川を渡って

 山の雪が今年はなかなかとけない。いつもなら、新学期が始まるころ道端にふきのとうが顔を出していて、お母さんにもって帰る。お母さんは「わー、もうこんなにいっぱい出ているのね、幹夫はふきのとうを見つける名人ね。ありがとう。今夜はてんぷらにするわね」と言ってすぐに下ごしらえにかかる。僕は、そんなお母さんの顔を見たくて、春のにおいがしてくると、いちはやく雪がとけた地面にふきのとうを探し歩く。だれよりもはやくみつけることが大事。後になるとふきのとうは一斉にいっぱい出て、もう誰も食べられないくらいすぐに大きくなってしまうのだから。
 でも今年は、いつもと何もかも違っている。幹夫が4年生になったばかりの去年の春、お父さんが山の仕事で怪我をした。大きな町の病院にかつぎ込まれたときは、重症で大変な状態だった。知らせを聞いて、お母さんは、幹夫を助手席に乗せて、遠い道のりをずっと黙ったまま、暗い国道を運転し続けた。幹夫は、あんな怖いお母さんの顔を見たのは、後にも先にもあの時だけだ。

 それから夏が過ぎて、お父さんは、ずいぶんと良くなって、病院を退院し、家の中で一日中過ごしていた。足が不自由で、本当は週に1回か2回は病院に行ってリハビリをしないといけないのだけれど、近くになかなかいい病院が見つからず、行っていない。お母さんは、最初のころはお父さんに付きっ切りで世話していたけれど、雪が降り始めるころに、山のふもとにある温泉で働き始めた。お父さんはもう山で働けないそうだった。温泉場は冬には、結構湯治客があって、いそがしい。お母さんは最初のころは週に1回はかならず家に帰ってきていたけれど、だんだん2週間に一度になり、先月はたった1日、食料を持って帰ってきて、座るまもなく洗濯と掃除をすると、すぐまた行ってしまった。
 お父さんはこのところ、ふさぎこんでいることが多い。以前なら、幹夫に森や木のことをよく話してくれた。お父さんは、幹夫が小さいころには、町の会社に勤めていたのだけれど、木の仕事がしたくて、この山の村に来たのだ。森林組合の住宅に引っ越してきたときは、もうびっくりしてしまった。木造平屋で、とっても古くてあちこちすきまだらけ、板間が2つと畳の部屋がひとつ、どれも小さくて、入り口に立てばみんな見渡せる。そんな小さな家が、山道に面して全部で6軒建っている。でもだんだん人が出て行って、幹夫の家族のほかに、もう1人、男の人が何軒か向こうに住んでいるだけになってしまった。その人は最近やってきた人だけれど、あんまり家に居ないので良く知らない。

 幹夫の家の裏には小さいけれど、畑があってお母さんが野菜を育てていた。畑の向こうの急斜面を下りていくと、流れの速い小さな川が流れている。川には、ウグイやヤマメなどの川魚が時期によってはあふれるほどいる。お父さんがしょっちゅう魚を釣ってくるし、お母さんは野菜を育てるのが上手だし、あんまり食べ物は買わなくてよかった。お母さんは、本当は鶏も飼って、卵をとりたかったけれど、川の向こうはすぐ山だから、山の動物を呼ぶといけないので、鶏を飼うことはやめていた。お父さんが怪我する前は、お父さんもお母さんも幹夫によく話しかけてくれた。お母さんは特によく冗談を言って、お父さんと幹夫を笑わせた。
 家の太陽だったお母さんが働きに出てからずいぶんたったころ、幹夫が学校から帰ると、台所に小さな動物がいた。口に何かくわえていて、一瞬立ち止まり、幹夫のほうを見ると、驚いたようにさっとどこかへ行ってしまった。探してみたが、見つからなかった。けど、今の動物は何だったのか。幹夫は、お父さんが眠っているかどうか、確かめるため、ふすまをそっと開けて、見た。お父さんは布団に包まって本を読んでいた。
 「お父さん、ただいま。今、台所にリスみたいな動物がいたよ。茶色くて目がかわいいやつ」
 「ああ、テンかな。どれくらいの大きさ?」
 「小さかった、これくらい。顔が白かったよ」
 「イイズナかな」
 「イイズナ?」
 「うん。きっと、ネズミを食べにきたんだろ。」
 お父さんは、本から目を離すこともなく、気のないような返事をした。幹夫は、ふすまを静かに閉めて、台所に行くと、しばらくじっと立っていた。さっきの動物をもう一度見たかった。また来るに違いない。何度もさっきの動物の動きを眼で追ってみた。どこから入ってきたのだろうか。ざっと見ただけでは、よくわからなかった。「イイズナか」幹夫は、確かめてみたかったが調べる図鑑はなかった。お母さんがいたら、聞けるのに、と思いかけて、幹夫は急いで打ち消した。お母さんのことは考えないようにしていた。
 そんな事があってから、幹夫は家の周りの生き物に目を向けるようになった。今まで、鳥が鳴いていても、雪の上に足跡があっても、なんとも思わなかった。それにきっと、今までにも、森の動物が家にやってきていたのだろうけど、気づかなかった。それが不思議だった。雪の上の動物の足跡を、学校の図書室で調べることが毎日の楽しみになった。すると、イイズナ、のようなイタチの仲間から、タヌキ、キツネ、リス、ウサギが、幹夫の家の周りや川のほうへやってきていることがわかった。学校から帰ると、食事を作るお父さんの手伝いをして、簡単に夕食を済ませ、後片付けをすると、後は窓辺に小机を持っていって、宿題をする。勉強は最小限さっさと済ませて、電気を消して窓の外に目を凝らす。月明かりの夜は、特に楽しかった。白い雪が、まるでまぶしく照らし出された舞台のように、すべてがはっきりと見えた。暗い森を背景に、青い影が、すばやく走ったかと思うと、のんびり間抜けな顔をこちらに向け、いつまでも動かない。どこかでキツネが甲高く「ケーン、ケーン」となく。バサバサ大きな鳥の羽音がする。獲物をしとめたのかも知れない。たいていの動物は川のほうから、上がってきて、こちらに向かってくるので、暗い木々の間からいきなり影が、舞台に登場することになる。じっと目を凝らしていないと、見逃してしまう。
 明るい月の光が、幹夫の心を暖かさで満たした。ついつい遅くまで見入ってしまい、次の日はお父さんに、何度も起こされないと目が覚めなかった。
 雪の降る夜は、暗くてあんまりよく見えないけど、風がなく静かにしんしんと降る雪なら、動物たちがやってくるのがわかる。ガラス窓のすぐそばにテンが来て、こちらの様子をのぞいていたこともある。でも夜に雪が降ると、次の日はきまって玄関前の雪かきが大変なので、早く寝る。雪かきは、お父さんが怪我をしてからは、幹夫の仕事になった。いつもより早く起きて、学校に出かける前に玄関のドア付近の雪をきれいにする。雪かきは、幹夫には手におえないほど大変な仕事だった。それでも、幹夫以外にする人はいないので、汗を流し、手が痛くなっても音を上げなかった。
 吹雪が続いて、食料もそこをつきかけたある夜、お母さんから電話がかかってきた。お父さんは、ひどく怒って大声で怒鳴っている。猛烈に吹いてトタン屋根を揺らす北風の轟音と、お父さんの悲鳴にも似た叫びが混じって、幹夫の心は凍った。そんな夜が一番いやだった。

 でも今は、春、もうすぐ新学期が始まる。雪解けはいつもより遅いけど、幹夫の心は浮き立っていた。昨日お母さんから電話があったのだ。お母さんは元気そうに幹夫にこう言った「明日、畑にまく種を買って帰るわね。新学期だから、新しいジャンパーも持っていく。今度は、少しゆっくりできるのよ、いろいろ話をしようね。」幹夫は、なんだかじっとしていられず、いつもより念入りに台所をきれいにした。
 次の日のお昼ごろ、お母さんはダンボール3つ分の食料とお土産を持って帰ってきた。お母さんは少し疲れているようだったけど、早速お昼ごはんに、幹夫が好きなちらし寿司を作ってくれた。お父さんはめずらしく、歩く練習をするといって、出かけていた。
 幹夫がお父さんを探しに行くと、すぐ近くの林道の入り口にある大きな石に腰掛けていた。
 「お父さん、お母さんが帰ってきたよ。」
 「・・・」
 「ちらし寿司があるよ」
 「あー、今帰るから、幹夫は先に帰ってろ」
 しばらくして、お父さんが家に帰った。お母さんの味はやっぱり格別だった。三人でご飯を食べることがうれしかった。幹夫は食べながらずっと、この冬家の周りで見た動物たちのことを、お母さんに話した。お母さんは、ずっと前からそんな動物が家に入ってきたりしていたと言った。
 ご飯が済むと、なんだか重苦しい雰囲気を感じて、幹夫は山に出かけた。林道をあがっていくと、エゾマツの整然とした林が続く、まだ雪があるがしっかりとしまり、林の中を自由に歩けた。暗い林を抜けて明るい白樺林に出たころ、林道を入ってくる車の音が森の静寂を破った。こんなところになんだろう、と思って顔を向けると、木々の向こうに数人の人影が見えた。
 「このあたりから手分けして向こうのほうへ、2人ずつ。お前たちはあっちから、こうだべ」「犬は出すなよ」「今日は間違いない、しとめようや」
 途切れ途切れだけれど、人の声はよく聞こえる。猟をしにきたのだ。幹夫は、何を撃ちにきたのかわからなかった。クマかシカかウサギかキツネか、それともカモやハトのような鳥なのかな。どちらにしてもここにいては危険な感じがしたので、急いで林道へでようとして、もう一度車の止まっているほうに目をやって、男たちを見定めた。その中に見た顔があった。幹夫の家のならびに住むあの男の人がいた。幹夫はなんとなく見つからないようにそっと音を立てずに歩いて、山を出た。
 家に帰ると、お父さんとお母さんは大声で怒鳴りあっていた。幹夫は家の中に入らず、庭にまわった。雪が解けて、急速に顔を出している黒い土を触ってみた。ホカホカとやわらかく暖かかった。所々もう緑の草が出ている。去年はあまり手入れもできなかった畑。幹夫は、畑は自分がしなきゃいけないと思った。家の中に入ると、お母さんは泣いているようだったけど、思い切って、「種買ってきた?」と聞いた。お母さんは、袋からどさっと取り出すと、「まく時期はいろいろだけど、育てやすいものばかりだから」といって幹夫に渡した。まるで前から幹夫が畑をすることがきまっていたようだった。お母さんは、次の日そそくさと仕事に戻っていった。

 すっかり雪が解けて、畑の土がほっこりとなった。しっかり鍬をいれ、力いっぱい耕すのだが、一向に鍬は土深く入っていかない。重労働だった。幹夫は少しずつ耕すことにして、毎日、学校に行く前の1時間くらいを畑仕事に当てた。そして学校が終わるとまっすぐ帰って、畑をするのが日課になった。種が入った袋から、まく時期が早いものを選んで、順にまいた。肥料や水やりは何もわからなかったけれど、なんとなくお母さんがしていたことを思い出しながら、自分で考えた。
 ある日、豆をまいていると、背中のほうに何か気配がして、振り返った。畑の端に何かがうずくまっている。明るい茶色の動物は、しきりに何か食べていた。幹夫がしゃがんでじっとしていると、まるで幹夫に気がつかないのか、軟らかな畑の上を、あちこち歩き回っているらしい。きれいにならして、種をまいたところは、ぼこぼこと穴あきになる、と気が気ではなかった。幹夫はそれでも動物を驚かせたくないので、じっとして、その動物が何なのかをよく見ることができるチャンスをうかがっていた。子犬かな。そっと肩越しに見た。目が合った。キツネだった。キツネは幹夫と目が合っても、またすぐに何事もなかったかのように、何かを食べ始めた。キツネは幹夫を恐れる風もなくひとしきり畑をうろつくと川のほうへゆっくり下りていった。それはやせていて、少し小さいように見えた。冬の間、キツネも青いシルエットとして家の中から見ていたが、こんなに近くで見るのは初めてだった。幹夫は、心が震えた。それからしばらくたって、朝早く畑に出ると、キツネが川のほうからとことこ歩いてやってきた。前よりももっとやせて元気がないような歩き方だった。見ていると、イチゴの所へ行ってむしゃむしゃ食べ始めた。イチゴは手入れをしないで何年もほってあったから、すっかり味がないものになっていつの間にか収穫しなくなっていた。キツネが空腹そうに見えたので、幹夫は家に戻り、昨日の鶏肉の残りを持ってきてできるだけ遠くに投げてやった。キツネはしばらくきょとんとしていたが、においのするほうへ歩いて行って、おいしそうに食べた。食べ終わると、もっとほしそうにこちらのほうをじっと見ていたが、幹夫はもうやるものがなく、時間もないので畑仕事にかかると、そのうちどこかへ行ってしまった。
 それから、キツネは毎日やってきた。幹夫は、夕食の中から少しずつ、キツネのために取っておき、朝になるといつものところにおいておく。場所は一番初めに鶏肉を投げて、キツネが食べたあたりにした。幹夫が寝坊しておそくなると、キツネは来て待っている。でもキツネがなかなか現れず、学校に出かけてしまわないといけないときもある。そんなときは食べ物をおいておく。学校から帰ると、いつの間にかちゃんと、きれいになくなっている。幹夫は、キツネがこのところすこし元気になって大きくなってきたような気がして、うれしかった。だんだんキツネは幹夫のごく近くにやってくるようになり、時に、何か問いかけるようなまなざしを向けたりすることもある。幹夫は、かわいくて仕方なかった。
 ほっそりとした黒っぽい4本の足、それに比べてフワッとした明るい色の大きな尻尾。じっと目を凝らしてこちらを見るときの黒い目が優しかった。そして時々笑っているような表情をした。幹夫は、よくキツネに話しかけた。「いい天気だね」「元気かい」「おなかすいてないかい」キツネは、言葉で返さなくても、心をこちらに向けてくれるような感じがして、幹夫はいつも声に出して言った。キツネは、幹夫が作業するそばにうずくまり、じっと話に耳を傾けていることもあった。野生のキツネがこんなに慣れるとは思わなかった。
 「お前はどこからやってくるの」と聞いて、幹夫はこのキツネにも家族がいるのだろうか、と思った。いったいキツネがまだ若いのか、それとももう年寄りなのか、見当がつかない。
 はじめてみたときは、毛のつやもなくとてもやせていた。それに小さく見えた。今、金色のふさふさとした毛をまとい堂々としている。幹夫は少し触れてみたいと思って、手を伸ばした。すると、さっと緊張が走り、すばやい野生の動作で川のほうへ走り去った。きっと川の向こうの山に住んでいるのだろう。幹夫はキツネがなんとなく一人ぼっちのような気がした。
 「あれは何だ」幹夫は突然の声に、振り向くと後ろにお父さんが立っていた。杖をついて青白い顔をゆがめて、幹夫をとがめるように見ている。「キツネだろう、だめじゃないか。野生の生き物は、いろいろ病気を持っているかもしれないのだぞ。キタキツネは、エキノコックスだ。これからは、畑に入れるな」それだけ言って、家に入った。幹夫は、そんなことを考えたこともなかったので、動揺した。それよりお父さんはいつから見ていたのだろう。ぜんぜん気づかなかった。畑に入れてはいけない、ということは、もちろん食べ物をやってはいけないということだ。近づいてはいけないのか。幹夫はいっぺんに元気がなくなってしまった。
 「あのキツネは、ただのキツネじゃない、僕の友達だ。あんなに元気だから病気でもない。エキノコックスがなんだ。それにしてもお父さんは、前はあんなじゃなかった。山の生き物に対してもっと優しかった。僕にも・・・。」胸の辺りがぎゅっとして涙がこみ上げてきた。幹夫は、寂しかった。お父さんもお母さんも、変わってしまった。ずっと一人でこらえていた思いが、もう止められない涙になってあふれた。幹夫は、声を上げて泣いた。
 ひとしきり泣くと、背筋を伸ばして思った。「キツネは僕の友達だ。たった一人の親友だ。キツネには今までどおりやさしくする。ただ、これからは、お父さんに気づかれないようにしなければいけない」

 お父さんに注意されてからは、幹夫はすべて秘密にした。今まで、特に秘密にしていたわけではなかった、けれど幹夫がお父さんに何を話しても、お父さんはたいてい上の空で、聞いているのかいないのか、関心がないようだった。だから今までに、庭に来るキツネのことも話したかもしれない。キツネのために幹夫が食べ物を取っておくことも、見て知っていたかもしれない。幹夫は、お父さんはすべてを知っていて、黙ってそれをさせてくれていると思っていた。でも、そうではない、お父さんがキツネを嫌って追い払おうとしていることがわかった今、絶対見つからないようにしないといけないのだ。キツネの食べ物を確保するのは、食事の後片付けのときにした。食事は主にお父さんが作るので、それまでは手が出せない。後片付けは幹夫の仕事だから、残り物を集めることができる。お父さんは食事が済むとすぐ畳の部屋へ行って横になるからだ。でもたいてい食べ物はほとんど残らないことが多いので、幹夫は、自分が食べる振りをして食卓の下に滑り込ませる。キツネの好物が何かわからないけど、とにかく肉や魚類は、がつがつ食べるので、幹夫は自分の分を食べる振りしてできるだけ確保した。食後、残飯や食事を作るときに出た生ごみの中からキツネにやれるものを取り出し、こっそりとっておいた食べ物と一緒にして、流しの下の戸棚の奥に隠した。朝、お父さんが起きる前に、それをキツネのために置きに行く。幹夫は、ほとんど日の出とともに起きるようになった。そうすることで、キツネがやってきたら、お父さんに見つかる心配をしないで思う存分遊べる、と考えた。
 ところが、あの日以来キツネは、あまり姿を見せない。チラッと現れても遠くにいて、近づかない。警戒しているように見えた。幹夫がキツネに触ろうと手を伸ばしたあのとき、キツネはお父さんの姿を見たに違いなかった。キツネは、もう庭に来ないかもしれない、と思った。キツネのために食べ物を置くと、カラスがやってきてすぐに持って行くようになったこともあって、食べ物をおくことをやめた。
 幹夫は、畑にいてもぼんやりしていることが多くなった。お父さんの手伝いもあまりしなくなり、小言を言われると、口答えをした。なんだか無性に腹が立って仕方がなかった。
 「みんなお父さんがいけないのだ」と口に出しそうになるのを、やっとこらえた。言葉を飲み込むと、今度は心の中では、その思いがどんどんふくらんで行った。「お母さんがあんまり家に帰らなくなったのも、お父さんがやさしくしないからだ。一生懸命僕とお父さんのために働いて、疲れて家に帰ってきても、お父さんは怒鳴ってばかりいる。僕は、お母さんにもっと会いたいのに。それにキツネのことも、お父さんが悪者扱いするから、来なくなってしまったのだ。僕がどんなに悲しんでいるか、お父さんになんかわからない。あのキツネとは何でも話ができた。僕の友達だったのに」
 お父さんは幹夫の気持ちに少しも気づいていないのか、相変わらず何をするともなく家の中ですごしていた。特に幹夫に当り散らすことはなかったが、前よりいっそうふさぎこむようになっていた。お母さんの仕事は、ますます忙しいらしく、ずっと家に帰ってこない。日用品や食料品は、お母さんが定期的に送ってくれた。畑はこのごろ何も手入れをしていないのだが、勝手に菜っ葉が生い茂るので、野菜に不自由はしなかった。それでも足りないものがあると、幹夫はサカイ商店に行った。サカイ商店は、この辺りでは、なくてはならないたった一軒の店で、山を下りたところの十字路に面して立っていた。店の中は、昼間でも薄暗く、日差しのきつい夏なんか店に入ると、その暗さに目が慣れるまでしばらく入り口にたっていなければならないくらいだ。品揃えは幅が広く、文房具、金物、衣類、食品、と何でもあったけれど、暗さのせいか、すべての商品がくたびれて見えた。
 店にはいつもおばさんがいて、幹夫が行くと、いつも何かと声をかけてきた。「お母さんは、このごろ帰ってくる?」「お父さんはよくなったのかい?」といった調子で、遠慮がない人だった。幹夫は店に入るときに、他に客がいておばさんがおしゃべりに夢中であってほしいと願うのだった。

 ライラックの花が咲いた。幹夫は体調を崩して学校を休んでいた。実は、このところずっと学校を休みがちだった。お父さんが何もいわないのをいいことに、ぐずぐずと家にいた。畑の手入れにも出て行かなくなった。何にも関心が持てず、何をするにも気力がわかないのだった。ふわふわとした心をもてあましながら、ぼんやり窓の外を眺めては、ごろんと横になってうとうとしていると、お父さんが言った。「おい、幹夫、サカイ商店で小麦粉を買ってきてくれ。小麦粉がなくなってしまった」いつになく元気のよいお父さんの声に、とまどってすぐに返事できずにいると、お父さんは「今日は久しぶりにてんぷらを作るから、小麦粉がいるんだ」と、機嫌よくたたみかけた。幹夫はよりにもよってサカイ商店に行くのは、気が重かったけれど、いつになく元気なお父さんの声にうながされて、立ち上がった。坂道を下りながら、外にでるのは何日ぶりだろう、と漠然と思った。夕日の赤い光の中にライラックのいい香りが立ち込めていた。
 幸いなことに、サカイ商店には先客があって、おばさんは同年代らしいおばさんと大声で話していた。「昨日はシカをしとめたさ。大きな角の立派なやつよ」「猟銃を撃つなんて、こわいこと」「私は、昔から猟は趣味で、得意なんだよ」サカイ商店のおばさんは、客のおばさんの猟の話に合わせながらも、顔は幹夫のほうに向けていた。「シカなんておっきいもん、どうやってもって帰るのさ」「4人1組で行くからさ、女は私1人で、後はみんな男だからね。みんなやってくれる。1人じゃ、まさか行かないよ。また、キツネも撃つからね。」幹夫は、一瞬、頭が熱くなった。キツネを撃ち殺している。この付近の山の動物を趣味で殺している。幹夫は、小麦粉をカウンターに持っていって、お金を払うと、なぜだかかけだした。そういえば、いつだったか、まだ雪が残っていたころ家の近くの林道で、銃を担いだ人たちを見たことを思い出した。
 あの時は、自分とは何も関係ないと思っていたけど、今は違う。幹夫のキツネが姿を見せなくなったのは、お父さんのせいではなく、撃ち殺されてしまったからかもしれない、という思いが、わいてきた。家までの道のりはきつい上り坂で、走り続けられないけど、汗びっしょりになって、力いっぱい坂を上った。玄関を開けて、小麦粉をおくと、走って庭にまわった。畑も、キツネの食べ物を置いていたあたりもよく見た。やっぱりいない、キツネがいるはずもないことは幹夫にはわかっていたけど、いてほしかった。ひと目無事な姿を見たかった。幹夫は川の方へ下りていくと、高く生い茂った笹薮をかき分け、川べりに立った。川は水かさが増していたが、岩をたどっていけば山側に渡れるかも知れないと思った。川を渡って山に入るのは初めてだったが、きっぱりと水の中に足を入れた。なぜだか前から、キツネはこの山に住み、川をわたって、幹夫の庭にやってくるものと思いこんでいたので、迷わなかった。すべりそうになりながらも無事に川を渡ると、両手で思い切りよく、笹をつかんで斜面をよじ登った。
 這うように進んで、しばらくすると道に出た。山の中はもう薄暗く、足元はぼんやりとしか見えなかったが、それは一本の細いけもの道のようだった。幹夫は、キツネがこの道を通っていたし、今も通っていると感じた。道をどんどん歩いて行ったが、ふと、感覚がないほど足が冷えていることに気づいた。川を渡ったとき靴に水が入ったからだ。それでも幹夫には前に進むこと以外考えられなかった。
 どれほど経っただろうか、この季節でも夜になると、山は寒くなる。足も耐えられないほど冷たくなり、幹夫はとうとう立ち止まった。腰をおろし、足を両手でさすった。キツネに会いたくてやって来たのだが、いったいどこに行けば会えるのか、見当もつかなかった。足は少しさすったぐらいでは、何の変化もなく、つめたいままで、それどころかじっと歩かないでいると、すぐにがたがた体が震えてきた。仕方なく、今度は早足で歩き出した。暗い森をまっすぐ前へ前へと進んでいった。ようやく体が温まってきたころに、少し開けたところに出た。木がまばらに立っている草原で、星空がそこだけ明るく照らしていた。何気なく見ていると、黒い影が動く。シカだ!それも1頭じゃない。あっちにもこっちにも、角のあるのも、小さいのもいる。ぼんやりとした大小の影は、ゆっくりとくつろいでいるようだった。あの大きいのはお父さんで、あの小さいのは、子供だろうか、少しはなれてじっとしているのがお母さんで、それから・・・。幹夫は、なんだかとっても幸せな気分になった。空から小さな無数の星たちが、それぞれの光を懸命に届けて、シカの一家を祝福しているように見えた。山はその大きな体で、シカたちを抱き、木々や草花はシカとともに安堵していた。辺りはおごそかな静けさに包まれて、シカの息づかいまで聞こえるようだった。幹夫もシカの一家をまもる山の一部になっていた。そして山は幹夫を暖かく受け入れてくれた。

 突然何かあったのか、シカたちが動き出し、あっという間に森の中に消えてしまった。幹夫は一人取り残されたような気がして、ふとわれに返った。忘れていた寒さと、さらに疲れ、そして新たに空腹が幹夫を襲った。なんとなしに今来た道を戻ろうと思い、振り返って足元を探したが、道がわからない。シカを見ながら少しずつ道からそれて動いていたのだろうか。足元は暗く、道といっても、もともと動物が踏み分けてできただけのものだ。細い道から、ひらけたところにでるのは簡単だが、その逆は容易ではなかった。確信が持てなかったが、この辺だろうと決めたところを歩き始めた。少し歩くと、また木々が空を隠し、真っ暗になった。道は、まったくわからなかった。木の根につまずき、笹をこいで、歩き進むうちに、ここはもと来た道ではない、ことがはっきりしてきた。山の斜面は、急で、木の枝につかまりながら、そろりそろりと一歩ずつ下りた。しかし徐々に傾斜が急になって行き、幹夫はしだいに木の枝にぶら下がらなければならなくなった。このまま下りれば、がけを落ちていくのではないだろうか、という思いが頭をよぎり、怖くなった。戻るしかない。戻るにしてもどうして、どこに戻ればいいのだろう。木の枝にしがみついて、幹夫は途方にくれた。遠くでかすかに水の音がする。川までは遠い。もう一度、どうしてもあのシカを見た草原に出なければ、と思った。幹夫は真上に這い上がるのではなく、笹や木の枝にしがみつきながら、斜めに這い上がろうとした、それならできそうに思えた。そして歩みだそうとした、ちょうどその時、少し下のほうで、ごそごそと笹を揺らす音がした。クマだ!この山にクマが住んでいることは、地元では知らないものはなかった。幹夫は凍りついた。どうしよう。一瞬、獣のにおいが鼻をかすめた。動かないでじっとしたが、体が小刻みに震えるのをとめることができない。幹夫の周りには暗く深い闇が広がり、目をこらしてもなにも見えない。耳を澄まして、クマの位置を笹のすれる音で探らなければならない。さらに神経を集中し、クマの息づかいを聞こうとした。その時、山の上から甲高い動物の鳴き声が聞こえた。最初は弱くかすかだったが、何度も何度も鳴いているうちに、声はだんだん大きくなっていった。するとクマは幹夫の下から上がってきた。幹夫は見つかってしまった、どうしよう、と思うか思わないうちに、クマは幹夫の横を通って、その鳴き声のする上の方へ、ゆっくりと上っていった。幹夫は、心底ほっとした。助かったのだ。そしてわかった、思い出した!キツネの声だ。冬の寒い夜、聞いた声だ。幹夫は、クマが確かに行ってしまうまで待って、クマが笹を倒して作った道をそろそろと上った。クマに続いていけばキツネに会えるような気がした。
 「僕のキツネだ」幹夫は、山をよじ登りながら、ずっと心の中で繰り返した。笹を掴み、岩を足で探りながら慎重に一歩ずつ上った。キツネに会える、と思うとなんだか力がわいてきた。だんだん慣れてきて、ゆっくりだがリズミカルに上ることができるようになって、少し平らなところに出た。けれども、それがシカを見たところかどうか、まったく見当がつかない。幹夫は、自分がどこにいるのかわからなかった。斜面が途切れた以上、クマの道もわからない。川の音がするほうへ下りていけばいいのだが、さっきの失敗を繰り返しそうな気がする。幹夫はくたくたに疲れていた。笹を掴んで上ったときに、笹の葉で手をきったのか、両手がひどく痛かった。このままここでじっとして動かず、朝になるのをまとうか、と思ったが、じっとするとすぐに体が冷えた。凍えるほど寒い。それに少し風が出てきた。すぐ帰るつもりでお使いにでたから、ジャンパーも着ていなかった。とにかく歩こう。下のほうへ、川の音がするほうへ、行くしかない。周りを見回すと、幹夫は、すたすた歩き出した。道を探しても、どうせわからないのだ。足元がよさそうなところを進んでいった。お腹がすいて、体はだるく、歩いていても眠気が襲ってきた。もうろうとしながら、ふらふら歩いていたが、さっと何かが前をよぎったような気がして、少し覚めた。耳を澄ますと、前方で小さく声がする。キュンキュンと犬が甘えるような声が、風に乗って切れ切れに聞こえる。幹夫はそのまま声のするほうへ歩いた。下り坂を、キュンキュンと声のする方へ、声を頼りに進んだ。声は、どんどん前へ進んで行って、いくら追っても追いつけない。そして気がつけば、いつの間にか道の上を歩いていた。もと来た道、あのけもの道を歩いていた。川の水音が大きくなって、家が近いことを知った。この道を行けば、もう大丈夫だ、幹夫は、急いだ。川を渡り少し上ると、家の明かりが見えた。玄関を開けると、お父さんが、立っていて、幹夫を見るなり、「どこへ行っていたんだ。心配したぞ。」と言って幹夫を抱えた。お父さんのか細くなった手がわなわなと震えているのがわかった。
 「ごめんなさい」と言って、あとは言葉にならなかった。
 食卓には、これから夕食を食べようと、山盛りのてんぷらがおいてあった。幹夫は、足だけ拭くと、着替えもそこそこに食べ始めた。すっかり冷めていたが、今迄で一番おいしかった。幹夫はそれからすぐ眠りに落ちた。

 次の日、幹夫が目覚めるともう夕方だった。うとうとしていると、お母さんの声が聞こえた。起きていくと、お母さんが「幹夫、昨日はどうしたの?どこへ行ってたの?お父さんから連絡をもらって、夜明け前に帰ってきたのよ。大丈夫なの、どこもけがはないの?」と矢継ぎ早に質問をたたみかけた。そういえば、両方の手のひらが切り傷だらけで、寝ていてもずきずき痛んだ。お母さんに見せると、「まあ、大変だ」と言って薬を塗ってくれた。昨日お父さんが何も聞かなかったので、お父さんもお母さんも、幹夫がどこで何をしてたか何も知らないのだ。幹夫は、少し口ごもって、「裏の山で道に迷っただけだよ。でも道がわかって帰ってきたから、もう大丈夫。心配かけてごめんなさい。」「夕飯の時間なのに、山に行ったの?山なんて今まで行った事ないじゃないの。あの山はクマがでるのよ、何しに行ったの?」とお母さんは、もっと知りたがったが、幹夫はおなかがすいたと話をそらした。何をどう話していいかわからなかった。うまく言えないと思った。
 幹夫は、キツネは元気に山で生きている、と思った。無事でよかった。ちゃんと会ったわけではないけど、大丈夫だと感じた。だから、山に行ってよかった。それに、お父さんも、ご飯も食べないで、幹夫を探してくれた。お母さんは夜中に車を走らせて、帰ってくれた。幹夫は、うれしかった。両親が、自分のことを心配してくれていることをあらためて知った。

 あれ以来、幹夫は学校をずる休みしなくなった。畑も、毎朝きちんと手入れした。ずっとほっておいたので、草は伸び放題になっていた。幹夫は、学校が終わるとまっすぐ家に帰って、日が沈むまで畑の手入れをした。夏の午後、畑に立っているだけで汗ばんだ。もう小さな虫が、地面から無数に飛び立ち、幹夫を容赦なく襲う。刺されたら、山の虫は強烈で、そのかゆいことといったらない。それでも畑にできるだけいるようにした。ひょっとしたら、あのキツネが、また姿を見せてくれるかもしれない、と思ったからだ。畑にいるときは、耳を澄まして、背中にも神経をはりめぐらして、キツネの気配を見逃さないようにしていた。夏休みにはいると、朝から晩まで文字通りずっと庭にいた。
 ある暑い日曜日、なんだかいいにおいがするので家の前に出てみると、同じ並びの住宅に住む、あの男の人が、玄関の前にコンロを出して、肉を焼いているようだった。幹夫は、なんとなく目が合って会釈すると、その人は、手招きをした。幹夫が、どうしようか迷っていると、ニコッとわらって、今度はもっと大きく手招きをした。幹夫は、その笑顔とにおいに吸い寄せられた。
 「お父さんの具合はどうですか?」
 「ええ、まあ」
 幹夫は、網の上にのっている赤い肉から目を離すことができなかった。
 「これ、・・・」
 「もうすぐ焼けるから、食べましょう。あ、僕は西山です。君は?」
 「幹夫」
 「幹夫君は何年生?」
 「5年生です」
 西山さんは、幹夫に取り皿とはしを渡して、
 「遠慮しないでどんどん食べてください、肉はこんなにありますから」
 と言って、コンロの横においてあるクーラーボックスの中を見せた。肉は塊で入っていた。
 西山さんが、自分でどんどん食べ始めたので、幹夫もいただきますと言って、食べ始めた。
 炭火で焼いた肉は、本当においしかった。西山さんは、家に入って缶ビールを持ってきた。もう2缶目だ。幹夫には、コップをわたして、水道のあるほうを指差した。
 「水ね」
 「あのう、聞いてもいいですか?西山さんは、猟をするのですか?」
 「僕は、シカだけです。シカの数が増えすぎて、山の木がやられてしまうので、そういうときしかしません。猟期があってね。幹夫君は猟に興味があるの?」
 「いや、動物を殺すのは、いやです。」
 「僕も、動物を殺すのは好きではないです。でも、数が増えすぎると、シカも結局生きて行けないのがでてくる。僕たち生き物は、生き物を食べて生きているわけで、他の命をもらわないと自分の命を保つことができないのです。僕は、殺した生き物は、全部無駄にせず食べます。生き物の命を奪った責任は、ありますから」
 幹夫は、あまりよくわからなかった。でも、サカイ商店で聞いた、おばさんの猟の話と違うのはわかった。幹夫は、あらためて肉を見て、これはシカの肉なのだ、と思った。あの晩、山の中で見た、シカの群れ。シカの親子の情景を思った。ある日突然お父さんやお母さんが、猟銃で殺されるシカの子をかわいそうだと思った。幹夫が今感じていることを、西山さんはどう思っているのか、聞いてみたかったけれど、聞くのをやめた。夜の山で幹夫が体験したことを、言葉でうまく表せそうもなかった。「ごちそう様」と言ってはしとお皿を返し、帰ろうとした。すると、西山さんは、ちょっと厳しい顔つきで言った。
 「幹夫君、野生の動物に食べ物をやったらいけません。この前、ずいぶん前だけど、君がキツネに食べ物をやっているところを見ました。キツネは、食べ物をもらうと、それに慣れて自分で探さなくなります。ですから、人間の都合で、食べ物がもらえないことになると、困るのはキツネのほうなのです。このことを君に知ってほしかった」
 幹夫は、キツネのことに話が及ぶとは、思いもよらなかったのですっかり、あわててしまって、何もいわずにその場から走って家に帰った。

家の中では、お昼ご飯のカレーライスのにおいが立ち込めていた。幹夫は、今食べてきたことを、お父さんに言わなければいけないと思い、「西山さんのところで、焼肉をご馳走になったので、お昼は食べないよ」と言った。お父さんは、「西山さん?ああ、あそこの人、西山さんっていうの」と言ったきり、1人で、黙って食事をした。流しに食器をもって行くと、座りなおして幹夫を呼んで、言った。
 「この家を出なければいけない。山の仕事をしていない者は、この家には住めないのだよ。早く出てほしいといわれていたけれど、行くところがなくてできなかった。ところが、お母さんが、住み込みで働いていた温泉宿の紹介で、安く貸してくれるところが見つかった。1ヶ月後くらいに引越しだ。学校も転校することになる。」
 幹夫は、何もかもいっぺんには受け止められなかった。「僕は、ここに残るからね!」そういうと、庭に出た。草とりをしながら、今では、実をつけ、花が咲いているこの汗の結晶の小さな畑は、『僕のものだ、誰にも渡さない』と思った。この庭には、幹夫がいなくてはいけないのだ。朝から晩まで、長い間ここで過ごした。それもこれもキツネがやってきたときに、幹夫がいて、「やあ、元気だったかい?」と言ってやりたいからだ。やせて小さなキツネがここにやってきたとき、幹夫は、何も考えずに、食べ物をやった。西山さんのいう通り、野生の生き物には何も食べ物はやらないほうがいいのかもしれない。でも、あんな姿を見て、何もしない人にはなりたくない。キツネは、そのあと幹夫の食べ物を食べて、つやつやの毛並みの元気なキツネになった。そして、幹夫の友達になってくれた。一人ぼっちで行き場のなかった時、幹夫の寂しさを慰めてくれた。お父さんを見て、キツネが驚いて逃げてしまってから、姿を見せなくなったけど、別に、死んだわけじゃない。山で生きている。ちゃんと幹夫を覚えていて、山で道に迷ったとき、道を示してくれた。幹夫は、キツネに会いたいと思った。もう一度会って、助けてくれたお礼とそれから・・・お別れを言いたい。幹夫は畑の草取りをしながら、キツネが来てくれることを願った。
 引越しまであと2日。キツネは来なかった。お母さんが帰ってきた。「幹夫、これからもうずっと一緒に住めるのよ。お母さんは幹夫に寂しい思いをさせてしまったね。ごめんね。でも家族が一緒に暮らせるように、お母さんも必死でがんばったからね。これからは、お父さんも病院に通えるし、そうしたら、新しい仕事を見つけるって言っているわ。また、前のように楽しく暮らしましょう」お父さんとお母さんは、うれしそうに荷造りにとりかかった。次々とダンボールが積み上げられ、部屋の中が殺風景になっていった。幹夫は、朝も昼も時には、夜も庭にいた。幹夫の畑は、完璧なまでに実った。『僕がいなくなっても、山の生き物はこれを食べることができる。この小さな畑の一角に水田を作ったから、小鳥のためのお米もある。とうもろこしは、甘くておいしいよ。誰も食べなくても、種が落ちてまた来年作物ができるかもしれない。』

 いよいよ明日引越しという夜、幹夫は寝付けなかった。すぐ横にダンボールが積み上げられ、蒸し暑く、息が詰まりそうだった。幹夫はあの山の中で道に迷った夜のことを思い出していた。シカやクマやキツネが本当にいたかどうか、あれは夢ではなかったのか、今となっては確かめようもないけど、その記憶が、確かに幹夫の目や耳、そして何より心に焼きついて残っているのだった。寝返りを打って、眠ろうとしたとき、『ケーンケーン』という声を聞いたような気がした。幹夫は、そっと家を出て、庭に立った。さっと涼しい山の空気が、幹夫をつつんだ。草の青いにおいが気持ちを生き返らせた。月が、明るすぎるほど庭全体を照らしていた。川の水音に混じって、遠くで甲高く「ケーンケーン」となく声が聞こえた。幹夫は小さな声でささやくように言った。「いいよ、わかっている。お別れだね。ありがとう。元気でね。ここには来ないほうがいい。山のほうが安全だから。僕たちいつまでも友達だよ。じゃ、さようなら」幹夫は、庭を一巡すると家に入って眠りについた。翌朝、トラックに荷物を積むと、お母さんの車で家を後にした。庭にはもう行かなかった。