだから」とまくしたてた。ばっちゃは、「ごめんなさい」と言って深々とお辞儀をして、頭を上げずにずっとうなだれていた。
 あたしは、めそめそ泣いてばかりいたばっちゃがなんだか少し強くなったように思う。大雨がじっちゃの思いを運んできたのだ。じっちゃは今でもばっちゃのことが心配で心配でたまらないのに違いない。ばっちゃは一人ぼっちじゃないことを感じたんだな。きっとそうだよ。