神も仏も元気な国-インド

チャンディガル行

チャンディガルは、ニューデリーから北へ240キロほど行ったところにある町。ヒマラヤ山脈山麓のシバリク丘陵地帯にある。インドとパキスタンに分かれてイギリスから独立した後、パンジャブの乾いた大地の中心都市ラホールがパキスタン側に行ってしまったので、ネルー首相は、彼の新しい国家、進歩主義の信条を具現する新たな町の建設に着手した。その町はヒンドゥー教の女神の名を取って「チャンディの砦」と名付けられた。大学生村野遥子は、来年卒業予定なのに卒業論文未完どころか未着手、就職先未定のまま、十一月にこのチャンディガルにやってきた。

自宅通学生の遥子は、親の資金援助なしで毎月三千円の奨学金と、連日の家庭教師のアルバイトで書籍代や交通費などを賄い、あと少しで卒業というところまでこぎつけた。卒業して就職して、親から自立する事は、まぎれもない目下の目標だ。でもそれと同時にいつかは、インドに行きたいという漠然とした夢があった。
大学は、ヒンディ語専攻で入学したのも高校生の時インド哲学の思想に興味を持ったことからだった。だが入学後、まさかの語学で躓いた。というのも教科書が入手困難で、注文してから船便で着くときにはたいてい新学期から二、三ヵ月経っていた。そして本が手に入っても辞書がなく、いや、そもそも買いたくても辞書というものがなく担当教授が毎回配布する手書きの語彙集を湿式のコピー機で擦り、紫色ににじんで不鮮明な文字を頼りに学習するのだった。語学の学習は、もともと苦手ではなかったが、ヒンディ語は思ったよりいろんな意味で手ごわかった。強固に持っていたはずの興味はいつの間にか次第に薄れていった。大学構内は政治的スローガンが踊る立て看板が林立する奇妙ないわば戦場で、自分事に汲々としている遥子みたいなノンポリ学生は、肩身が狭かった。
本もない、辞書もない、こんなことをしても話せるようになるのだろうか、たとえ話せるようになってもそれをこれからの経済的自立のためにどう生かすことができるのだろうか、という考えに困惑した。経済的自立とヒンディ語習得を結ぶ糸を見出すという課題は、学部学科を選ぶ入学前にすでにあった問題であったに相違ないけど、あえて背景に押しやって来た。
夏休みや冬休みには、どこにも遊びに行かず長期のアルバイトをして貯金に励んだ。デパートのお歳暮お中元商戦には客が押し寄せ、イベントや見本市など間断なくどこかで開催され、経済状況は今までにない活況を呈し、学生はアルバイトに事欠かなかった。少なくとも遥子にはそう思えた。アルバイトは同じ大学の学生仲間の紹介が多く、たいてい何の審査や面接もなく採用された。手渡しで渡される報酬は、銀行にもっていくと確実に増えた。いつの間にか社会に出ていくことがそれほど不安でない、すこし甘く見るようになった。ほとんど物にならないヒンディ語を生活の糧にできないことを直視すると、就職の間口はぐんと広がった、と思った。経済的自立と中途半端なヒンディ語を結ぶ糸はない、と見定め大手の商社をはじめとする企業に応募することにしたが、入口で「女子の皆さんはそこに連絡先と名前を記入しておかえりください」と門前払いされることが続いた。同じヒンディ語専攻の男子学生は大手の商社、銀行、メーカーなどから早々に内定をもらっているのに、遥子には一切どこの会社からも連絡はなかった。
遥子は、就職で躓いた。こんなことはどこの世界でもいつの時代でも誰でも経験するだろう、と思ってはみたが悔しさにあとからあとから涙が込み上げてきた。幼いころから母親は何かと男女の違いをやかましく言う人で、二人の兄たちと遥子は待遇に差をつけられた。食事の準備から食器の後片付けは女の子の仕事、自転車や遊び道具も男の子には惜しまず気前良かったけれど、人形やおもちゃをねだっても一々渋い顔を見せた。大正生まれの母は、奇妙な価値観を遥子と姉に押し付けた。
「女の子は、お金をかけて育てても結婚をして家を出ていくと親の面倒なんか見ないから家を継ぐ男の子とはおのずと違うわ」
姉は、従順に母の言いなりになっていたが、遥子は、早々といい子でいることをやめた。とはいってもあからさまな反抗的態度は、自分に不利になるので要領よく立ち回った。後片付けに関しては兄の食器を流しに運ぶのは嫌なので、その時は、席を外す。不平等であると言ってみても、もともと公平の観念がない母には通用しないので、論を避けてその場を切り抜けるすべを磨いた。大学進学も「女の子には大学はいりません。早く結婚した方が幸せよ」
ということで反対されたが、当時授業料が毎月千円の国公立大学で授業料以外のすべての費用を自分で賄うという条件で、入学を許された。父は高校の教員で、一つ上の大学生の兄は車を買ってもらっていたので、それほどお金がなかったとは思えない。
家庭と学校とは、小学校の時からまるで別世界だった。
女の子でも学級委員になれたし、勉強にも体育でも成績がよければ誉め言葉や賞状で賞賛してくれた。敗戦後日本の教育は、一新したのだ。家庭のなかではいまだ旧弊な価値が支配していたが、学校には自由、民主の戦後の新たな気風が満ちていた。その理想的に見えた世界は、そのまま社会に通じていると固く信じて、ひたすら好きでもない勉学に励んだ。この息が詰まる理不尽な家族から離れ、自立した社会人になれば、どんなに自由で幸福になれるだろうとその一心で夢を見つづけた。
社会人への第一歩は、遥子にとっては立ち上がれないほどの絶望をもたらした。家庭の秩序は、社会の秩序と同じであるという現実を知っただけでなく、学校という世界がどこにもない理想を追求しようとしている別世界だった、と知った。家庭が学校と別な価値を持ち、学校は社会とも別な独特の価値をもつ。学校は、社会への通路ではなく家庭ともつながりがない浮いた場所なのだ。そしてもう一つ、遥子は気づいたことがある。男女の区別では確かに平等だったかもしれないが、例えば成績の優劣では、優秀さをもってその生徒は何かと優遇されたりするが、反対に劣等生というレッテルを貼られると扱いが雑になったりする。学校にも是とする価値があるから、それに合致しない生徒は不当に冷遇されることになり学校は、行きたくない場所となっていたこと。つまり真に平等だったのかと。学校もやはりみんなが集いたい理想の天国ではないということもついでに分かった。

同行の二人

関矜子と遥子はヒンディ語クラスで出会った。ある夏の日、就職活動がうまくいかず、この先どうすればいいのか途方に暮れていた遥子に矜子は言った。
「K助教授の研究室の前に、張り紙がしてあってインド人の文通希望者がいるらしいよ、見に行ってみない?」
二人が研究室に行くと、K先生は一枚の紙をくれた。それにはインドに興味を持っている日本人との文通を希望している旨が英語で書かれてあった。
「興味があるなら手紙を出してみたら」と事務的に言っただけで先生は特に何も言わず、二人は、紙を貰って部屋を出た。廊下を歩きながら、遥子は、入学当時から漠然とインドへ行ってみたいという思いを抱いていたことを思い出した。一時の夢か淡い憧れか、生活と未来に対する不安からいつの間にか諦めて心から追い出していた。学生生活も終わろうとする今、たった一枚の紙を見て、インド行への熱い思いが急に胸をついて蘇った。すっかり消えてはいなかったのだ。その足で、大学近くにある矜子の下宿に行き細かい字でびっしりと書かれたインド人の手紙を読んだ。インド人青年の名はスレンダル、独身の会社員で、日本に興味がありインドに興味を持つ日本の人と文通を望んでいるとのことなどが切々と書かれていた。その字体から几帳面な性格がうかがえたが、何一つ具体的なことは書かれていず、よくある文通のお誘いのように思われた。遥子は、「なにかうさん臭いかな」と言った。
今は、まだ一行も書けていない卒業論文に集中する時であり、とにかく卒業までに職を見つけることが先決なのに、こんなことをするのはばかげていると思った。だからこんな手紙は、先生に返して元の途方に暮れた現実に戻る方が今は苦しくても、長い目で見ると身のためなのだ、と思った、いや思おうとしてやや批判的に言った。矜子は、手紙をもう一度じっくりと見て、「ねえ、チャンディガルよ、彼の住所、ここ見て」と言った。紙をあらためて見るとチャンディガルと書かれている。
チャンディガルと言えば、ネルー初代首相がインドの新しい国造りの進歩主義の象徴としてフランス人に設計を依頼して町を一から作ったことで知られている。褐色の大地の上にいったいどんな街が出現したのか、見てみたい気になった。そういえば、インドの現在について新聞やテレビなどでほとんど見ることも聞くこともない、ただ、連日テレビ画面には、アメリカの若者たちが反戦運動の中で、あらゆる既成の社会秩序からの自らの解放を叫びデモや集会を繰り返す映像が流れていた。その関連で、彼らの人生の新たな価値の追求の先にある理想郷として、インド哲学なのか、東洋的精神一般なのかわからないが、ラビシャンカールの音色とともに背景としてインドの映像が使われるぐらいだった。それは、どこかにある楽園のように感じさせ、大学で学んだ複雑で多様な葛藤の坩堝としてのインドとはあまりに乖離があった。実際、インドについてのリアルな情報は、最新の地図すら手に入れられないほど一事が万事枯渇していた。
「行ってみようか、パンジャブへ。今を逃したらもう行けないかもしれない」と遥子が言うと、「そうね、社会に出たらそうそう休みがとれないし、いつか行ってみたいと思っていたから卒業前の今がチャンスかもしれないね」
と矜子が応じて話は決まった。
もう夏が終わろうとしている。善は急げ、スレンダルにインドの旅行を計画しているけどその協力をお願いできるかどうかを打診する手紙を書いた。三週間ほどして返信があり、その文面から喜びと優しさが感じられ、私たちのインド旅行を心から歓迎する、何もかも任せてほしいと書かれていた。そして眼鏡をかけた真面目そうなインド青年が微笑む写真が添えられていた。その後の彼とのやり取りはスムーズにとんとん拍子で進んだ。大阪国際空港のカウンターでキャセイパシフィックとタイ航空のチケットを購入した。十一月一日から一ヵ月インドに滞在することが決まって、チケットを買って、残りの所持金を確かめたら二十万円ほどだった。宿泊を含めて滞在費がどれくらいかかるのか見当がつかなかったが、旅の宿泊地をはじめ後のことはスレンダルにお願いすることにした。
しかし、気がかりは卒業論文と就職だった。遥子は安易な見積もりを立てて納得することにした、つまり卒論は、十一月の出発までにあらかた書いてしまって、十二月の一ヵ月で仕上げればいい、職は、どこでも良ければ年明けに見つけることができるはず、と。そして初めての海外旅行にワクワク心躍る毎日がおとずれた。大学でも家庭教師先でもインド行きのことを話したが、話せば話すほどみんな一様に、暗い心配するような顔になった。遥子のクラスメートの中でインド旅行の経験者がいた。彼は、はしゃぐ遥子にボソッと言った。
「僕は、デリーでひどい目にあった。タクシーに乗ったら、知らない砂漠のようなところに連れていかれて所持金からパスポートまでみんな盗られてしまった。怖かったから気を付けた方がいいよ。僕は男だからまだしも女の子二人で行くのはどうかな」
「あなたが言うのが本当ならそれは怖いけど、私たちにはガイドになってくれるインドの人がいるから大丈夫」ときっぱり言って、親身になってくれる人の懸念をやり過ごした。内心ではスレンダルの笑顔にそれほど信頼がもてなかったのだが、今更、不安を理由にやめることは考えられなかった。行きたいから行くしかないのだ。そして家族に言うのは最後の最後、出発の時と決めた。お金を無心するのでなければ母は、何も言わないし反対することもできないはずと思ったが、どんな横やりが飛んでくるかわかったものでないので、知られることを恐れた。旅行用品を買うのに軍資金は多ければ多いほどいい、それで今まで以上にアルバイトに励み、卒論のことは忘れた。そして出発まであと少しになって大きなスーツケースを買って家に持ち込んだことで、家族にばれてしまった。母の嫌味は留まるところを知らなかったけれど無視することができた。しかし父が今までになく真顔で、
「ヨーロッパで日本人学生がいなくなったみたいだから、気を付けた方がいい。何があるかわからないから」と言ったことが、何か心に引っかかった。
「はい、十分に気を付けます」と素直に言って、もう隠さなくていいと安堵した。
今は、行くのだ、走っていくのだ。見たら走れなくなるかもしれないものは、見ないで走るしかない。遥子の心は、青い空と褐色の大地にすでに向かっていた。

ダッカ

遥子は、目覚めた。機内は静まり返っていた、そればかりでなく飛行機のエンジン音も聞こえない。何か変だと思って隣の席の関矜子の方を見ると彼女は本を読んでいる。
「ニューデリーについたの?」
遥子は、そう言って、体を起こしながら窓の外を見た。明かり一つない真っ暗な闇が外に広がる。
矜子は、本から目を上げ遥子の方に顔を向けて、
「ダッカみたいよ。さっきからずっとこの調子で一向に飛び立たないのよ」
女子大生二人は、今、このキャセイパシフィック航空の翼に乗って大阪からインドへ向かっている。途中トランジットでバンコクに一泊したのだが、遥子は、初めての海外旅行ではしゃぎすぎて一睡もできず、バンコクを出発したあたりからずっと今まで爆睡していたようだ。
矜子は、少しイライラしたように
「機内アナウンスが何度かあったのだけれどあんまり聞き取れなくて、事情がよくわからない、それに機内は真っ暗だし、なぜかみんなとても静かなのも不気味」と言いながら徐々に声を落として遥子の顔をのぞいた。
「給油か何かじゃないのかな。それより私たちは、今バングラデシュにいるのだね」
遥子は、感慨深く言うとすぐに独り言のように付け足して
「この前ほんの一、二年前にパキスタンから独立したばかりの生まれたての国にやって来たってわけか。そりゃ、窓の外が真っ暗なのもうなずける」
と言って遥子は窓枠に頭をもたれさせて再び目を閉じたが、もう全然眠くなかった。
遥子の親族や周りに仏教関係者がいるせいか、小さいころから自然と仏や仏像に馴染んでいた。特に道端の地蔵や寺院のたたずまいに安らぎを感じていたが、その安らぎと仏教的なもののかかわりを自覚したのは、大学に入学後、九州で摩崖仏を仰ぎ見た時だった。自分というものが何なのか、どれが本当の自分なのか模索していた中で、巨大な摩崖仏を目の当たりにして一瞬それを考えなくてもよくなった。受け入れられているという感じを確信した。
しかしそんな感覚は感覚としては明快であっても、自分自身としてもとらえようもなくすぐに消え、その後は特に寺院詣でをするわけでもなかったが、一瞬の自分をとらえた感じは強く心の底に残った。大学では第二外国語としてベンガル語を選択した。それにはいくつかの理由があった。まず、ベンガルの地は、インドで仏教が最後に潰えたとされる国があったところだ。かつての僧院を復活させ仏教を保護したが今のアフガニスタンから侵攻してきたイスラム教国に滅ぼされ、以降衰退したと言われている。仏教は、それまでもその後も日本やチベットなどよその国に伝播して広まったので不思議である。長きにわたって生きながらえた仏教が、釈迦生誕の地でなぜほぼ消滅したのかそのわけを知りたかった。そもそもインド亜大陸には異なる宗教がいくつもあって、対立や紛争を繰り返してきた歴史があるけど、一方でそれなりに共存してきた。仏教は国内では廃れて外へ広がり世界的な宗教となった。
インドでは人々にそれほど受け入れられなかったということなのだろうか。宗教の対立という問題は、日常的にどう対処しているのだろうか、ヒンドゥ教、イスラム教、シク教、ジャイナ教など多くの宗教の違いを乗り越える術があるなら知りたいと思った。
それから、歴史的な観点では、イギリスがインドを支配することになった出発の地として東インド会社の拠点を置いたのがこのベンガル地方であったことだ。当時イギリスだけでなくフランスやポルトガルなどの商館がベンガル湾沿いに立ち並び、国際都市の景観を呈し大いににぎわっていたという。各国が植民地争奪戦を繰り広げる中、イギリスが勝利をおさめ最終的に経済のみならずインド全土を支配するまでに至った大きな契機となった紛争が起きたプラッシーという村もこのベンガル地域だった。ムガール帝国は、東インド会社に徴税権を与え、司法権も移り、軒を貸して母屋を乗っ取られたわけだが、遥子の興味は、インド亜大陸は、何度となく侵略者に乗っ取られてきたが、20世紀半ばにはパキスタンの分離独立はあったもののその後は、独立国として、しかも民主主義的な国として一体を保っているのは、どうしてなのか何か秘密があるのか、ということだ。ヨーロッパほどの広さなら民族、言語も宗教も異なる小国に分かれても当然のような気がしていたからだ。矜子は、思い出したように「そうそう、分裂と言えば特にここベンガル地方とこれから行くパンジャブ地方にはインドが抱えるその種の問題があったよね」と語り始めた。「例えば、紅茶の名前で知られるアッサムのナガ族の自治独立を要求して反乱を繰り返しているけど、もともと言葉が異なる人々の間で対立があったこと、それにイギリス植民地期にイギリスは、恣意的にそれをあおったのかどうか分からないけど、対立を利用してベンガル語を話す人は、役人や教員などの支配的な地位につかせ、アッサム語を話す人は下位に置いたということも関係して、対立がエスカレートしたと言われている。バングラデシュの元の東パキスタンがインドから分離独立したこともイギリスのインドに元からある違いに目を付け対立をあおって全インドが団結しないように分割統治する政策が関係していると言われている。イギリスは、反イギリスの全インド国民協議会が発足したことを受けて、メンバーをイギリス側が任命するインド国民会議を作った。全インドが一丸となって反英になることを恐れた、でもこのインド国民会議はのちに政党となってイギリスからインドが独立するための勢力となっていったのだから皮肉よね」それを受けて遥子は、「ムスリムとヒンドゥは、違う宗教だけどムガール帝国の時代の皇帝がヒンドゥとの融和政策をとったり、ヒンドゥの花嫁をもらったりしたときは、一番栄えて領土が拡大したから、やはり治世者の政策って大きいと思うわ」
すると、ゆっくりと飛行機が動き出し、ベンガルに、と言っても今はバングラデシュだが、暗闇に別れを告げ飛び立った。隣の矜子と顔を見合わせて「よかったね」と言って喜び合った。

デリー

ニューデリーのパーラム空港に着き、手続きを済ませ出口に向かおうとすると、がらんとした大きな格納庫のような場所に出た。そこから下りの長いエスカレーターで出口まで下りていくのだが、下の方に明るいガラス張りの出口と、付近にパラパラと出迎える人々がこちらの方を見上げる姿が目に入った。大きなスーツケースを落とさないように気を配り、超低速のエスカレーターで下りながら、迎えの人の中にスレンダルがいるか探した。飛行機がニューデリーに近づくにつれ矜子と写真の彼の顔を目に焼き付けていたのですぐに分かり、あの人ではないかと、ささやきあった。写真と同じ黒縁の眼鏡をかけた浅黒い顔がにこやかに手を振っていた。彼は、人のよさそうな中年のおじさんのように見えた。二人は、彼が来てくれていたことに心底ほっとした。今度の旅行は、すべてスレンダル頼みだった。その危うさが心をよぎる時はいつも無視して心はインドへと突っ走ってきた。実際彼が迎えに現れなければ、その時点で途方に暮れるしかなかったのだ。今夜の宿もきまっていないし、それどころかその後の旅程も何もかも白紙だったからだ。言葉短く挨拶と自己紹介を交わして、スレンダルは、タクシーを探すと言って出ていった。二人は、外に出てインドの空気を吸って改めて思った、今インドにいることが信じられない、と。就職も卒論も投げ出してきたことは、忘れることにした、少なくともこの一ヵ月の滞在中は未知の世界を味わおうと決めた。空港の周りは何もなく人もまばらで秋の風が心地よく吹いていた。
黒い大きなタクシーに荷物を入れ、三人はゆったりと後部座席に座った。タクシーが空港から出ようとした時、スレンダルは運転手に何か声がけしてタクシーは停車した。隣の遥子に電話をかけると言って車を降り、遥子は、「電話を掛けるって」と矜子に告げた。運転手は無言、二人も無言のまま時間が過ぎていく。10分くらい過ぎただろうか、助手席に一人の男が乗り込んできて、後部座席の二人に向かって言った。早口にまくしたてる男の大きな目が異様で気圧され何を言っているのか聞き取れない。男はいったい何者で何か問題が起きたのか、さっぱりわからないが遥子は心を落ち着けようとまず大きく深呼吸をし、もう一度聞き取りに挑戦した。そしてどうやら男は、スレンダルについて聞いているようだった。
知り合いなのか、友達なのかどういう男なのか君たちは知っているのか、というようなことを強い訛りのある英語で詰問していた。あと一歩で空港から外に出るのだが、まだここは空港の敷地内でありタクシーから降りようと思えば降りられる。スレンダルという人は、助手席の男が言うように最近になって数回文面でやり取りしただけのほぼ見知らぬ人である。スレンダルにまつわる不安要素が鎌首をもたげた。さらにタクシーで砂漠に放置された先輩の話が現実味を帯びてきた。それに加えて運転手が終始無言であることが不気味に思えてきた。タクシー内は、助手席の男を乗せたままスレンダルなしで今にも出発しそうだ。矜子も遥子と同じ感じを持っていたらしく、矜子が「そういえばスレンダルの事あまり知らないよね、さっき初めて会っただけで、でもかといってこの男の人は大丈夫かな」と日本語で言って遥子と顔を見合わせた。遥子は心を落ち着かせようと必死になりながらも、この男とスレンダルの違いは何か考えた。ともに怪しさがあるがその違いは数回文通をしたこと、であるけど、ただスレンダルは大学の先生の紹介の相手だということで、それは大きいと思った。たった今乗り込んできた男が空港の警備か何かの関係者だとして二人に対して何も名乗っていないし、仮に何か見せられてもその身分証が信用できるものなのか判断できない。文通というわずかな接点でも決定的だという結論に達したので、「彼は私たちの友人です。よく知っている人なのです」と遥子はきっぱりと答えた。それからも何度も何度もしつこく確認を続けてタクシーから出て行く気配はなかった。遥子は、こんなに長くスレンダルが戻ってこないことに一抹の不安を覚え始めた。ひょっとして戻ってこないのではないか、いや、運転手とこの男とみんなグルなのかもしれない。このままスレンダルが戻らなければ、タクシーが発車して・・・、不安は徐々に恐怖に変わり矜子とひきつった顔を見合わせた時、ようやくスレンダルが戻ってきた。それと同時に男は出ていき、二人はやっと一息をつくことができた。
スレンダルは何も言わずタクシーは何事もなかったように街に出ていった。郊外の風景は高い建物もなく民族衣装に身を包んだ人々が午後の日差しの中で動いていた。地面には大きなプールのようなものがいくつも並び、色とりどりの布が物干しロープにはためいている。「あれは何をしているのかしら」と遥子は初めて親しみを込めてスレンダルに話しかけてみた。「洗濯屋だよ」とスレンダルは前を向いたまま短く言って会話は途切れた。珍しい木々や花は美しく街路を飾っている。目を遠くにやると畑が広がり、よく見るとたくさんの人々が土色の布を頭からかぶって黙々と何やら作業している。タクシーは、小さな商店が並ぶ集落をいくつも通りさらに快調に走る。遥子は、スレンダルと話したいことがいっぱいあるのに、タクシーがどこへ向かっているのかということさえ聞けずにいた。
しばらくすると前方に大きな円形状の建物が見えてきた。タクシーが近づくと巨大な円柱が何本もそびえて屋根を支えているのが分かる。スレンダルは「コンノートプレイス」と隣の遥子に言って、タクシーを止め、三人は降りた。見上げると円柱の林のようで壮観である、そして初めて見るのに妙な既視感がある。訪れたこともないのにイギリスを感じた。遥子は、「これはいつ頃誰が作ったのですか」とスレンダルに聞いたが、彼は聞こえなかったのか何も言わず荷物と二人を置いて小走りに階段を上がっていった。建物はすすけた灰白色で、二重になった円柱の林の間の通路は明かりもなく暗く、建物の内部は一層何も見えない。あたりは野原のように何もなく威風堂々の構築物が見当違いに浮き上がって見えた。どれほど待っていたか、ようやくスレンダルは小柄で小太りの男性とともに一本の円柱の所に姿を現した。しばらく話し込んでから遥子たちの所に来て、丸顔で髪をきっちりとセンターわけをしたその紳士は、ゴールと名乗った。物腰と風格はスレンダルと違ってなんとなく威厳が感じられた。ゴール氏は何者なのか、スレンダルと文通をしていたけれどこのゴール氏は名前すら聞いていなかった。だがゴール氏を見た感じから、遥子は、ここで何か質問をするよりこの流れに任せようと決めて、促されるままタクシーに四人で乗りこんだ。タクシーに乗ってからは、ゴール氏の独壇場だった。コンノートプレイスはビクトリア女王の子息の侯爵の名前を取ってつけられたイギリスがインドを統治していた時代に作られたもの、とか、来るときに見たけどスレンダルに聞けなかったインド門については、その建設の経緯からインド総督の官邸の美しい柵や門の凝らした意匠についてまで誠に饒舌に語ってくれた。とりわけ真新しい不滅兵士の墓 四つの炎については、これ以上ないほど熱く語った。もっともタクシーの窓から見るだけで通り過ぎてしまう数々の遺構や建築物を目で追うのに精いっぱいで、ゴール氏の詳しすぎる解説はほとんど耳に入らなかった。ひょっとしてこの人は観光ガイドなのかもしれないと思った。タクシーは、ラール・キラーという赤い城に向かいそこで止まった。四人は降りてそこから丈の高い城壁の周りを歩いた。ゴール氏は、ムガール帝国の歴史を語りながら、現在は軍の施設として内部に入れないということを残念そうに繰り返した。再びタクシーに乗り、ラージガートを横目で見てクトゥブ・ミナールへ向かった。その間も街路には人があふれ物珍しい建物が目に飛び込んでは消えていった。夕景の大きな尖塔とモスク群のシルエットはまさに見たことも想像だにしたことのなかった風景だけれど、これぞインドなのだと思った。歴代の支配者、イギリス領、ムガール帝国、の遺構や建築物はいずれも威風堂々で度肝を抜くものだけど、仏像的安寧の地、時が止まる永久の地と言ったあこがれをもって思い描いたインドのイメージとは違っているように思えた。その時代の支配者の霊廟であったり、戦勝記念であったり、インドの現在に至る歴史の断片のショウケースのように見えた。やがてタクシーは、新しい建設中の住宅団地のようなエリアにやってきて止まった。日本の団地そっくりな、真新しい一つの棟の中にゴール氏が入りそのあとに続いて入ると、内部は日本の団地とは全く違っていた。遥子たちは一つの部屋に案内された。二つのベッドとイスとテーブルがあり、こぎれいな白いカーテンが窓に掛けられている。部屋の外廊下の突き当りにトイレがあることと食事は部屋に運ばれることを告げられて、ゴール氏とスレンダルはどこかへ帰っていった。日本の団地との違いは、仕切り方で、ドアは一部しかなく、通路で部屋につながっているようでもあり、どこから通路でどこまでを部屋と言うのか分からないつくりになっていた。遥子たちが案内されたのはドアがある部屋で、しばらくくつろいでいると、一人の婦人が食事を運んできた。二人ともかなり疲れていたので食事を終えると、すぐに眠った。夜明けのころか窓からうっすらと光が差し、遥子は目覚め、手洗いに行こうとドアを開けると、薄暗い廊下に毛布や布団にくるまれて人々が眠っているではないか。子供も女性も男の人も老人もみな床で眠っていた。遥子は、この一家の唯一の場所を自分たちが奪ってしまったんだと思った。見ず知らずの外国人に快適な部屋を提供するために大きな犠牲を強いたに違いない、と遥子は、そのまま後ずさりしてドアを閉めた。矜子が起きるとまだ廊下に出ない方がいいと告げて人々が動き出す気配がするまでベッドにいることにした。窓の日差しがいよいよはっきりしてきたころ、ドアがそっと開いて小さな男の子が顔をのぞかせた。五、六歳くらいだろうか、くりくりの目を二人に向けてはにかむように微笑んでいる。
少年は、遠慮がちだが初めて見る外国人だからなのか無邪気な好奇心を隠さない。あまりにもあどけないその表情にヒンディー語で話しかけると、すぐに打ち解けてよく話をしてくれ、一緒に外へ飛び出した。日の光は暖かくすでに鋭かったが、あたり一帯はまだ新規開拓の住宅の工事中なのか殺風景で雑然としていた。見知らぬ低木や鮮やかな色の花々がまばらに生えているが、散歩したり一緒に遊ぶような場所もない。日本は、遥子が生まれてこの方ずっと至る所にブルドーザーが走り回り田畑を壊して何かを建設しているのだが、それと少しも変りなかった。少年は、家に入って家族を一人一人紹介してくれた。それは何人いるのかわからないくらい多く、廊下で眠っていた人達だった。この人たちへの感謝とお礼をしたいと思っても日本から何もお土産を持ってきていない事に気づいた。それにインドの貨幣もまだ持ち合わせていないので、仕方なく手元にあった10ドル札をやや強引に貰ってもらうことにした。食事を済ませると、スレンダルがタクシーで迎えにきて、瀟洒な落ち着いた住宅街の一角にある三階建てのゴール邸に二人を運んで、スレンダルはそのまま去った。しばらく外で待っているとゴール氏が現れ、二人を招き入れ、居間に案内したかと思うと、またすぐに出て行き、なんだか忙しそうに動いている。部屋はテーブルやソファが整然と、どちらかというと簡素な無機質な調度品で統一されていた。窓はあるが外は樹木が覆っているようで日差しはあまり感じられない。ほの暗さに目が慣れて、入ってきた方へふと目を向けると、部屋の隅に一人の男性が座っているのが見えた。入るときは気づかなかったけれど暗い部屋の隅の一層深い闇に溶け込むように褐色の顔が静かにこちらを見ていたのだ。遥子がびっくりしてアッと声を上げるとその男性はすっと立ち上がり、にっこり微笑んだ。ゴール氏が部屋に入ってきてその青年を甥のアビナーシュだと紹介した。ゴール氏は、今日は出かける用がありアビナーシュが街を案内するから、と言って出かけて行った。
住宅街の通りはどこも、街路樹の美しい並木に鳥が鳴き声をあげ飛び交う、ニューデリーの中なのにこの住環境に驚いた。遥子は、戦後の急ごしらえに建てられた公営住宅に住む身としては、昨夜の宿の方に親しみを感じたが、自分の状況はアビナーシュには内緒にした。道端にジュース売りを見つけて遥子は、急に喉の渇きを覚え、注文しようとしたが、まだ両替を済ませてなくルピーを少しも持っていないことを思い出した。ジュース売りの前に置かれた巨大ミキサーをにらみながら、矜子とまず両替の必要について話していると、アビナーシュが、ジュースを飲むといいよと言いながらすでに注文していた。売っているおじさんはパイナップルを鉈のようなものでバンバン切ってミキサーに放り込み、仕上げにスパイスのようなものをかなりしっかりかけて大ジョッキー二つに入れて渡してくれた。遥子はジュースと言えば粉末を水に溶かしたものしか飲んだことがなかったので、スパイスの違和感を感じる前に本物のジュースのおいしさに感激した。アビナーシュにお礼を言って、両替したいのでどこか両替できるところを案内してほしいというと、彼は少し困惑したように肩をすくめて何も言わず黙っていた。遥子の話がよくわからないようだった。並木の通りには珍しい植物や鳥が次々に現れその都度、アビナーシュに聞いてみたがほとんど何も知らないようで、散歩はほどなくして切り上げてゴール邸に戻った。着くと若い女性が出迎えてくれ、ダイニングへ案内してくれた。テーブルにきれいなクロスがかかっていた。着席すると先の女性がキッチンとつながる小窓から紅茶とサンドイッチなどを出してくれた。彼女が、ずっと無言なのが少し気になったがイギリス風の食事をおいしくいただいた。彼女にお礼を言って食器を小窓から返却すると、場所を居間に移してアビナーシュと互いのことを話した。
「あなたは私たちと同じくらいの年齢ですよね」と遥子はアビナーシュにそれとなく年のことを振ると、「ええ、僕もそう思ってました」とほほ笑んで少し間をおいて「十五、六歳でしょ」と分かっていたというように言った。矜子と遥子は、同時に「あなたは十六歳なの?」と驚いて顎にひげを蓄えた長身の青年を改めてしげしげと見た。この時インドでは、年齢は全く分からないことを肝に命じた。今までのアビナーシュの応対に何かしっくりこないことがあったが、これで合点がいった、彼はまだ高校生だと遥子は納得した。矜子が年齢を告げると、アビナーシュは二人以上に衝撃を受けたらしく困惑の表情を見せそれ以降話さなくなった。
その夜ゴール邸に泊めてもらった。朝食後、屋上のテラスに上がって近隣の家々の屋根やテラスを眺めながらゴール氏と初めてゆっくり話した。ニューデリーという町のもう一つの顔である人々の暮らしがそこにはあり、思い思いの花を育て、話に興じる姿があった。遥子は、なんと豊かな生活だろうと羨ましかった。とんでもない富裕層に違いないが、これもインドの現実である。ゴール氏が語ってくれたところによると、彼はデリー大学の学生で、インド石油に勤めていて、伯父が国会議員であることなど有力な一族らしかった。遥子は、またしても彼が学生であることに衝撃を受けた。年齢が分からない。チャンディガルのスレンダルとゴール氏の関係が分からない、それよりスレンダルの年齢も自分たちと同じくらいなのかもしれないと思うと、年齢については今後推測しないことにした。ゴール氏は、次に遥子たちのインドでの服装について注意した。
長いくるぶしまであるマキシ丈のスカートやジーンズは、足を見せないから良いと言って誉めてから、意外なことを言った。その上着の色がよくない。遥子が着ていた、この頃日本で流行っているアースカラーのカーディガンを指摘された。ベージュや草色など薄い自然を思わせる色は貧者の色だから、やめてもらいたいとのことであった。彼は、よほど気に障るらしく傍らの袋から真っ青なセーターを取り出して、寒いときはこれを着るように遥子に渡した。遥子の父親の職業もティーチャー(教師)ではなくプロフェッサー(教授)だろう、と押し付けるような妙な確認をした。遥子は、事実と違うのにそれを言い張るゴール氏の思惑に少し嫌な気がしたが、それについては、返事を避けて受け流し、改めてインドは階級社会だということを思い知らされた。
翌日両替のためにゴール氏に銀行に連れて行ってもらった。重厚な建築物の入口で何やら長々とやり取りがあり、ようやく大きなドームのような高い天井がある階段教室に似たホールに行くと、階段にずらりと座っている人々が一斉に視線を向けた。ゴール氏は、ここでも何か説明を求められているようだった。遥子は、その間階段を見上げ、何か法廷に引き出された被告人になったようだと思った。両替は、とても大変なことだと分かったので矜子と相談をして、持っている日本円をできる限りルピーに替えることにした。銀行から出るとゴール氏にお礼を言い、とりあえず三百ルピーを手渡した。それがどれほどの価値なのか全く分からなかったが、ゴール氏は受け取ってくれた。
その後、今日はチャンディガルに向かうから、と荷造りのためにゴール邸に戻るとスレンダルが待っていてゴール氏は出かけた。お金を持ったので、スレンダルを誘ってと町へと散策に出かけた。道端でチャイを飲み、アルカティキヤというコロッケみたいなスナックを食べ、落花生など次々と買って食べた。買うたびに少額の紙幣やコインが増えていく。道端ではルピーではなくパイサで事足り、思ったより物価は安そうだった。スレンダルにチャンディガルへ出発する今日の予定を聞いたが列車の切符がどうなるかまだ分からないので、とはっきりしなかった。そしてスレンダルは、時々どこかへ消えた。チャイを飲んだり食べたりしていると、必ずどこかへ行ってしまうのでその場を動かないようにするのだが、困ったことに続々と人が集まってきて口々に話しかけてくるのだ。ジャパーニーガールを初めて見ると言って、一様に笑顔なのであまり恐怖は感じないが瞬く間に人だかりができるのでまるで見世物になったようで落ち着かない。ちょっと片言のヒンディー語を口にしたことがこのことに拍車をかけたのかもしれない。スレンダルが戻り「チャローチャロー(あっちへ行け)」と人払いすると、瞬く間に人々はいなくなり、何事もなかったように平穏を取り戻す。スレンダルはリキシャ―ワーラー(リキシャ―の人)と交渉して二台に分かれてゴール邸へと急いだ。真っ黒なやせ細った手足に渾身の力を込めてひた走る姿は、遥子に馴染みのない落ち着かなさをもたらした。リキシャ―が坂道に差し掛かり、痩せた手足に汗が光るが自転車がほとんど動かなくなると、申し訳なく、降りたいという衝動にかられ困った。ゴール邸に戻るとゴール氏は不在でスレンダルも出かけていき、手持無沙汰で何のために急いで帰ったのか分からなかった。食堂に行き、件の若い女性にチャイをお願いして、しばらく休息していると彼女がキッチンから出て花鉢に水をやっているのが見えたので、話しかけてみた。年のほどは分からないが、きっととても若いのだろう、長いまっすぐな髪を一本の三つ編みにして控えめにほほ笑む姿は美しかったが、何を話しかけても何も言わなかった。ゴール氏が彼女を紹介しないのできっと使用人なのだろうと思った。
ゴール氏が戻ると、さっそくタクシーで駅に向かった。駅は、大きくて中に入ると薄暗く人が蠢いていた。赤帽のような人々がたくさん寄ってきてそのうちの二人が荷物を持ったが、彼が手配したのだろうと思った。いくつもの線路をまたぎ、駅の一番奥のプラットホームに着くと、そこでは列車を待つ乗客なのか、まばらな人影しか見えず、その静けさにほっとした。ポーターから荷物を受け取ると、二人を残しゴール氏もスレンダルもどこかに行った。暗いプラットホームに、日が沈み始めたのかますます暗闇が迫る。
スレンダルが小走りでやってきて、列車はこのホームでない、早く荷物をもってと言って薄暗い線路をいくつも越えて先を行く。遥子は、大きなスーツケースを持ち上げるのがやっとなのに足元がよく見えず躓きそうになりながら見上げるような大きな鉄の塊のような車両が停車するホームにたどり着いた。スレンダルは、車両の昇降口横のボディーに書かれている文字を示して言った。「君たちの名前があるよ」と。車両に自分の名前が書かれていることが全く理解できなかったが、読めばローマ字で確かにあった。車掌らしき人のチェックを受けて乗り込むと中はコンパートメントでスレンダルとは別の部屋らしかった。二人は座り、人が乗り込んでくるのを見ていると男の人がどやどや布団一式を持ち込んで入ってきた。座面に敷布団を敷き掛布団を置いて出て行く、それと入れ替えに一人の婦人が入ってきた。それからもなにくれとなく世話を焼く人々が入れ代わり立ち代わりして、ようやくその婦人一人が旅客とわかり、気が付けば列車はいつの間にか動いていた。遥子は、列車に布団を持ちこまなければならないこの国の人に同情した。遥子たちは寝袋を持っていたからだ。小さなバッグから中身を取り出し、潜り込んでファスナーをしめれば事足りる。十一月の北インドは、温暖で日中は長袖ブラウス一枚、夜間は気温は下がるが車内で寝袋は十分すぎるくらいだった。スレンダルは、それ以降は現れなかった。出発前にゴール邸で水筒に白湯を入れてもらっていたが、それももう底を尽き、かなり空腹だったけれど、疲れからか眠ってしまった。窓の外が明るみ、どこかの駅に停まると窓の外に物売りがたかってきた。子供が多かったがそのうちの一人を呼び止め小さなバナナを一房買った。日本でもバナナは食べていたが、ちょっと贅沢な果物だから房で買うことはない、その上そのおいしさは比べようがないほどで、空腹に染み渡った。

チャンディガル

朝早く駅に着くとすでに人々でごった返していた。スレンダルは人込みの中、足早に出口へと急ぐが遥子たちは荷物が邪魔してなかなか追いつかない。もたもたしているとすかさず誰かがそれを運ばせてほしいと言って奪おうとするので、その対応に追われているとさらに人が集まった。万事休す、動かずにここでとどまりスレンダルを待つしかない。遠くから「チャロ―チャロー」の声が聞こえスレンダルが戻ると、やれやれである。出口で待つオート三輪のリキシャ―の所までたどり着いた。スレンダルがいなくなるのは何か用事をするためであり、その時いちいち説明をするのが面倒だからなのであって、今回はオートリキシャ―の運転手と値段の交渉をしていたのだろうと思った。何かを買う時もそうだが、一般に値段の交渉は、そばで見ていても毎回長々とやりあうので人生の多くの時間がそれに費やされているように見えた。町はデリーより少し気温が低く乾燥しているように感じた、そして人々の中にターバンを巻いている人が多く目についた。シク教の人たちとは限らないらしいけど、実際見ると宗教的な印象が目に飛び込む。ターバンの下の端正な顔立ちとどこか遠いまなざし、そして群れているように見えても静寂が彼らを包む。遥子は、語りはじめる「シク教徒はこの地にシク教の国を作っていたのよね、思い出したけど、彼らを飲み込もうとするイスラム教国のムガール帝国や北方からも次々侵攻してくるイスラム勢力との長い戦いの末、自分の国を作りシク教寺院を作った。すると今度はイギリス東インド会社の軍に三度の戦いの末屈服させられた。その結果、彼らの地だったカシミールを奪われ、それはヒンドゥ教の藩王国になり、シク教徒領はイギリス会社の直轄地となり、国は消滅した。イギリス支配への最後の抵抗といわれている。しかし会社がムガール帝国を滅しインド全土を掌握しかけた時、会社の傭兵セポイが反乱を起こし、瞬く間に反英闘争が広がりを見せると、シク教徒は、なぜか会社軍側に加わった。インドの反英闘争に加わらなかったのは、どうしてだろう。ムガール帝国の滅亡をそれほど望んだからなのかな」と矜子に意見を求めると「会社の直轄領だったから、その軍隊として働くしかなかったということか、長年イスラム教徒との戦いで、イスラム教徒と組することに抵抗があったのか、私には分からない。それに反イギリスといってもそれほど反乱軍が一致団結してまとまっていたわけではなかった、宗教も地域も社会階層も違う人々の集まりだったから。」と矜子は言った。なるほど、その後イギリスから独立するまでに百年弱かかっていることを見れば、反乱軍の結束力は弱かったのだろうと納得した。それとは別に冗談として矜子が後で付け加えた、「知っている嫌さと知らない嫌さなら、知らない方を選ぶのかもしれない」とつぶやいた。遥子は矜子の真意はつかめなかったけれど、宗教の問題はヒンドゥ教とイスラム教だけではなく、歴史的に多種多様な宗教や宗派の間で複雑に絡まりあい、そのどれもが国の分裂の発火点にもなりうることだと思った。街を行く女の人は少ないが、服装はサリーが主だった。若い人、多分学生だろうが、長い上着とふっくらしたズボンの組み合わせの民族衣装の人もいる。
パンジャブ州の東端でハリヤナ州との境界に位置するチャンディガルは連邦政府の直轄地となっている。インド分離独立の時、パンジャブ地方は、パキスタン領とインド領に分かれさらにインド内のパンジャブはパンジャブ語を話すパンジャブ州とヒンディー語のハリヤナ州に分かれ、州境に位置するチャンディガルを両州の州都とした。この街には、その成り立ちから言語州問題や宗教問題などが集約されているので、ネルーがこの街を新国家のアイデンティを民主・平和・経済発展といった世俗的な価値の象徴としたのだ。インドのオートリキシャ―は派手なエンジン音を鳴らし込み合う道路を器用に駆け抜ける。町は、普通のインドの郊外といった風情で、ネルーの新国家のシンボルというスローガンがピンとこない。そうこうしているうちに、スレンダルが車を止めて降りた。運転手に何やら告げて、遥子らを乗せたまま動き出す。何も分からずそのまま走り出したオートのメーターにふと目をとめると、メーターの動きがなんだか速いように感じる。遥子は、矜子にメーターが速いと言うと、矜子は「今まで注意して見たことがないから、分からないけど確かに早く数字が変わるわ」と言って、初めて二人だけで乗り物に乗っていることに気づいて不安を覚えた。オートはますますスピードを上げ、メーターの数字も確認できないくらいの速さで上がり続けた。メーターが壊れたのか運転手に尋ねるが返事はない。ようやく停車してメーターを見るとものすごい桁数の数字が並んでいた。運転手は、当然のように支払いを要求したが、そんな持ち合わせはない。今の今までリキシャ―などの支払いをしたことがなかったが、他の物価から考えてあまりに法外だった。そこで遥子は支払いを拒否することにした。すると運転手は大声で何やら叫びはじめすぐに周りに人垣ができた。そして支払わないという遥子たちを口々に非難しているようだった。何度かスレンダルがいなくなりその都度不安になったが、今度ばかりは恐怖に体が震えた。ここがどこなのか、スレンダルはどこへ行ったのか、分からない。もう一度メーターの数字をちらっと見ると枠いっぱいに数字が並んでいる。確かに乗車しておいて支払いをしないというのはいけないが、あまりのぼったくりに応じるわけにいかない。落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせながら、運転手から目をそらせ周りの人々に目をやった。熱気に満ちて騒々しく騒いでいる人々の関心は、どうやら遥子たちがこの事態をどう切り抜けるのか見てやろうというものかもしれないとふと思った。心が決まると、運転手の目をまっすぐ見て、周りの人々に知ってもらいたいことを言った。日本でインドの言語を学んでいる学生であり、ここチャンディガルをめざしてやってきた。しかしあまりにも何も知らずに、チャンディガル在住の友人に頼って、着いたばかりで友人が消えて・・・と半ば英語半ばヒンディー語を交えしどろもどろに説明していると、スレンダルが不意にふらっとどこからか現れた。遥子は、彼の顔を見るや、「あなたが支払ってください」と叫んだ。その言葉を聞いた周りの観衆が一気に、どっと大笑いをする。遥子はその場から駆け出し、矜子も後を追った。味わったことのない恐怖とスレンダルに対する怒りからか大笑いの渦の中に彼を残したことを小気味よく思った、が同時に、その怒りは自分自身に対しても向けられた。受け入れてもらっている身でありながら彼のやり方に怒りを向けるのは間違っている、自分たちの計画性のなさを反省しなければいけないと思った。後を追ってきたスレンダルは、二人に何も言わず彼の家に案内した。
家は、囲い塀の中にいくつかの小さな別棟の離れのような建物と少し大きめの平屋の建物があった。敷地は広く伝統的なインドの住まいと思われる。西洋人が設計した新たなチャンディガルとは違って、昔ながらの地区のようであった。スレンダルの一家は、両親とスレンダルの妹と弟が母屋に、スレンダルの兄ジテンダル夫婦が別棟に、そしてスレンダルとその妻はもう一つの別棟に暮らしていることが分かった。スレンダルに独身と偽ったことについて聞くと、初めてきまり悪そうに少し笑顔になった。二人の居室として母屋の一部屋を用意してくれた。何かの木で組み立て、植物のつるのようなものを編んだ床面からなる簡易ベッドが三つ入っているだけの、窓のない小さな部屋だが、ベッドに腰かけゆっくりすると、ようやくチャンディガルに到着したことを実感した。家族に紹介されてスレンダルにまつわる不安はなくなった。お父さんは昔商人として成功をおさめ今は悠々自適らしかった。お母さんは、高校生くらいのスレンダルの妹と小学生の弟を育て、一家全般を取り仕切っているしっかり者でみんなから「マータージー」と尊敬を込めて呼ばれていた。お兄さんはインド医で町の別の場所に診療所を持っていた。その妻は看護師であるが、西洋医学の病院に勤務しているらしかった。スレンダルの妻は学校の美術の先生だそうだ。これらは、その夜の和やかな歓迎晩さん会の席で語られたが、その席にマータージーも二人の妻、子供たちも給仕に時々現れるだけで同席しなかった。テーブルに並べられた料理は、初めて見るものばかりですすめられるままに恐る恐る試してみたが、どれもおいしいのだがあまりに辛すぎてほとんど食べることができなかった。チャパティというパンを少しいただいただけで食べずにいると、スレンダルは大根やトマトなどカットした生野菜の皿を勧めてきた。その中に緑色の唐辛子のようなものがあり、どれをとろうか迷っているとスレンダルが緑色の唐辛子を指さし、それは辛くない、と言ったので一口食べてみるとすぐに涙と鼻水が噴出し座っていられないほどの醜態を演じてしまった。一同腹を抱えての大爆笑、水を飲めばさらにひどく、どうにも収まらず部屋に引き上げる羽目になってしまった。日本で唐辛子は辛すぎるので食べないのだが、インドの唐辛子は辛くないという言葉を信じて失敗した。想像を絶する辛さは部屋に帰っても夜が更けるまで収まらず長いこと苦しむことになった。
チャンディガルの朝は早い。遥子たちが目覚めるとみんなすっかり出払って台所へ行くとマータージーが朝食を用意してくれた。床にチャイが入ったコップを置いてしゃがむのである。横に置いた小さな鉄板の上でチャパティを次々に焼いてくれ、それを素手で食べるのであるが、まず土間のような床に直接コップを置きその場にしゃがんで食事をするというスタイルに戸惑った。マータージーは、チャパティと一緒に食べる副菜を用意してくれ、その椀も床に置いた。チャパティは、今まで味わったことのないおいしさで、何枚も食べた、が椀の中のカレーはやはり辛すぎて一口くらい食べるのがやっとだった。それより日本の若者の間で流行っている超厚底靴を履いている遥子は、その前傾姿勢が苦痛で早速スリッパか何かが必要だと感じた。
次の日、ジテンダルの診療所を見学した。診療所は簡単な建物で診察は半ば屋外、患者は日よけの下に置かれた椅子に腰かけジテンダルは立って診療する。その前でスレンダルのお父さんが手提げ金庫を抱えるようにして診療費を受け取っていた。患者は一見元気そうな人が多く一人で歩いて来て不調を訴え、おしゃべりをして帰っていくので、治療というより身体についての悩み相談にのっているように見えた。ジテンダルの柔らかな物腰とお父さんの元インド商人らしい抜け目のなさとのコントラストが、この秋の木漏れ日の中で面白かった。遥子は、インドのアーユルベーダの本を読んだことがあったが、そんな施術のようなことを見なかったので少しがっかりした。ヒンディー語をもっと勉強していれば患者とジテンダルの話を理解することができたのに、と残念だった。帰り道でチャッパルというインド式革草履を買った。恰好ばかりの窮屈な厚底靴は仕舞って、素足にチャッパルを履くと一挙に足元が軽くなり、次は窮屈なジーパンをやめようと思った。気持ちの良い季節で、歩いていると鳥の鳴き声と木々の花が街にあふれ駆け出したいほど心が明るくなる。時折、風に乗って砂ぼこりが舞い上がり髪や顔から全身に砂粒が入り込むのだが、そんなことも日本から遠い異郷にいることを実感させてくれ、体内から起こってくる歓喜を自重しなければと密かに戒めるほどだった。日本での八方ふさがり状況を思い出し、この解放感は一時的なものに過ぎないと分かっていても、ここに来てよかったと思った。
夕食の時にこの地方の服を買いたいと言ってみたら、翌日スレンダルが連れて行ってくれることになりアンバラに出かけることになった。そこはチャンディガルの南にあり、なんでもあたり一帯が大昔仏教国だったころからの交易の中心地だったそうだ。お父さんは、遥子に宗教について聞いたので、仏教ということになっている、が葬式や先祖供養の時以外あまり意識することはないとこたえると、予想通りだったらしく場の雰囲気がなんとなく和んだ。宗教はインドでは話さない方がいいと聞いていたから絶対話さないでおこうと決めていたのに、話を振られて戸惑った。古代インドで仏法に基づいて政治をしていた時代があった、しかもこの辺りは中心の一つだったことがあるのだ。そのついでに遥子はちょっと欲が出てきた。ターバンをしている人が多いように見えたのでシク教徒の人がこの辺りは多いのですか、と聞いた。ジテンダルが、これにこたえてチャンディガルはそうでもないけどパンジャブの方はもっと多い、と言って席を立った。ちょうど食事が終わったからなのかどうかわからないけど、やはり宗教の話は、やめた方がいいのだろうと思った。スレンダルは、これから散歩に出かけるけど、一緒に行かないかと誘ってくれた。スレンダル夫婦は、毎晩食後に二人きりで散歩するそうで、インドでは食後の散歩は一般的に行われているそうだ。大家族での暮らしの中、若夫婦のわずかな息抜きになっている。通りはそぞろ歩きするカップルが多く、危険なこともなく秋の夜長を楽しんだ。夜の散歩から家に帰りスレンダル夫婦と別れて部屋に入ろうとして、庭の片隅に人影を見た。誰だろうと近づくと妹のスラージともう一人、男性がいた。挨拶をしようとしたが、なんとなく気まずい雰囲気を感じて見なかったことにして部屋に戻った。その夜更けスラージは遥子たちの部屋にやってきて、今夜はこの空きベッドで眠ることにすると言った。彼女は、遥子たちに見たことを秘密にしてほしいと言った。暗くてよく見えなかったが、彼女の恋人はシムラから用事で定期的にやってくるようで、家族に知られてはまずいのでこっそり逢っているのだそうだ。でも結婚相手にはならないので悲しいけどどうにもならないと嘆いた。恋愛の相手と結婚の相手は違うというのは、ずいぶん割り切った考えである。日本でもかつては婚姻が家と家の問題であり、見合い結婚が主流の時代があったが、現在ではもっと個人主義になって恋愛結婚が多いというと、たいそう羨ましがられた。スラージが言うには日本人はどうしてそんなにやせっぽちなのか、それではインドでは全くもてないと、話は女性の魅力に移った。インドの女性で一番もてるのはでっぷりとしたお腹を持っていることだと言い、ほらと服をたくし上げて誇らしげに大きなおなかを見せた。二人もたくし上げて三人が腹を出すとスラージの言う通り、日本女性は腹がないと言ってみんなで笑った。この腹ではインドでのロマンスは諦めるしかない、と悟って遥子はスラージに聞いてみた。ほとんどの女性はサリーを着ているけどお腹を出していても痴漢に合わないのかと。スラージは笑って脚を出さなければ大丈夫と言って、脚は見せてはいけないよとゴール氏の忠告どおりのことを真顔で忠告した。お腹がよくて脚がいけないとは、流行の最先端のミニスカートもホットパンツもインドでははけないということだ。スラージとの話は大いに盛り上がり楽しくていつまでも寝付けなかった。
アンバラへはタクシーで行った。大きな迷路のような市場に圧倒され、スレンダルとはぐれないように人込みの中を進んで行き一軒の商店へ入った。上からつるされ、ぎっしりと積み上げられた布の美しさに見惚れていると、スレンダルがまたいつものようにちょっと用があると言って消えた。消えるスレンダルに幾分慣れたので初めのころのような不安は起きないが品物の選定や値段の交渉とかわからないことが多いのに、何やら大声で話しかけてくる店主と向き合ってどうしようもなかった。店主の圧力をかわそうと店の外に出ると同じような店が通路の両側にほぼ無限に続いている。遥子は隣の店に誘われるがまま行こうとすると、矜子が「こんなところで迷子になったらもう見つからないから、スレンダルが連れて来たこの店を離れない方がいい」と言った。遥子は、この迷宮に入って見たくて、「スレンダルがいつ戻るかわからないのに、この店でじっと待つのは無駄だと思う、店の名前が分かれば戻ってこられるから」と言いながら店名を探したがどこにもない。どの店も看板を掛ける場所も惜しいとばかりにそこら中に極彩色の布を吊るしているので区別がつかない。ようやく遥子も諦めてシルクのサリー一式と木綿のブラウス、それに矜子と費用を折半して優しく世話してくれるマータージーにプレゼントしようと木綿のロングドレスを買った。費用は、二人で二百ルピーだった、スレンダルの知り合いの店なのか、偶然入った店なのかわからず、高いのか安いのかわからなかったが言い値で買うしかなかった。
その数日後、二人の若者がやってきてダムを見に行きませんかと遥子たちを誘ってくれた。彼らは、スレンダルの妻の弟たちで、近くに二人で住んでいるらしい。ラジ・カプールとシャシ・カプールと自己紹介して有名な映画監督の名前と同じだろう、でも残念なことに僕らは会社員で映画監督と違うのだと言って笑った。今までインドの映画を見たことがなかっただけでなく、映画を作っていることすら知らなかった。大阪の大学の近くの格安映画館で三本立て入れ替えなしで見る映画は、学生の気の利いた娯楽で、欧米のものが多くインドやほかのアジアの映画は一つもなかった。子供のころは、映画館に連れて行ってもらって主に日本映画を見ていたが、テレビが普及した今は主に家で、ホームドラマや音楽番組、ニュースを見るのが主流になっている。カプール兄弟は、ともに二十代で両親は田舎にいるらしかった。誘ってくれたダムは、この十年にわたって政府が農村の電化、それによる生産性の向上や食糧の自給を目指して力を入れてきた政策の柱だった。ダムへはバスで行ったが、車窓から見える郊外は、広々とした畑が広がり山から運河のような水路が耕地に伸びていた。壮大な運河は、まだ真新しいように見えた。インド政府の心意気が形を見せていると思った。
耕地には季節柄なのか耕運機や人々がまばらで、隣の席のラジに生産物について聞いてみると少し口をゆがめて肩をすくめただけで知らない風だった。遥子は、田舎の両親は何をしているのか質問すると、土地所有者という返事が返ってきた。卒論のテーマをインドの大土地所有にしようと思っていたので、とっさにザミンダールという言葉が頭に浮かんだが、この言葉は飲み込んだ。インドには、宗教、地域、言語、カーストなどどれをとっても一歩間違えば国を分ける紛争に発展しかねないことになる問題が山ほどあるが、土地所有制もその一つだ。イギリス東インド会社が徴税権を得て以来、土地所有の問題があちこちで勃発してきた。イギリス占領時代に得た地方の族長たちの特権をどう廃止するかなどインディラ・ガンディー首相は、イギリスがインドに残した負の遺産と格闘している。現状、干ばつなども起き独立後もずっと慢性的食糧不足に陥っている。だが遥子は、このパンジャブでの農地問題がよく分からなかったので、ラジとこの件について話すことを控えた。知ったかぶりは禁物という言葉を忘れてはいけない。バスが山道を揺れながらもスピードを緩めないので遥子が少し酔い始めた頃、検問所のバーが見えた。バスに警務官が乗り込んでできて、乗客の持ち物を調べ始めた。遥子はこの検問でカメラを預けるように言われたが、引換証のようなものがなく乗客から没収したものを、次々大きな袋へ入れるのでまるでバスジャックにあったみたいだと愚痴をこぼすと、ラジは小声で大丈夫と大真面目な顔をした。巨大なダムを見学した後、カメラは無事返却されたが、このことでダムの厳重な警備は国防の観点から必要なことが分かったが、日本のダムでは記憶にない経験だったので戸惑った。ラジは、口の端を少し上げた独特の表情で微笑みながらよくおしゃべりをする、それに対して弟のシャシは寡黙で少し気難しそうに見えるが、どちらも好青年だった。その後彼らの知り合いのドイツの製薬会社に勤めている人の家にお邪魔した。その人と兄弟の関係は、よくわからないが、家の周辺は、よくあるミシンを並べて何か縫製している店や、バタンバタンと大きな音を立てて綿の打ち直しをする作業所などがある通りにあり、歩みを進めて行くとひときわ目に着く大理石でできた立派な御殿が見えてきた。家の門構えも、玄関までのアプローチもただならぬ気配に満ちているのだが白い館に寄り添うようにみすぼらしい掘っ立て小屋がいくつもへばりついている。ラジが案内してその豪邸の入り口の階段にたどり着くと小さな老婆がしゃがんで箒で入り口の砂粒をはいているのだが、その手をとめて、「お恵みを」と突然懇願してきた。頭から砂ぼこりにまみれ、しわくちゃの顔をこちらに向けてやせ細った黒い手を差し出した。深いしわに埋もれた光のない両目がこちらを見上げ、一パイサの慈悲を何度も乞うのである。一パイサの貨幣価値は、遥子にとってはほぼゼロである。やせ細った小さな体から絞り出す鳥の鳴き声のような大きな声に立ち止まり、小銭を渡すと恭しく両手で押し頂いて感謝を表した。改めて周りをよく見まわすと邸の敷地内に、何かしら作業をしている多くの人々がいるのに気づいた。雇われているというより自由にやってきてこの館のためになるだろう思いつく用事をしているように見えた。磯の岩にへばりつく貝のように白亜の館に接して建っているみすぼらしい小屋は、もしこれが日本なら、すぐに排徐されるだろうし、まして私邸の立ち入りについても許されないに違いない。貧民と富裕層の経済格差が甚だしすぎてこの光景に頭がついていかない。白い館とその周囲に寄りかかる掘っ立て小屋、他所の玄関や軒先で訪問客に物乞いをする人々を力で排除するのでなくそのままにしておく貧富の共存の仕方に驚いた。協力とか共生の一つのありようだろうけど、根本的な貧富の格差解消に向けて歩き出したばかりの国のとりあえずの解法なのかと思った。

次の日、スレンダル夫妻とバスでシムラへ行った。パンジャブとハリヤナ州の州境にあるチャンディガルから北西ヒマーチャルプラデーシュ州の州都で、イギリスがインド支配を強める早い段階で、夏の暑さを避けるために首都機能をカルカッタから涼しいヒマラヤ山麓に夏季だけ移転した。標高が2000メートル超あるので、ほぼ全行程が急な曲がりくねった砂利の山道で、バスは砂ぼこりを上げて延々と走る。遥子は、車酔いに苦しめられた。途中、トイレ休憩というのでバスが停車して、遥子は助かったと思いバスから降りるとそこは山の中でどこにもトイレらしい建物がない。周りの人々を見て自分で場所を見つけて用を足すらしいことが分かった。バスの旅では自然がトイレなのだそうだ。シムラではスレンダル夫妻の親戚らしい人々を訪問した。町は、イギリスの趣が色濃く残っていると思った。スレンダルの親戚の中でひときわ立派な西洋建築に住む女性は、とんでもなく金持ちらしく家の広い応接間であいさつしたのだがあまりに広すぎて、女王の謁見のようによく顔が見えないくらい各々の椅子が遠かった。床から天井までのフランス窓を開けてバルコニーに出ると川岸へ続く階段があり川で水浴びも舟遊びに興じることができるようになっている。元の持ち主のイギリス人たちは最高に贅沢な避暑地で猛暑を難なくやり過ごしていたのだろう。洋館を出てキリスト教会や旧タウンハウスを見ながらとある英国調ティーハウスに行った。イギリスに行ったことがなかったけど、ビートルズ、ミニスカート発祥の地として、また文学ではシャーロックホームズ、マザーグースをはじめ、大学ではシェイクスピアを小難しい原文で読まされていたこともあって、なんとなく頭の中の作られたイメージにぴったりのイギリスがそこにあった。付近の散歩道には樹木が生い茂り野生の猿が鳴きながら木々の枝を飛び交っていた。温泉に浸かっているニホンザルと違って、その動作の俊敏さから孫悟空かハヌマーンだな、と思った。シムラだからというわけではないが、食べ物について分かったことがある。スレンダルの家の食事は辛すぎるということである。味はおいしいのに辛すぎて食べることができないのでこのところ空腹が常態になっている。料理の味に関係はないが、訪れたどの家も使用人が料理をしているのにマータージーは使用人を置かずに一人で切り盛りしている。富裕さの度合いというより何か価値観の違いなのだろうか、日本でも昔は使用人を抱えることは富裕層にとって当たり前であった時代があったから時代の流れなのかもしれない。安い労働力が潤沢にあることと貧者を救済するという使命感と自分の手で出来る限り生きようという信念などについて、マータージーとの間で言語問題がなければ、このことの考えを聞いてみたかった。シムラのある家で、日本人向けだと言って香辛料を抑えたコメの料理を出してくれたことがうれしかった。シムラでかつてのインド駐在のイギリス人の生活を少しわかったような気がして、それに女王様にも謁見できて楽しい一日だった。
それからしばらくしてある朝、スレンダルの妻が勤務する学校にいくことになった。日本人が珍しいので何か生徒たちに話してほしいと言われた。遥子は、外国について勉強してきたが日本について語るべきこと、いったい何を話せばよいのか皆目見当がつかない。インド人が話の途中でなにかと首をかしげることに戸惑ったことやトイレに紙がないとか、すぐに思いつくけど期待されているのはそんなことではないのだろう。困り果てながら二人は講堂の全校生徒を前にした壇上に押しやられた。こんなに仰々しいのなら原稿を準備する必要があったのは明白だった、どうしようと救いを求めて矜子をちらっと見ると下を向いて遥子が話すのを待っているように見えた。遥子は、深呼吸を一つして自己紹介から始めると、女生徒の顔ばかりなのに気づいた。年齢は、女子中高生のように見えるが、もっとも、インドだから年齢はわからないのだけれど、この時スラージとお腹を見せ合って話した夜のことを思い出した。結婚の話ならきっと食いついてくれるかも、と思って日本の恋愛事情について思いつくままおしゃべりした。なんの確固たる知識もないので日本の結婚事情一般の話はできないが、戦後の遥子世代と戦前戦中の遥子の親世代との比較を感じるままに、テレビでよく流れてくるアメリカのヒッピーの影響もみられるというようなトピックを交えて、つたない英語で取り留めなく語ってしまった。会場は、大爆笑で生徒には大いに受けたが、居並ぶ先生たちにはかなり不評だったのか早々と打ち切られてしまった。よほど話の内容が不適切だったようで、スレンダル家での扱いがその日を境にがらりと変わった。

朝は早くからスレンダルの「ウト―(起きろ)」の大声が起床の合図になり、それに続いてシャワーを浴びることをせかされた。実をいうとシャワーとは水浴びのことで、朝は寒すぎて今までなんとなく避けていたのだが、スレンダル家のルーティーンをはっきり押し付け始めた。もう一週間以上ご厚意に甘えている身としては従うしかない。チャンディガルなど北部インドでは結構寒く、身にまとうものが一枚の布しか持たない人はこの季節でも凍死するらしく朝刊を見ながら、日々凍死の惨状についてスレンダルは語ってくれるのだが、その真意は読めなかった。さすがに無料で厄介になるのも非常識な気がしていくばくかの支払いを申し出ると、「否」の答えだったので矜子と顔を見合わせただけで、この話はうやむやになった。その日の午後インドの結婚式に行った。スレンダル家の人たちと一緒に出かけて、夜まで披露宴に参加した。花嫁花婿はきらびやかな衣装に身を包み次々と祝福を受けていた。遥子は、この花嫁はいかほどの持参金を払ったのだろうか、とその美しい横顔を見ながら思った。広い屋外で開かれたパーティーで出された料理の豪華さと参加した人々の数の多さに驚いた。参加した人もよく見ると様々で、旅行者の遥子たちがごちそうにありついているように、次々繰り出される料理の数々に大勢群がっている。この大盤振る舞いの機会に誰が紛れ込んでいてもわからないね、と矜子と話したのだが、それでも食べ物がなく路上で死ぬ人が後を絶たない現状との整合性を取る何かのシステムがあるはずだ、という謎の結論に達した。
スレンダルは、部屋に来てよく話をするようになった。割と直接的に、「何をくれる?」である。お金はいらないので、そのほか遥子たちが持っているモノということだが、貧乏学生遥子の所持品はすべて二束三文の安物で人様に差し上げるようなものはない、と困っていると、スレンダルは、小型のテープレコーダーを見つけこれがいいと言った。それはウォークマンのように高価なものでなく、人気にあやかって作られた安価なモドキ商品なのだがひたすら小型化し携帯に重宝するものだった。逆にウォークマンであれば日本のお土産として誇らしい気持ちであげることができたのに、と残念だった。お土産を何も持って来なかっただけでなくそもそも相手のことを慮って、お土産を準備することに気が回らなかったことを恥じた。インドは、遥子が直面する困難な事態からの自分本位の逃亡先に過ぎなかったと認めざるを得ない。その後は毎朝の「ウトー」の声と「なにくれる?」攻勢が続き、次々と主にプラスチック製の旅行用品がスレンダルの手に渡っていった。そんなある日スレンダルにお姉さんがいることが判明し、そのお姉さんが婚家に招いてくれた。お姉さんの家はチャンディガルのモダンな地区にあるらしく真新しい白い石造りの家に住んでいた。ダイニングに通されてお茶をいただいたのだが、使用人がまだほんの少年だったのだ。その子は、なんと料理作りから給仕までしかも前菜からデザートまですべてを一人でするのだ。そんな子供の使用人にお姉さんは、厳しい口調で始終叱責を繰り返すので、なんとなくいやな感じがした。これがカーストなのかと思った。お姉さんは遥子たちを歓迎してくれ、今夜泊っていくように言った。スレンダルの家で少し居心地が悪くなっていたのでこの申し出はありがたかった。その夜は夕食後映画を見に連れて行ってもらった。映画館は満員で開演前からものすごい熱気に包まれていた。上映されたのは「ボビー」という人気絶頂の映画で、観客は、ストーリー展開に沿って歓声や怒号、拍手で映画に応える。踊りのシーンが始まると観客は音楽にのって完璧に歌を唱和し感極まるのである。昔、遥子の子供のころ父親に連れられて映画館に行ったときに見た日本の観客もこんな感じだったと懐かしかった。映画は、よく出来ていて素晴らしく面白かったが、それより強烈に印象に残るのは、観客はもう何度も観て「ボビー」のすべてのシーンをすっかり覚えていながら、また今夜も映画館に足を運んでいることだ。映画は、一級の娯楽なのだ。映画の興奮冷めやらぬお姉さんの提案で、今からピンジョアガーデンに行こうということになった。映画館を出ると通りにネオンサインの一つもない。さらに町から離れて、車はヘッドライトを頼りに月と星しか明かりがない山道をひた走り三十分ほどして何か別世界にやってきた。足元の小さな明かりは水路に沿って点々と続き、その先に美しいペルシャ風というか、イスラム風というのかわからないが、アラビアンナイトに出てくるような宮殿が光の洪水の中に浮かび上がって見えた。そこはかとない花の香と絶えず聞こえる水の音、目を閉じるとまるで夜の砂漠に立ちながら、水と花と星の光が身にまとわりついて来て心が潤うるおされていく。お姉さんは、「ここは恋人たちのデートスポットよ」と小声でささやいて勝手知った庭園の中へ旦那さんと二人でどこかへ行ってしまった。遥子たちは、周囲のあまりの暗さにどこへも行けずただマハラジャの王宮の明かりが届く庭園内で散策をした。遥子が求めていたのはこれだったと思った。心の中の奥深くにある戻りたい場所とどこか遠くのあこがれに向かって飛んでいきたいという二つ衝動が、一つの形となったのがインドだったのかもしれない。懐かしくて、でも手が届かない何かに救いを求めていた。現実からの逃避に違いないが、こんな甘美な感覚的なものに予想外に癒された。
翌朝、遥子の所持品で無くなっているものがあった。サングラスと口紅で、なんとなく嫌な感じがしたが一応お姉さんに聞いてみた。彼女は、知らないと言ったが、後でサングラスだけ返してもらった。遥子から見れば大理石の家に使用人がいて何不自由なく暮らす富裕層の人々がなぜ安っぽい日本のものを欲しがるのか訳が分からない。明日になればカメラや寝袋など残り少ない所持品を渡すしかなくなるだろう、もうこのスレンダルの家にお世話になるのは限界のような気がした。かといってここを出て、行く当てはない。帰りの飛行機に乗るまであと二週間をどうして過ごそうか途方に暮れた。まずここチャンディガルからニューデリーに戻らなければ飛行機に乗れないのに、来るときに乗った列車の切符をどうやって手に入れればよいのかも知らなかった。ニューデリーに着いたところで、宿泊する場所を確保する手筈もわからないではないか、と話は八方ふさがりに陥っていきそうになった時、矜子が、「カプール兄弟は年齢も同じくらいで優しそうな人達だったから相談してみない?」と提案した。遥子は「それはいい、そうしよう」と元気に応じてから少し間をおいて「でもどうやって彼らに連絡を取ればいいのかわからない」と、それから二人で黙り込んでしまった。眠られぬ夜を過ごして、次の朝スレンダルの「ウト―」が始まったとき、スレンダルに言った、「あんまり長くお邪魔しても悪いからそろそろお暇したいと思います。それで勝手なのですけどニューデリーまで連れて行ってくれませんか。もしだめなら、列車でここへやってきたので切符を手に入れる方法とか教えてほしいのですが」とお願いしてみた。するとスレンダルは、「どこの国でも同じだと思うけど、他所の家に世話になれば最初は大歓迎するけど、あんまり長くなると厄介に感じるものだからね、日本でもそうでしょう」と意外に明るく言い、部屋から出て行った。遥子は、スレンダルに心のもやもやを打ち明けてほっとした半面、解決法が示されなかったことで突き放された気分になった。二人でこれからどうすればよいかわからなかったけれど、取り合えず、少なくなった荷物をまとめることにした。マータージーにお別れを言いに台所に行くと、いつものようにおいしいチャパティを焼いてくれた。最後のチャイを飲み干して台所を出ると、スレンダルの妻が「ちょっと部屋に来て」というのでついていくと、ベッドの上に青い布が広げられ、これで遥子たちにパンジャブドレスを作ってくれると言う。パンジャブドレスは、長い上衣とズボンのツーピースからなるこの地方の伝統的衣装だ。彼女の学校でのことがあって以来、気まずい思いをしていたので、この優しい言葉は心底ありがたかった。こうしてドレスが出来上がるまではここにいることになったが、まだ旅は半分残っている、この家を出てどうすればいいのだろう、飛行機の変更などできないことは分かっているが、便を変更できれば早く日本に帰って卒論に取り掛かれるのに、と一瞬後悔めいた思いが頭をよぎったが、愚痴を言葉にしないように頑張った。
驚くことにドレスは、その日の夕方に二着出来上がった。美術の先生らしく彼女は、油絵の具で青いドレスいっぱいにバラの花を描いてくれた。唯一無二の素晴らしいプレゼントに感激し、お礼をくどくど述べていると、戸口になんとカプール兄弟が現れた。今夜から兄弟のうちに連れて行くと言う。遥子はあっけにとられた、矜子と話していたことが現実になるとは夢にも思わなかった。インドでは事態の進行が何か異なる軸上で起きるのかとも思った。
カプールの家は、何軒かが連なる住宅のうちの一軒でチャンディガルの新しい地区にあった。隣り合う家は接していて外見はまるでイギリスの住宅みたいだったが、レンガ造りでないところと、三階からは広い屋上に出ることができるのでやはりインド風だと思った。ここには兄弟だけが住んでいて使用人はいなかった。小さなキッチンがあり普段は自炊をしているという。遥子はラジに菜食主義かどうか聞いてみると、いつものように反笑いの曖昧な返事だったので、肉か魚を食べませんかと提案した。実は、スレンダル家では卵を含め一切の動物性食品が出されなかったのでなんでもいいから何か食べたかった。彼らはそれについては何も明言せず軽く食事を済ませると、少し寒いけど屋上に簡易ベッドを出して寝転んで星空を眺めた。インドの夜空の満天の星を眺め、小学校以来のキャンプのようで久々の楽しさだった。翌日、早くからたたき起こされることもなく遥子と矜子は目覚めると、もうお昼、ラジたちは出かけたようで、チャイを飲んだりビスケットを食べてゆっくり過ごしていると、シャシが帰ってきて、ラジがパンジャブの方へ行ったから少し遅くなるかもしれないと言った。夕暮れになってラジは全身汗びっしょりで大きな包みを抱えて帰ってきた。パンジャブの市場まで自転車で行って、買ってきたという包みを開けると、大きな魚が目をむいていた。ひげが立派なのできっとナマズか何かだと思うが、こんな砂漠みたいなところでよく魚を見つけてきてくれたと感激した。こんな魚を食べたことがないがせっかく買ってきてくれたのだから食べるしかない。矜子は、「これをぶつ切りにして唐揚げにしましょう」と言った。包丁は、日本と違って据え付けてあるので、両手で魚の頭と尾の方を持ち、刃に向けて魚を動かすのであるが、魚はぬめりが激しくツルツル手から滑り、切るのに困難を極めた。魚の身は崩れてぐちゃぐちゃになってもギーで揚げたからかとってもおいしかった。頭でっかちで身が少ないナマズだけど、四人で分け合って食べるとき、五臓六腑に染み渡り魚を久しぶりに食べた幸福感に満たされた。シャシは、今までなんとなくよそよそしい感じだったが、映画「ボビー」の話をすると、恋人たちの細かいシーンを一つ一つ語りだし、何度も繰り返し見ていることを自慢した。ラジもシャシもすっかり打ち解け、まるで大学のクラスメートとキャンプをしているようで楽しかった。

ニューデリー

カプール兄弟とバスでニューデリーに向かった。チャンディガルに来るときは寝台車だったのでてっきり列車で戻るものと思っていたのだが、バスの便もあるらしい。途中何回も停車して主に路上の屋台で飲み物や軽食をとる。バスは揺れも少なく快適で遥子は、停車の度に屋台を見つけて、辛いのではないかと恐れながらも揚げパンみたいなものや、アルーティキというじゃがいもの軽食、サモサなど次々に挑戦していった。今までの空腹を急いで満たすようにそのおいしさに舌鼓を打ち、辛さはいろいろだがどれも味わったことがなくすっかり気に入った。その夜は、ニューデリー郊外の静かな住宅地の大きな平家で宿を借りた。おそらくカプール家の親類なのだろうが大きな一室の四方の壁に沿って四つの簡易ベッドを入れてくれた。あとで聞いたのだがその家の高校生ぐらいの男の子が、部屋を空けて遥子たち四人に提供したのだそうだ。カプール兄弟とは違って遥子たちは言うならば全くのフリーライダーだから申し訳なく返す言葉がなかった。翌朝兄弟と一緒に観光に出かけた。ムガール帝国時代に作られた大きなドームのフマユーン廟やモスク、世界一高いとされるクトゥブミナールというミナレット、天体観測所ジャンタルマンタルなどの内部に入り階段を上り開けた眺めを満喫した。カプール兄弟と楽しい時間を過ごし、今日中にチャンディガルに戻らなければいけないという彼らにわがままついでに遥子は一つお願いをした。それは、ベジタリアンだろう彼らにとって気が進まないだろうけれど、中華料理店に連れて行ってほしいということだった。ラジは、少し考えてから自分たちはレストランに入るが食べない、と言って快く連れて行ってくれた。レストランに客は無く、出されたメニューは中国語でさっぱり分からなかったが適当に次々注文して全部食べた。その間兄弟は壁際の椅子に座って遥子たちが食べるのをじっと見ていた。その後ゴール氏の家に連れて行ってくれてそこで感謝を述べて兄弟とお別れをした。お世話になりっぱなしで、お礼もできずきっともう会うこともないと思うと、とても申し訳ない気持ちと遥子にとっても意外だったのだが、悲しく寂しい気持ちに打ちひしがれた。
その後、ゴール氏の家に泊めてもらうことになった。ゴール氏は、その夜オールドデリーの繁華街へ連れて行ってくれた。街路樹のある比較的広い道路からどんどん狭い路地に入っていくのだが人々の流れが途絶えるどころかひっきりなしに牛の荷車やオートバイなどでどこまでもごった返す。ヒトやモノのごちゃごちゃの流れの中をゴール氏は軽やかに泳いでいく、それを見失わないように必死になってついていくと、一軒の食べ物屋に入った。暗くて狭いが上を見ると突き抜けるほど高いドームのような天井、テーブルの小ささと窮屈な椅子と深い穴の底に落ちたかのような頭上の暗闇に恐れを抱くと同時にここに来たかったような一瞬甘い感覚に襲われた。ボーイなのか少年が見るからに汚れている布でテーブルを拭きに来た。きれいか汚いかよく見えないのではっきり言えないことがかえって良かったくらいである。ゴール氏によると、インドの古い伝統料理を出す店とのことで、大きな葉っぱの上に乗った料理を食べた。ゴール氏は、相変わらずにこりともしないが遥子たちとの再会を歓迎してくれているのが分かってほっとした。正直、スレンダルの家に行ってからはゴール氏の存在のことは忘れていた。文通をしていたのはスレンダルであり、ゴール氏とスレンダルの関係についてはだれも何も語られないので、ゴール氏がなぜ遥子たちの助けになってくれているのか分からない。その夜、遥子はお腹の具合が悪くなり翌朝には熱が出た。ゴール氏は、きっと昨夜の料理が中ったのだろうと言ったが、慣れているゴール氏はともかく、矜子もなんともなかった。遥子は、ほとんど起き上がれず寝ていると医師がやってきて粉薬をくれた。英語で見立てを説明してから、この薬を多量の水と一緒に飲むよう指示して帰っていった。インド医ではなさそうだったが、粉薬の量が袋いっぱいでそれをオブラートなしに飲むのは至難の業だった。翌朝にはかなり回復したので薬の威力に感心し、これで二、三日もすればすっかり良くなるだろうと思っていると、ゴール氏が呼びに来た。まだ夜が明けたばかりなのに今から出かけるという。予定はいつも直前にならないと分からないのだが、今日は病み上がりの遥子にとってかなりきつく少し抵抗を試みたが、問答無用で無駄だった。なぜこんなに強硬なのか、少し不審な気持ちを抱きながら、朝靄が濃く立ち込める中を、ただ黙って町の外れまで歩いていくと街並みも人家も何もない路上で立ち止まった。あまりにも不思議なので、ゴール氏にどこへ行くのか聞いてみるとアグラへ行くと言う。タージマハールを訪れると聞いて遥子は今まで何もこれといった観光をしていないことに気づいた。日本へ無事帰ることだけを考えていたので、虚を突かれ旅行者としての我に返った。バスを待っているとそこここから人が集まってきて、気が付けば朝靄もすっかり消え太陽の日差しが真上に来ようとしていた。すっかり待ちくたびれた頃大きなバスが轟音と砂ぼこりを上げて到着し、来た時よりももっと轟音を上げて猛スピードで発車した。遥子には、運転手が遅れを取り戻そうと焦っているように見えた、もっとも、出発の予定時刻を知らないのでよくわからないのだが。
バスは、ほぼ満員で快調な走りを見せていたが、遥子はやはりお腹の具合が悪く野原休憩の都度息をつくありさまで景色を楽しむ余裕がなかった。アグラへの途中でもいくつかのムガール帝国時代の遺跡があったようだが、見向きもせずにいた。一度、おそらくハルシャットマタだと思うが、そこで停車するとその赤い色の建物は寺院なのか荘厳でずば抜けて立派だった。人々は、見学に夢中なのかなかなかバスに戻ってこずバスの運転手もどこかに行ってしまってこんな調子でアグラへ行けるのだろうか、と心配になった。ゴール氏に聞くと、これは日帰り旅行だから大丈夫、今日中に帰れると言った。アグラに着くと、もう午後の日差しが傾きかけていた。大きな赤と白色の門をくぐると、いわゆる白いタージマハールが水路の先に現れた。振り返るとトイレがあったので入ろうとして入口で絶句、一歩も歩けないほど床が汚物で汚れているのを見て入るのをやめた。白亜の霊廟の荘厳な美しさとのコントラストにこれから見学というのに、複雑に心が折れた。霊廟は、その細緻なレリーフや凝った細密な幾何学模様、近くで見なければ分からないような彫刻もあればドームの一番上から下をのぞくと大きな赤いルビーが地の底から地上にいる我々にその怪しい光を届けている。霊廟の裏側に目をやるとヤムナー川がゆったりと蛇行しその向こうに地平線がかすんでいる。川の向こうの木々のシルエットが夕映えの草原に浮かび、時間が止まった景色を見せた。大門を出てバスに戻ろうとした時、土産物屋があったのでゴール氏に何か思い出に買いたいと言うと、ゴール氏は、「分かった、買うのならインドの買い物の仕方を見せる」と言って、一軒の店に躊躇なく入っていった。店主は、何か言ったが、ゴール氏は見向きもせず遥子に「どれが欲しいか決めなさい」と言った。遥子は小さなタージマハールの置物を手に取ってみていると、ゴール氏はすかさず「これを買いたいのだね」と言う。遥子は、買うと決める前に値段を知りたいと言うと、彼は「買うものをまず決めるのだよ」と言う。買うかどうかは値段に依るのでまず値段を知りたいと、遥子は譲らない。遥子とゴール氏は店内でごちゃごちゃ言い合っている間、奥に座ったままの店主は、涼しい顔で関心なさそうに黙っている。ついに根負けして遥子がゴール氏の言い分に折れて「はい、じゃこれを買います」と言ったとたん、ゴール氏と店主の攻防が始まった。値段の交渉はまず何倍か何十倍か知らないほどの高値を店主が吹っ掛ける、ゴール氏があり得ないほどの安値を言う、次に店主が何倍くらいに抑え驚くほど一挙に値が下がる、ゴール氏は、そんな値段はまだ高すぎると言い張り、店主は、これ以下だと売らないと言う。ゴール氏は店を出ようと遥子たちを促し、あと一歩で店の外に出るところで店主が呼び止める、ゴール氏はしぶしぶ引き返し、店主の値段が少ししか下がらなかったことを確認して、それならもう買わないと言ってまた三人が店を出ようとすると、店主が絶妙なタイミングで呼び止める、これを何度も繰り返し、ついに小さな置物を最初の言い値の何分の一かで買った。ゴール氏は、これが伝統的な買い物の仕方で、売る方も買う方もこれが楽しいのだよ、と言った。売る側の人もこれを楽しんでいるとは意外な言葉だが、遥子もとても面白く楽しかったのは事実だ。バスの出発時間はあってないものなのか分からないが、帰りのバスの乗客はなかなか戻らず、朝が早かった遥子たちはバスの中で眠った。目覚めると夜の闇をバスはひた走っていた。途中でトイレ休憩と言って野原で停車し、そのたびに人々の戻りが悪いので毎度毎度のことなのだが、長い休憩になった。ニューデリーに帰ったのは夜中の二時を過ぎていた。日付が変わってもインドではデイトリップなのだ。
その後、しばらくどこへも行かず体を休めていたが、ある朝、ゴール氏は旧市街の繁華街にあるジャーマ―マスジドという大きなモスクへ案内してくれた。繁華街は夜と昼では全く違った様相を見せた。通りを行く人は、男性ばかりが目立ち、女性はめったに見ない。だからなのか通路に沿って男性が用を足せるような溝があり、そこでは通りに背を向けて往来途中に用を足している。人々も店舗も狭い路地にひしめいてその流れに乗って動いていくのは、昼も夜も変わりはないが、昼の光は隅々まではっきりさせるのである意味夜より怖いと思う。ムガール時代のモスクは登っていくと壮観であった。大きなドームや高くそびえるミナレットを眺めながら感じたのは、強大な力であった。美しい完璧なシンメトリーの建築を前にして、おかしなことだが、心が解放されるというより息が詰まるような圧迫を感じて、ゴール氏が行こうと誘ってくれた天を突くようなミナレットには登れなかった。
夕食後屋上に上がって、つぎにゴール氏が計画している旅について語った。ワナラシ、ボッドガヤの名を挙げて、どうだ、いい計画だろうと言いたげに珍しく少し微笑んだ。宗教のことについて遥子は名ばかりの仏教だとスレンダルに言ったけれど、ゴール氏は遥子たちが仏教の聖地訪問を楽しみにしていると思い込んでいるようだった。ブッダガヤはお釈迦さんが悟りを開いたところだった、と思い出してゴール氏は遥子たちを喜ばせようと連れて行くつもりなのが分かった。ブッダガヤへの旅がどれくらいのものになるのか、アグラですら結構大変だったことを考えると、体調が一進一退で元気が出ない遥子にとって楽しみより不安の方が大きいのだ。それでも彼の気遣いがうれしく笑顔で感謝した。それにしても屋上は素晴らしい。そこに上がると住民各々がどう生活を楽しんでいるのかが見て取れるので、遥子は興味をそそられ一日中でもここに居たいと思った。
ブッダガヤへはまず列車で行った。駅構内は、人々であふれかえっていた。駅で夜を明かしたのか大勢の人々が地べたに布にくるまってまだ横になっている。列車に乗り込むとあの喧噪が嘘のように快適なシートだった。ゴール氏は本を読み何も余計なおしゃべりはしない。遥子は、列車の切符をどうやって手に入れるのか、それの値段や客車の等級があるのかなど、ゴール氏に聞きたいことがいっぱい湧いてきたが、列車の振動が心地よくいつの間にか眠ってしまった。矜子が遥子を揺り動かして起こしたとき、ゴール氏は席にいなくなっていた。
矜子は、寝ぼけ眼の遥子に食堂車に行こうと言った。食堂車があることなど思いもしなかった。ゴール氏が先に行って席をとっているらしかった。列車の通路にも人が多く、かき分けながらようやくたどり着くと、ゴール氏は奥の席で手招きした。テーブルは清潔に整えられスパイスやソースなどが置いてある。ゴール氏がウェイターに注文してカレーが運ばれてきた。薄いピンク色のソースのようなものが気になったのでゴール氏に聞くと、知らないのかと驚いて「ケチャップ」と言った。面白いので少し舐めてみると、少しもトマトの味がしなかった。朝から食欲はほとんどなかったが眠ったせいか食事はおいしく感じた。食堂車を出て別の車両に移ってすぐ「パン、パーン」と乾いた大きな音が食堂車の方から聞こえた。その場で人々は凍り付くように動きをやめ、静まり返って、互いに目を見合わせた。一呼吸おいてゴール氏は、銃声だ、と言うと、何かの騒動が起きていることを小声で付け加え座席に急いで戻ろうと遥子たちを促した。席についてもこの列車が大丈夫なのか心配だった。何が起きたのか、ケガ人がいるのか、そして犯人はどうなったのかなど知りたくて食堂車へ行ってみようと遥子が言うと、ゴール氏はインドではそれほど珍しいことではなく、警備員も乗り込んでいるので心配ないと静かに言った。矜子も危ないからここにいた方がいいと遥子を押しとどめた。初めて銃声を聞いて興奮し、浮ついた野次馬根性を出してしまったことに気づいて遥子は恥ずかしかった。
ガヤに着くまでの途中に何度も駅に停車したが、その都度物売りが殺到してきて開けた窓から手や物を差し入れてくる。ゴール氏は、一切かかわらないが、遥子はモンキーバナナの頬っぺたが落ちるほどのおいしさを知っていたのでその中の一番小さい子供から一房買った。列車でよく眠り、朝方ゴヤに到着した。駅は、デリーほどではないがやはり人であふれていた。駅のそばの食堂に入ったがあまり清潔と言えないような店内に遥子は怖気づいて、食欲がないのでいらない、とゴール氏に言ったが彼は「ここで食べないとこれから先に店はないから」と遥子の分も注文した。少年がテーブルに料理の皿を置いたとたん、真っ黒な大きなハエが文字通り山のようにたかり、真っ黒で何の料理なのかわからない。慌てて手で追い払っても次から次へどこから湧いてくるのか無数のハエがやってきて、皿の食べ物を明け渡してくれない。
ゴール氏を見ると、手で蠅を追うこともせずに悠然と食べている。そういえば手で蠅を追っ払うしぐさをインドで見たことがなかった。ゴール氏が食べているので大丈夫だろうと判断して、遥子も食べ始めたが蠅が口に入るのではないかという恐れと、以前の伝統料理の食中毒疑惑が頭を離れず、ほとんど残した。矜子の方をちらっと見ると、わずかに残しただけでほとんど食べ、遥子においしかったよ、と言って笑った。ブッダガヤはガヤからオートで行った。川沿いの道は、左側対岸に続く岩の崖を見ながら進む。見下ろせば轟音を立てて流れる大河、それを切り立った高い崖がどこまでもお供する景色に目を奪われ、少しも揺れや退屈を感じなかった。十数年前に政府が「仏教発祥の地ブッダガヤを世界平和の本拠地とする宣言」を発表したという。圧倒的多数のヒンドゥ教ではなくこの仏教誕生の地を平和の発信地とするところに他の宗教を敵視しない姿勢が見える。これは、おそらく他の宗教を恐れていない印で、それは仏陀がヒンドゥ教のヴィシュヌ神の化身に収まっていることからよくわかる。シク教の聖典にはヒンドゥ教の神ラムが出てくるといわれ、つまり、かくのごとくパルシー教もキリスト教もインドに平和的に入り皆ともに暮らしてきた。まして仏教はインドの地で生まれたのだから、何も違和感がないのだろう。宗教的対立も起きるが同時にヒンドゥ教徒がムスリム聖廟の面倒を見たり、カシミールでは少数のヒンドゥ教徒のためにムスリムがヒンドゥ教寺院を建てたりするなど、長きにわたる共存の歴史があるのだ。異なる宗教の平和的共存への道を遥子はここブッダガヤで思った。ネルーはインドを宗教国家にしないと宣言したことは改めて卓見だと感心した。向こうに高い塔が見え手前の門をくぐると、仏陀がそのもとで悟りを開いたとされる菩提樹が大枝を広げ、それを通り過ぎるとマハーボーティ寺院がある。木造瓦屋根の日本の寺のイメージはすっかり覆され石造りの地味で堅牢そうな小ぶりな建物の中に入ろうとしたところ、足元から老婆の声で靴を脱げ、とおしかりを受けた。見ると、しゃがんで鋭い眼光を向けた老婆が、手を差し出してお金を要求している。なるほど靴の管理料なのか、と納得していくらかのお金を渡す。中は、薄暗く参詣者と言えば遥子ら二人きりで誰とも会わず、ざっと足早に通り過ぎた。外の木陰で待つゴール氏とともに、しばしブッダガヤの風に身を任せ、穏やかな時間を慈しむように三人は無言で安らかな気持ちに浸ることができた。今年、この地に日本のお寺が完成した、とゴール氏が言ったので見に行くと真新しいお寺の堂がカラフルな布をたなびかせて建っていた。その周辺には、黄金色のタイの寺院やビルマ、チベットなど各国式仏教寺院もいくつかあった。日本に仏教が伝来したのが確か6世紀だから、と遥子が思いを巡らせて、矜子に「仏教が生まれて千年位経てから日本に伝わったのか」と言うと、矜子は「へぇ、そうなのね、いつの時代に復興された仏教がどのような経路を経て伝わるかによって仏教も微妙に違いがあるかもしれないね」と言う。矜子は大分県の出身で摩崖仏や石仏になれ親しみ、遥子は母方の実家が奈良の仏教伝来の地とされる桜井にあるので子供のころから仏像や寺院を身近に感じていたが仏教誕生の地に来てみると、改めてやはり現在のマハーボーティ寺院も古代の仏陀がいた時代のものとは同じではない、もっとも当時に存在していればの話だが、などととりとめのない考えをめぐらしながら遥子は、それでもと言うかそれだから、ますます時間と空間を超越して迫るものを感じた。

ゴール氏は、宿泊先を順次手配してくれたので遥子たちは、宿の心配なく快適な旅をすることができた。そして次に私たち一行は、ワナラシに向かった。ガンガーの河畔に階段状のガートが並び大勢の人々が沐浴をするということは聞いていたが、実際に行くことは、思いもしなかった。ゴール氏は、普段感情をほとんどあらわにしない人なのだが、ワナラシにこれから行くと告げた時、少し頬が赤らんで興奮気味に見えた。街は隅々まで路地が入り組んで古から連綿と続く嘆きとあきらめが幾重にもしみ込んだような暗い建物がびっしりと並んでいる。オートが細い路地をくねくねとかき分けて、爆音を上げて傍若無人に疾走する中、ゴール氏は、遥子にささやいた。ここは、寡婦の町なのだ、と。大昔は夫の死亡に妻が殉死したころもあったが、さすがに今はもうそんなことはない、でも夫の葬儀に付き添ってきてそのままこの地に留まることも多いのだ、と続けた。遥子は、未亡人たちはどうやって生計を立てるのか知りたかったが、何か胸につかえて質問を飲み込んだ。ガンジス川に出ると、大勢の人々で階段状の川岸は埋め尽くされていた。はるか向こうの岸辺では煙が上がっている。
川に入って沐浴する人々が引きも切らないが、ここにはインドの町につきものの喧騒はなく静寂が支配しているようだ。しばらくぼんやりと川や人々を眺めていたが、ゴール氏はここで待つように言ってどこかに消えた。遥子は、人々が何か唱えながら川の中に入っていくのを見て、入ってみたくなった。足を川の水に浸すだけでもしないかと矜子に言うと、「やめておいた方がいい、ここは普通の川でなく宗教的な場所だから」と賢明なことを言った。先ほどゴール氏が言った、ワナラシは寡婦の町ということばでカビールを思い出した。バラモンの寡婦がこの地で生んだ私生児カビールは捨てられ、ムスリムの職工夫婦に育てられた。カビールはのちに儀式や律法主義を排し宗教を人間に取り戻す運動をしたことで知られている。ヒンドゥ教徒とムスリムの融和と団結を解き、何よりカーストを真っ向否定して人間の平等を説いたことは仏陀の思想と軌を一にしている。カビールの思想はのちのガンディーやネルーさらに東洋人で初めてノーベル賞を受賞したタゴールにも影響を与えたと言われている。そんなことを思いながら遠く川面を眺めているとゴール氏が小舟に乗って岸にやってきて遥子たちを手招きした。急いで駆けていき不安定な小舟に船頭に助けてもらいながらやっと乗ると、ゴール氏は饒舌に実況中継のように話し始めた。今、あそこの船から白い布で包んだものを川に落とすけどそれはきっと子供の遺体だ、少し近寄ってみよう、と。船頭は器用に小舟を操り近づけると、ゴール氏は船の人と何やら話を交わし、天然痘で少年が亡くなったそうだ、と告げた。それを聞くと遥子はぞっとした、それと言うのも川で沐浴する人々は顔も口も何もかもすっぽりと水に浸かっているからだ。足を川に入れなくてよかった、信心無き者にどんな災いが降りかかるとも知れないのだ。ここはヒンドゥ教の聖地だが、仏教でいう生老病死が生々しくしかも静かに明るい日の下で交差して何も秘密がない稀有な場所のように思われた。ふとボートのへりに目を落とすと、巨大な蛇のような生き物が濁った川面に半分顔を出して小舟に近づいてきたので、遥子は、小舟の頼りなさに現実的な恐怖を感じ、もう引き揚げましょうと提案した。ゴール氏は、遥子のひきつった顔を見て、珍しく声を上げて笑った。初めてゴール氏の笑顔を見てつられて遥子もうつむいてにっこりした。
次にゴール氏が向かったのは、ベナレスヒンドゥ大学だった。頑丈な立派な古式ゆかしい建物が点在し、広大な構内は整然と整えられ、大樹がいたるところで安らぎの緑陰を作っている。心の赴くままに散策していると、ある胸像の前でゴール氏が立ち止まった。添えられた碑文にはパンディット・マダン・モーハン・マーラビーヤと書かれている。イギリス統治時代の1916年にイギリス支援によって設立されたインド最古の大学とか。遥子は、さらっと読んでも何も特に感慨はなかったが、その時矜子がマーラビーヤだと言った。ゴール氏が意味ありげに遥子に目配せして、遥子たちが大阪で講義を受けてきたマーラビーヤ先生のお父様であることを伝えた。胸像を改めてよく見ると確かによく似ている、そっくりだ。でもマーラビーヤ先生のことより、遥子の頭の中に浮かんだのは、ゴール氏は何者なのか、なぜ遥子たちが教わっている先生のことを知っているのかということだった。インド石油に勤めながらデリー大学の学生でもあるゴール氏がなぜ遥子たちにこんなによくしてくれるのか不可解だ。遥子は、ゴール氏の顔を初めて正面からじっと見つめた。するとゴール氏は遥子の視線から逃れるように、遥子の頭越しに早口のヒンディで話し始めた。後ろを振り返ると、いつの間にか数人の立派な身なりの紳士たちが集まっていた。話の内容はよくわからなかったが、どうやらパンディットマーラビーヤの子息が日本の大学で教鞭をとっているということを伝えているようだった。それを聞いたお歴々は、一様に驚きの声をあげた。それは、大マーラビーヤ先生の子息が大学で教えているということより、日本にいるということに驚いたようだった。それからゴール氏と彼らは、和やかに話し始めた。胸像前の邂逅は、何かあらかじめ決められたものだったような気もするが、偶然の通りがかりのなせる業なのかもしれない、がどちらにせよゴール氏という人物の謎を一層深めた。ゴール氏らの立ち話は盛り上がりを見せ、長くなりそうだったので、遥子らは所在なくきれいなキャンパスを散歩することにした。
遥子は言った「ここはベンガル地方。パキスタンとインドがイギリスから分離独立する時、ムスリムが多く住む東ベンガルとヒンドゥ教徒が多い西ベンガルに分かれて、東ベンガルがパキスタンとなったのだけど、パキスタン側は当初、パンジャブの全部とベンガルの全部を要求したそうよ。結局パンジャブもベンガルも分割されてインドのパンジャブ州、西ベンガル州となったのだけど、パンジャブもベンガルもインド側に住むムスリム、パキスタン側に住むヒンドゥともに双方向に移動をする際、裏切り者として多くが殺害された。当時の混乱と惨状は、目を覆うくらい酷いものだったそうだから、一体だったものが一旦分かれるということになれば、頭で考えるほど簡単なことではないということね」矜子は「当時ベンガル州全域がパキスタン領になっていたらタゴールはパキスタン人ということになったのかしら」遥子は笑って「タゴールは、きっとベンガルから脱出していたと思う。残念ながら、独立する前に亡くなってしまったけど。彼はインド人そのもので、インドの多様な文化の水源はインド人の意識という高所にあると言っていることから明らかだと思う。それから一切の存在に自己を見るものこそ真に見るものだ、という彼の言葉は、まぎれもなくバラモン教の聖典ヴェーダを想起するから」と言った。日本の大学ではこのような話をしたことがなかったのに、インドの大学に来てタゴールや哲学の話をするとは、と二人で笑った。遠くに来過ぎたので慌ててゴール氏の所へ戻ると、相変わらず話がはずんでいるようだったので、しばしそれが終わるのを傍らのベンチに座って待った。
その夜と翌日と簡素だが清潔な宿泊所でゆったりと体を休め、次の目的地ガンジス川の上流にあるリシケシュへ行った。鉄道の駅を降りてさらにオートで山間部の細道を疾走するのだが清涼な空気と山の景色、しっとりと水気を含んだ風に日本を思い出す。ヨガアシュラムがあることで知られ世界中から修行する人が訪れるそうだ。ゴール氏は、おびただしく連なる薄暗い洞窟のような場所に二人を連れて入り、無言を守った。半裸の細身の修行者ヨーギーたちが思い思いに修行に励んでいるのを横目で見ながら足早に通り過ぎ、事務所のようなところでお茶をいただいた。そこではアシュラムの説明書やパンフレット、日本人が珍しいのかヨガに関する本もいくつか頂いた。多くの人々が競って大いなる静寂を形作っている不思議な空間だった。
その夜ゴール邸に戻って旅程がすべて終了したことを知った。明後日はいよいよ帰国の途に就く。その後ゴール氏は、ある実業家の家に連れて行ってくれた。かなり裕福そうな家で晩餐会のようなものが開かれていて、まだ若そうな青年が近くアメリカに一家で移住するという。アメリカでのビジネスの抱負を熱く語るその姿にこれからのインドの未来に希望の光をもたらすのかもしれない、と思った。翌日荷造りをしていて遥子は大きなスーツケースが小さな敷物とサリーと頂いたパンジャブドレスでは埋まらないとわかり、矜子に「道端の落花生を買いに行こう」と言った。おじさんからほとんど買い占めて、スーツケースの空いたところに詰め込んだ。どこに行ってもインド人の垂涎の的だった寝袋はゴール氏にもらってもらおうと決めていた。翌朝支度を済ませ空港に出発するという時、ゴール氏が遥子たちを呼びに来た。玄関を出ると、なんとラジカプールが一人で立っていた。遥子は、驚いてしばし口がきけなかった。チャンディガルからわざわざ来てくれたことにお礼を言いながらなぜか涙ぐんでいた。あまりに驚きすぎてなのか再会を喜んでなのか分からないが、とにかくその心がうれしかったのだと思う。矜子は、遥子の様子を見て怪訝な顔をしてさっさと家に入り、残された遥子は、社交辞令として「また日本に来てください、案内します」というとラジは「いや行くことはないよ、飛行機嫌いなので」とあっさり言ってラジ独特の笑顔を作って遥子を見つめている。遥子は、この訪問の意味を知って背筋が凍った。「なにくれる?」なのだ。差し上げられるものは寝袋一つしかない、窮余の策として寝袋を中身と袋に分けて、ゴール氏に中身をラジに袋をあげた。そして結局両者の不興をかう羽目になった。寝袋は分裂したが、今後インドが一つの国としていつまでも存続してほしいと願うばかりだ。当然のことだが、遥子は帰国後は無鉄砲な逃避旅行のツケをしっかり払うことになった。