鳥の目展望台

(一)

 展望台は、小さな山の上にある。海も、町も、畑も山も、そこから見えないものはない。全部が空の下で眠っているようにみえる。

 今日は土曜日、朝からすっきりと晴れわたってすがすがしい。秀一と弟の章太は、朝食を食べるのももどかしく、黙って茶碗のご飯をかき込むと、玄関横の自転車置き場に先を争って駆け込んだ。秀一は、いったん自転車にまたがったけれど、ドアに鍵をかけるのを思い出し、弟に待ってくれるように言おうとした。けれどもいつものように、弟の自転車はもう通りに出ていた。ご飯を食べているときから、なんだか二人して笑いをこらえているような感じだった。それはきっといつも判で押したように同じ事が繰り返されるのを知っていたからだ。秀一は、苦笑いをして自転車を降りて、鍵を閉めた。誰もいない通りを全力で疾走すると、ようやく神社の鳥居が見えてきた。弟の自転車の横に自転車を止めて、急な石段を駆け上がった。秀一は、稲荷神社の社の前を通るとき、ほんのわずかに社殿に向かって会釈して、建物の裏にまわり、展望台に続く細い急な坂道をよじのぼった。しばらくすると弟の姿を下からとらえた。息をハアハア弾ませてはいたが、足音を立てないように気を付けながら登ってようやく弟に追いつき、笑いがこみあげるのをこらえて、シャツを少し引っ張って道の脇に弟を倒して、一気に山頂まで駆け上がる、その後を、弟のわめき声が追いかける。展望台まであと少し。思いっきり走って、展望台まで行き、らせん階段を二段とばしで上ると、大きな空が目いっぱいに飛び込んできた。展望台にたどり着き、見下ろすと国道に沿って、色とりどりの小さな屋根がひしめきあっている。ここに来ると秀一は、いつも真っ先に自分の家を探す。お父さんが、小学校の先生をしていて、木造平屋の古い教員住宅に住んでいる。家は小さく、まわりに大きな木々が茂っているので、屋根は見えない。けれども一群の緑が目印となって、だいたい見当がつく。あの辺だと思うと、なんだかうれしくなってくる。

 章太がやってきて、「もう少しで逃げ切れるところだったのに」と言って悔しがった。秀一は、少し微笑んで船着き場に目をやった。まだフェリーが着くには間があるけれど、車やトラックが何台もターミナルの方に出入りしていた。
 「もう行かなきゃ、魚つり。約束したんだ。兄ちゃんまだここにいてもいいけど、竿とか取りに一度家に帰りたいから、鍵ちょうだい」

 「うん、鍵・・・あれ」

 秀一は、ズボンのポケットを探したが、鍵はなかった。左のポケットに小さな穴があった。人差し指がやっと通るくらいの穴に、指を突っ込んで、秀一は、落としたのかもしれないと思った。
 「鍵は?ねえ、どうしたの?」

 章太は、両手をポケットに突っ込んで黙ってうなだれている秀一に、少しいらだったが、もう慣れっこになっていたので、あきらめ顔で言った。

 「落としたの?ポケットに入れた?本当にないの?・・・仕方ない。道に落としたかもしれないから、一緒に探そう」

 章太は、さっさと展望台を降りていく、秀一は、もう少し海を見ていたかった。岸壁で作業する人たちが、何か言い交わす声が風に乗って耳に届く。言葉は聞き取れないけれど、きっと冗談でも言っているのだろう、時々笑い声がおきる。秀一は、いつも不思議だった。海から遠くはなれた山の上に立つ展望台なのに、ここでは何でもよく聞こえるのだ。カモメの鳴き声や、波の音、フェリーの発着場のアナウンスなら聞こえるのが当たり前だけど、あんなに遠くにいる人の話声が、何を言っているのかわからないのに、声そのものだけが耳に届くのだ。

 「早く、降りてきてよ。二人でしっかり見ないと・・・もう、なにしてるの、僕一人じゃ探せないよ」

 展望台から降りたのだろう、章太が下から叫んだ。

 二人はそれから神社までの下り坂、自転車で走った道をゆっくりと見て回った。でも見つからない。とうとう家の玄関前にたどり着いて、そこら辺を念入りに探したけれど、鍵はみつからなかった。

 「家に入れない。いやだな、竿がないと釣りが出来ないよ」章太は、独り言のようにつぶやいて自転車にとび乗り、行ってしまった。

 秀一は、 何か言おうとしたが、いつものようになにも言葉が出てこない。言葉を探しているうちに、あっという間に、自転車に乗って章太がいなくなった。今朝早いうちから、お父さんとお母さんは、函館のおばあちゃんの所へ農作業の手伝いに行った。遠いので、帰るのは、きっと夜になるだろう。秀一は、困ってしまって、もう一度鍵を探しに出た。展望台までの道を、今度は歩いて行った。下ばかり見ながらゆっくりと歩いていると、展望台までの道のりが長く感じられた。鍵をなくすのはこれで何度目だろう、いや、なくすのは鍵ばかりじゃない、手袋、帽子、上着、カバン、などもどこかに忘れてきてしまう。落とすのか、置き忘れるのか、よくわからない。学校では、宿題や持って行く物を忘れる。一年生になったとき、お母さんが「忘れ物がないように、宿題や、持って行く物はここに書けばいいよ」と言って小さなメモ帳をわたしてくれたけど、一度も書くこともなく、メモ帳はどこかに行ってしまった。それ以来、六年生になった今も、ずっとお母さんは、秀一の物忘れをとても心配して、忘れない工夫をしてくれている。それは効果を発揮することもあれば、何の効き目もないものもあった。財布に鈴をつけようが、上着に名前を書こうが、なくすときはなくした。そのたびに、お母さんは、がっかりして「よく思い出してごらん、最後に見たのはいつ、どこだった?」と秀一に悲しそうに尋ねるのだった。秀一は、お母さんに悲しい思いをさせているのが心苦しく、何か言おうとするのだが、頭の中のどこを探しても言葉が見つからない。何か言わなければいけないと思えば思うほど、口はどんどん重くなり、そしてさらに困ったことに、ふてくされたような仏頂面になってしまうのだ。

 とぼとぼと下ばかり見ながら歩いていると、なんだか自分はいつもみんなを困らせているような気がして、ふっと寂しさがこみあげてきた。秀一はみんなと仲良く、楽しく過ごしたいのに、みんなは秀一といると楽しくなくなって行くのだ。先生やお母さん達は、いつも気を配ってあれこれ教えてくれるが、そのうちに悲しそうな顔になる。弟や友達は、いつの間にか秀一のそばからいなくなる。そしてお父さんは、怒る。

 『みんな、こんな僕を好きなはずがない』

 秀一の心は重かったが、それでものろのろと歩き続け、神社の鳥居をくぐって、社殿を通り過ぎ、裏山の道をのぼり、展望台に着いた。展望台の上は、さっきと違って、空一面黒雲に覆われ、風が吹いていた。カモメの大きな群れが海の方からやって来て、秀一の頭の上を一瞬かすめたかと思うと、すぐまた海の方へ消えていった。するとまた鳴き声とともに、どこからかカモメの一群が姿を現し、展望台の上で旋回して去っていく。それはまるで風にのって舞っているように見える。見ているうちに、秀一は、うれしくなって、「さあ、こっちこっち、もう少しこっち、僕の上に来れば、成功だ。ああ、・・・少し高さがたりなかった、次は、ちゃんと風に乗るんだ・・・さあ」と両手をぶんぶん振り回しながら、叫びはじめた。風とカモメと、秀一は、息を合わせてチャレンジを繰り返した。

 そんなことをしているうちに、急に、背後から何か音がしているのに気づいて、秀一は、ドキッとして後ろをふりむいた。誰もいないと思っていたのに、男の人が。ゴミを拾っているのか手に袋とトングを持っている。大声を上げていた秀一は、ゆっくりと視線を海に戻した。でも恥ずかしくて、空も海も、風もカモメも何もかもが遠くに去り、秀一は、展望台の柵に溶け込んで、黙るしかなかった。

 身じろぎもせず、男の人が行ってしまうのを待っていたが、なかなか行きそうにない。大声を出して騒いでいたので、見回りにやって来たのかもしれない。秀一は、待ちくたびれて、もう一度そっと振り向いて様子をうかがった。小柄な老人が、ゆっくりとゴミ拾いをしている。特に秀一の方を探っている風には見えない。掃除をする人なら、落とし物のことを知っているかもしれない。秀一は、勇気を出して思い切ってきいてみることにした。

 「あ、あのう、今朝、この辺に鍵が落ちていませんでしたか?」

 老人は、顔を上げて声のする方を見て、「鍵?」と言って少し考え、「何なら見に来るか」と言うなり、すたすた歩き始めた。秀一は、老人が言った言葉の意味がよく分からなかったので、もう一度、何か問い直そうとしたけれど、どう言えばいいのか分からなかった。それで、聞くのはあきらめ、何か手がかりがあるかもしれないと思って、少し遅れて後を追った。老人は、らせん階段を下りて、すぐの所にある壁の前に立ち、秀一が来るのを待っていた。らせん階段が終わるとすぐに出口なのだが、出口と反対側で階段下の薄暗いところを指さし、「ここだ」と言った。そこは真っ白な壁で、よく見てもなにもない。秀一が、訳が分からず狐につままれたような顔をしていると、老人は低いところにある小さな入り口を開け、屈んで入っていった。

 「こんな所に扉があるなんて、知らなかった・・・何回もここに来ているけど」 とつぶやきながら、秀一も、思い切り屈んで入ると、そこは事務室みたいだった。

 入るとすぐ左側に受付カウンターがあり、老人はその中に入ってほんのわずか秀一を正面から見据えた。白髪をオールバックにして、鋭い目、とがった鼻、見たこともない顔だった。背にした壁一面に、こまごまとした物がぎっしりと掛かっている。手袋片方、帽子、マスク、ノート、割れためがね、靴下、お守りなど。思い出したように少しうなずいて、老人は、カウンターの下から重そうに箱を取り出して、ドスンと上に置いた。見ると、中にはぎっしりと鍵が詰まっていた。

 「鍵は多いから大変だ。まあゆっくりと見とくれ。その机を使っていいよ」

 秀一は、後ろにある机の上に鍵の箱をおいて、じっと見た。どの鍵も似たり寄ったりで、区別がつかない。

 そもそも秀一は自分の家の鍵を覚えていない。つい一月前に、玄関の鍵をすべて取り替えたばかりだった。それというのも、秀一は、何度も鍵をなくして、困っていたときに、ジャンパーに名前を書いておいて、届けてもらったのを思い出し、自分で鍵に名札をつけておいたのだ。住所と名前とそれに電話番号も書いたのに、またそれをなくしてしまった。お父さんは、すごく怒って、「鍵に、住所と名前を書いておく奴があるか。ドロボーが拾ったらどうするんだ。もうおまえのようなぼんくらには鍵はわたさない、章太が管理するようにしなさい」と言った。このときばかりは秀一の口から、「いやだ-」という言葉がいち早く飛び出した。後は大粒の涙で顔がぐしゃぐしゃになってしまったので、お母さんが取りなしてくれて、再び秀一が鍵を管理できることになったのだ。ただし名札はつけない、二度となくさない、次になくしたら、鍵の係を章太にする、ということをお父さんと約束した。章太は四年生で、勉強をはじめとして何でもよくできた。それにいつも友達に囲まれている。この頃背も伸びて秀一とあまり変わらない。でも章太は弟だ。秀一は、弟を守る兄なのだ。どんなに勉強や運動が出来たって、弟は今までも、これからもずっと秀一のたった一人の弟なのだ。章太は、秀一が鍵をなくす度に、予定が狂って困ってしまうけれど、なぜかその時も、「鍵は、兄ちゃんが持っていて、僕はいいよ」と言ってくれた。それなのにまた、秀一は落としてしまったのだ。

 箱いっぱいに入った鍵をじっと眺めて、手を出そうとしない秀一を見かねて、老人は「そこにザーッと空ければいい。そんな風に見ていても君の鍵は見つからないよ」と言いながら、カウンターから出てこちらにやって来た。秀一は、慌てて一番上の真ん中にあり、新しそうな一つの鍵を手に取った。今朝落としたのだから一番上にあるはずだ、それに自分の鍵を全然覚えていないことを知られたくなかった。老人が箱に手をかける前に、秀一は鍵を手にとって、「あった。これが僕の鍵です」と言った。すると老人は、疑わしそうに「本当かな?もっとよく見ないと、他の人の鍵を間違えて持って行っちゃ困るから」と言うが早いか、箱を机の上に逆さにして鍵をジャラジャラぶちまけた。

 「さあ、このイスに座って、鍵を一つ一つよく見るんだ。そうすればきっと見つかる。ゆっくりと探せばいい。ここで落としたのなら間違いなく君のも入っているはずだ」

 秀一は、老人のきっぱりとした口調に気圧されて、なんだかボーッとして、もうおとなしく、老人の言うとおりにするしかなかった。イスに座って、手に持っていた鍵を机の一番端に置いて、鍵の山から一つずつ取り出し順に、並べ始めた。鍵は、どれもそっくりに見えるが、よく見るとほんのわずかに違っていた。全部並べ終わっても、自分の鍵がどれなのか、さっぱり分からない。それでも秀一は、とにかく鍵を持って帰りたかったので、一番最初に置いた鍵を取り、「これ、僕の鍵です」と言って立ち上がってカウンターの方を見た。老人はいない。どこにも姿はない。秀一は、残りの鍵をいそいで箱に入れ、カウンターに持って行き、小さい扉から出て、あとは鍵を手で握りしめてがむしゃらに走った。これが自分の鍵かどうか分からないけど、とにかくこれを持っていれば鍵をなくしたことにはならないような気がした。

 神社までの急な下り坂を、一気に駈け下りた。心の中では、握りしめた鍵を落とさないように、老人が後を追ってこないようにと願った。やっぱり老人が戻るのを待って、この鍵を持って行くことをちゃんと言うべきだった、と思った。神社につくと、秀一は、社殿の階段に腰掛けた。お腹がすいてひどく疲れていた。鍵を握りしめている手をゆっくり開くと、鍵は銀色に輝いていた。秀一は、ほっとしてもう一度ぎゅっと握りしめた。

 その時甲高い笑い声が鳥居の方から聞こえてきた。話し声に聞き覚えがあった。クラスの女子がこちらにやってくる事が、すぐに分かった。秀一は、こんな所に一人で座っているのを見られたくなかったけれど、どうしようか焦ってしまって、ぐずぐずしている間に、吉野よしえと林朝子が目の前にあらわれた。

 「あれ、安井君だ。どうしてこんな所にいるの?」「よかった。わたしたち安井君を捜していたの。家に届けに行ったけど留守みたいだったから。ねえ」と二人で見合ってから、吉野が小さなバッグに手を入れ、何か手にとって、それを身体の後ろに隠した。「なんだかしょんぼりしてるみたいだけど、何か落とし物でもしたの?そうでしょう?」と林がからかうように言った。秀一は、「ええ?拾ったの?僕の鍵」と言って顔を輝かせた。「橋の所に落ちていたの、はいっ」と吉野が手を差し出して鍵を見せた。鍵には名札が付いていた。秀一は、自分の名札を見て、がっかりした。 もうその鍵は役に立たないからいらなかった。でも気をとり直して、「ありがとう」と言って受け取った。両方の手に鍵が一つずつ握られている。一つは、名札をつけるという自分の工夫が実を結んだけれど、遅すぎて、いまでは不要になってしまった鍵、そしてもう一つは、老人が差し出した鍵の箱の中からデタラメに選んだ鍵。鍵は二つもあるのに、一つしか持っていなかったときより元気がなくなった。吉野と林は、鍵をわざわざ届けてあげたのに、秀一がちっともうれしそうにしないので、何か意地悪なことをいいながら、裏山の方へ行ってしまった。

 フェリーが港のすぐそばまでやって来ている。秀一は、何となくそんな気がして、自然に立ち上がり、港の方に歩き出した。
 フェリーは船着き場に着くときに静かにゆっくりと入ってくる。そしていつもきれいにピタッと同じ場所に停止する。秀一は、それを見ているのが好きだった。正確に言うと、秀一は見ているのではない、岸壁に座って、フェリーの船長と一緒に集中して舵をきるのだ。少しでも手元が狂うと、岸壁にぶつかり大惨事になるから、細心の注意を払わないといけない。波が高いときは、特に気を遣い、何度も舵の微調整を繰り返す。そしてうまく岸壁に着けたときは、心底ほっとして胸をなで下ろすのだ。海の向こうの小さな島から、一日一便やって来る白いフェリーは、カモメの家来を多勢従え、海の女王のように堂々として美しかった。

 秀一が船着き場につくと、水平線からわずかにフェリーの影が見えた。

 「なんだ、まだあんな所にいる、フェリーが着くまで、まだまだ時間がかかる・・・もう着岸しかけていると思って、急いできたのに」
 秀一は、所在なげに、フェリーターミナルの方へ歩いて行って中を覗くと、待合室は、がらんとして誰もいない。売店も明かりが消えていつものおばさんもいないようだ。ドアは、開かない。

 「フェリーが来るのに、おかしいな。ターミナルが閉まっているなんて」

 秀一がだんだん迫り来るフェリーとまだ開かないターミナルを交互に見ていると、黒雲からポツンポツンと雨粒が落ちてきた。
 黒雲が海と空をつないで、その黒幕の中からフェリーがあらわれた。雨がだんだん勢いを増し、秀一は雨宿りできるところはないかとあたりを見たが、どこにもない。岸壁には、雨風から身を守る建物など何一つない。待合室に入ることが出来れば、こんな思いをしなくていいのだけれど、と思いながら暗い待合室をのぞき込んでいると、後ろから話し声が聞こえた。売店のおばさんらしい。

 「こんな日に、鍵を落とすなんて、長いことここで働いているけどこんなことは初めてだよ。みんなに迷惑をかけてごめんね。フェリーが着いたら、すぐに船に入ってもらうから」

 傘を窮屈そうに分け合ってのろのろ歩く乗客達が、それに続いて口々に「いいよ、そんなに気にしなくても、こんな事もあるさ」などと言っておばさんを慰めている。

 秀一は、『鍵・・・おばさんも鍵をなくしたのだ。箱の中にあんなにたくさん鍵があるのだから、毎日たくさんの人が鍵を落とすのだ・・・僕が持っているこの鍵、ひょっとして・・・』、秀一は、ふと鍵を鍵穴に入れてみた。開いた。カチッという小さな音とともに手応えがあった。少しドアを押して開くのを確かめて、そっと閉めて、目立たないようにもう一度鍵を閉めた。雨が降りしきり、秀一は待合室に入りたかったけれど、それは出来ないことだった。乗船を待つ人達は、雨に濡れながらドアの前に立っている少年なんか誰も眼中にないみたいに、フェリーばかりを見ている。秀一は、いつもなら船長になって、フェリーの接岸に集中するのに、今はそれどころではなかった。箱から選んでもって来たこの鍵は、このターミナルの鍵だったのだ。フェリーが着いて、係の人が動き回り、人と車を再び乗せて、出て行った。フェリーを見送ったおばさんが、肩を落としてこちらにやってくる。秀一は、鍵をおばさんに渡してあげなければいけないと思いつつ、どう言おうか迷っていた。展望台の事から全部話をして、分かってもらえる自信がない。うまく言えるはずがない。おばさんは、こちらにやってくるのに、全然心が決まらない。かなり近づいて、おばさんが顔を上げて秀一を見た。

 その時「鍵、落ちてました」と口をついてでた。

 「ええ?鍵、拾ってくれたの?」おばさんは目を丸くして、それから、嬉しそうな、ほっとした顔になって、「ありがとう、よかった」と言った。「でも、どこで見つけたの・・・」とおばさんが言いながら、秀一の手に目を落とし、手のひらの鍵を見て「違う。こんな鍵じゃない」ときっぱりと断言した。おばさんは、険悪な顔になって「からかわないでね、どこの子か知らないけれど、人が困っているのに、ひどいじゃないの・・・そんなウソをついて何がおもしろいのさ」と言うなり、話を聞こうともしないで小走りに去っていった。

 ターミナルの鍵ではないという。では、なぜドアが開いたのだろうか・・・秀一は、もう一度開けてみようかと思ったが、すぐに思い直した。開いたとしても、もし見つかれば、ターミナルの鍵ではないのに、なぜこの鍵で開くのか、と問い詰められることになる。もし開かなければ、秀一の勘違い、思い違いだということになり、それを自分で認めるのがつらいからだ。雨は、少しずつ収まりかけていたが、秀一は雨宿りの場所を求めて歩き出した。雨宿りの場所といっても、この街の通りに沿って建つ家にはひさしが全くない。冬の雪が歩道に落ちないようにとの配慮から、片勾配の屋根と決まっているのだ。雨の降る夕刻、国道をはさんで淋しく並ぶ家々は、扉をかたく閉ざしてびしょ濡れの秀一に背を向けているようだった。

 『そうだ、バスターミナルだ、あそこなら最終のバスが行ってしまうまで開いているはずだ。待合室で、お父さん達が家に戻るまで待つことにしよう』
 秀一は、雨宿りの場所を探していた、それは本当だったけれど、家に帰るのもいやだった。鍵を落としたことが分かると、お父さんにしかられる。それからもう鍵は、持たせてもらえないだろう。手の感覚がなくなるくらいしっかりと握りしめているこの鍵で、家のドアが開くのなら話は別だけど。

 バスターミナルの建物に着いて中に入った。薄暗い蛍光灯の明かりでも、暗い雨の中を一人で歩いてきた秀一には嬉しかった。バスを待つ乗客はいなかった。切符売り場の窓口の人が「最終がもうすぐくる。切符はあるの?」と声をかけた。秀一は、もう少しゆっくり出来ると思ったのに当てが外れた。バスに乗るのではなく、ただ休憩をするためにやってきたとは言えず、仕方なくこっくりとうなずいて、一番入り口に近いイスに座った。ズボンが濡れていて冷たく、気持ち悪かったが、すぐに気にならなくなった。空腹で、疲れ切り、あっという間に崩れるように眠りに落ちた。

 小太鼓、大太鼓がとどろくように、歌うように、港に響く。真っ青な空に白いフェリーがまぶしく波止場に停泊している。今日は、港のオープンデー。誰でもフェリーの中を自由に見学できる。いつもは立ち入り禁止の、船長室、操舵室、機械室もはいることが出来るのだ。七色の旗がフェリーを飾り立てて、真新しい制服に身を包んだ船長が、にこやかにタラップの所にたって見学者を出迎えている。

 秀一は、長いこと行列に並んで、やっとタラップの所に来た。船長は、握手をしてくれて、「君が、最後の見学者だよ」と言ってから後ろを向いて、「みなさーん、残念ですがこの子が200人目、最後の人になってしまいました。では来年また来て下さい」と言って秀一の後ろについてフェリーに入った。秀一は、早く操舵室に行きたかったけれど、混雑していて身動きがとれない。それでもやっと、「操舵室」と書かれている扉の前にたどり着いた。ドアノブを回しても鍵がかかっているのか、扉は開かない。秀一は、今日は、船の中はどこでも行けるはずなのに鍵が閉まっているのはおかしいと思った。ここに入ってみたくて朝からずっと並んだのに、操舵室に入れないのなら、本当にがっかりだ。何度もドアノブをガチャガチャさせてみたがどうしても開かないので、自分の手に持っている鍵で開けた。ドアを少しだけ開けて、部屋に滑り込むとすぐに閉めた。誰もいない。ぐるっと大きなガラス窓が部屋から突き出ていて、その前に様々なボタンや、計器、ハンドル、スウィッチなど機械類が整然と並んでいる。秀一は、心をどこかに忘れてきたように夢中になって手当たり次第、機器に触っていると、大きな安楽イスがくるっとこちらを向いて、座っている船長が現れた。

 「でたらめに触ってはいけない。船は、生き物なのだ。教えてやるからよく覚えるのだ」

 船長は、秀一に機器の名前と働きを一通り説明して、操縦方法を教えてくれた。

 「分かった?もう君に任せてもいいかな?」

 秀一は、そう聞かれても何のことかよく分からなかったけれど、「ええ、まあ、・・・はい」と曖昧に応じて、船長の次の言葉を待った。ここ数年船長と一緒にフェリーを入港させてきたつもりだから、操縦はもちろんできる。でも、きちんと教えてもらったのは今が始めてだし、たった今説明されたばかりで、まだ計器の名前も分からない。何かを任せられても、出来るかどうか、自信がないことを船長に分かってもらわないといけない。

 「この船は、すでに出航している。君の手を、私の手に添えて、舵を持ってごらん。ほら、こうするのだ」

 船長は、秀一の手を舵に持っていくと、「君は、もう操縦している。この角度をしばらく保っていくのだ」と言った。それから船長は、「パイプを探してくる」と舵から手を離して、部屋を出て行くとき、「いいか、その角度を決して変えてはいけない。どんなことがあっても、舵を少しも動かしてはいけないよ・・・そのままキープ!」と言って部屋を出て行った。秀一は、何か難しいことを任されるのかと思ったけれど、こんな簡単なことだと分かって、ほっとした。それどころか本物の船の船長になったような気がして晴れがましかった。まぶしい空と、紺碧の海の間にある、はっきりしない隙間に向かって、秀一が操縦する船が軽快に滑っていった。

 船は速度を上げて、水平線に向かってひた走る。見渡す限り空と海しかない。一片の雲も空にはなく、海に白波の一つもない。青の世界に吸い込まれていくようだ。秀一は、両の手に力を入れて舵を保つ。少し力を緩めても、反対にまた力を強めても、動いてしまう。力が一定でなければ、船の進行方向がずれていく。わずかでもずれてしまうと、行き先にたどり着けないので、ここはどうしてもがんばらなければいけない。船長は、隣の船長室に入ったきり戻ってこない。徐々に腕がだるくなり、背中や腰も つらくなってきた。肩、首のあたりも感覚がなくなっていくようだ。一度体勢を変えたかったが、そうするときっと指先が乱れる。でも秀一は、我慢できなくなって、隣の部屋に届くような大きな声を張り上げた。

 「船長、来て下さい、僕はもう・・・」と言いかけて、後の言葉を飲み込んだ。長年の夢がかなったのに、少し苦しくなると投げ出すような自分はいやだった。それに、大事な舵を秀一に任せてくれた船長を失望させたくなかった。ただこのままでは、身体を保っていることができないと分かっていた。指先を少しも動かさないで、身体をほぐすことができればいい。まず手始めに、一番遠い足からやってみようと考え、そっと軸足を変えるために片足をあげたその時、舵はグルンと大きく回転してしまった。

 「しまった、どうしよう、大変なことをしてしまった」秀一は慌てて元に戻そうとしたが、元がどの辺だったのか見当が付かない・・・戻して、また逆に戻して、戻しすぎて戻せなくなった。ふと前面のガラス窓をみると、はるかな水平線にさっきまでなかった小さな黒い点が見える。黒い点は、ものすごい勢いでこっちに迫ってくる。島だ。このまま行ったら島にぶつかる。船の速度をおとす、いやエンジンを止めなければいけない。秀一は、さっき船長が教えてくれたことを、思い出そうとしたが、焦ってしまって思い出せない。片手で舵を持ち、片手で、手の届く範囲のボタンを押したりコックをひねったりした。船は、まるで悲鳴を上げるかのように、ブーッ、ピーッ、とけたたましい音を立てはじめた。秀一は、すべてを投げ出して船長室に突進した。

 船長室のドアが開かない。「船長、船長、大変です」ドアをドンドンたたいて叫んだが、音沙汰がない。秀一は、鍵で開けようとして、鍵がないことに気づいた。「鍵がない!」

 「バスがでるよ。さあ乗って。早く」という声がして秀一は目が覚めた。運転手らしい制服を着た人がそばに立っていた。秀一は、すぐに手のひらを見た、でも鍵は二つともなくなっている。しっかりと握っていたはずなのに、眠っている間に落としたに違いない。秀一は、「鍵がない」といいながら、イスの下をくまなく探しはじめた。自分が座っていたイス付近、それからその周辺へと進んだ。

 「この待合室で落としたのなら、あの窓口の人にきけばいい」と言って、「この子が鍵を落としたって言っているけど、鍵の落とし物はなかったかい?」ときいてくれた。窓口の人は「落とし物?知らないな」と不機嫌そうにこたえてから、「ねえ、バスはもう出発するから、早く乗ってもらわないと困るんだ」と秀一にむけて言った。そして部屋から出てきて、「何か落としたとしても、君が来てから誰もここに入ってないからね、落としたのなら、君が座っていたところにあるはずだ。それで見つからないと言うのなら、ここで落としたのではないのだろう」、と言いながら、次々とイスの下を這いずり回って探す秀一の後ろから追ってくる。「早くバスを出発させないと、また始末書を書かなければいけなくなるんだ。ねえ、こんなに探したってもうないんだから、ないんだよ。早くバスに乗りな」だんだん語気を荒げて追いかけてくる。秀一は、立ち上がって、やっと「僕・・・、僕、バスに乗りません」と小声で言った。

 「なんだって、乗らないなら、早く言えよ。入ってきたときに、切符のことをきいたら、持っているって事だったから、・・・」「まあいいじゃないか、・・・じゃ出発する、心配するな、時刻通り到着するから」という声を後にして、秀一はターミナルを飛び出した。雨はやんですっかり暗くなった通りをとぼとぼと家に向かった。

 家に着くと、みんなそろっていた。
 「ただいま」といって秀一がドアを開けるとすぐに、お父さんが玄関に出てきて、「また鍵をなくしたんだってな、おまえって奴は、何度言っても分からないのだな」とどなった。秀一は、黙ってうつむいて、お父さんの声が頭の上をゴロゴロところがってゆくのを聞いていた。

 「なんだそのだらしない格好は、もっとシャキッとしろ。いつも言っているだろう、人間というものは、姿勢が大事なのだ。おまえは、うつむいてばかりだから、すっかり猫背になって、おまけに右手をズボンのポケットに入れる癖があるから、左側に身体が傾いてしまっている。そんなことでは、この成長期に背骨が曲がってしまう・・・おい、聞いているのか、足を小刻みに揺り動かすのはやめろ。人の話を聞く態度じゃない。顔を上げて背筋を伸ばして、きちんと立ってみろ・・・ほら、まだまっすぐに立っていない、今度は左肩が上がっている。自分で分からないのか?ふてくされていないで何とか言え!」

 お父さんの絶叫は、隣に住んでいる秀一の担任の山田先生の耳にも届いているはずだ。秀一は、この状況がいやだった。何とかして、お父さんの期待どおりにしゃんと立ちたかった。頭や、肩、首、足に力を入れて、まっすぐになるように必死で努力した。でもがんばればがんばるほど、どこがおかしいのか分からなくなるのだ。できることなら何か言って、お父さんの気持ちを鎮めたかった。けれども頭の中に言葉と呼べるものは一つも残っていない。お父さんのゴロゴロが始まる前から、どこかに吹き飛んで、かけらも残っていなかった。頭は空っぽで、それと反対に、心の中は思いがいっぱい詰まって、渦巻いていた。

 「いったいどうして鍵をなくした?ポケットに入れていたのか、それとも手で持っていたのか?どこかに置き忘れたのじゃないのか?・・・黙っていては分からないじゃないか、落としたのなら、通った道を探したのか?・・・もう、何とか言え」

 お父さんの矢継ぎ早の質問は、秀一の心を揺さぶって、ついに涙があふれて、顔を伝って流れ落ちた。

 「さあ、もういいから、濡れた服を着替えましょう」と言いながら、お母さんが割ってはいった。秀一が濡れていたことに、はじめて気がついたお父さんは、気勢をそがれ、「いつもこんなだから、いくつになっても謝ることを知らない・・・」と独り言のようにつぶやいた。

 次の日から、家の鍵は、弟の章太が持つことになり、秀一は風邪を引いて学校を休んだ。熱は二日もすれば下がったが、いつまでも身体の調子が戻らず、ずるずると欠席が続いた。診療所の医師も、隣に住んでいる山田先生も「学校へ行けば、身体もシャキッとするよ。気持ちの問題だから」と口をそろえる。でも秀一は、具合が悪かった。症状を言い表すことができないので、誰にも分かってもらえないけれど、とても学校へ行ける気がしない。お母さんは、「来週までこんな調子が続くなら、函館の病院で検査してもらいましょう」と心配顔で言っている。お父さんは、あれ以来秀一には何も言わない。でも章太とは前よりも楽しそうによくしゃべっているようだった。

 今日は、町内ウォーキングの日。みんな朝から出て行って、秀一が一人、窓から差し込む昼の白い光に包まれて、布団の中でうつらうつらしていると、電話が鳴った。秀一は、はじめはそのうち鳴り止むだろうと思って遙か彼方からの呼び出し音を聞き流していたが、鳴り続けている。呼び出し音は、鳴り続けているだけではなく、どんどん大きくなる。秀一は、仕方なく起きて、電話にでた。

 「はい、安井です」

 「鍵が見つかりました。展望台まで取りに来て下さい。ああ、でも、今は、来てもらっても私はいないので、日が沈むときに来てくれたらいい」

 「でも・・・僕は行けるかどうか・・・」と秀一が言いかけたときに、電話が切れた。あの老人からだった。

 見つかった鍵は、名札の付いた鍵に違いない。それでも、秀一は鍵をもらいに行かなければいけないような気がした。考えれば、あのとき事務室で老人になにも告げず鍵を持ち出して、おまけにその鍵もなくしてしまったのだから、また会うのは気が重い。布団にもどってあれこれ思案しているうちに、いつの間にか眠り、夕方家族が帰ってきて目が覚めた。秀一は、慌てて起き上がると着替えをして、台所に行ってお母さんに声をかけた。

 「ちょっと出かけてくる」

 「ええ?もう大丈夫なの?どこへ行くの?」と驚いた。

 「展望台のおじいさんが鍵を拾ってくれて、預かってくれているんだ・・・だからもらいに行かなきゃ」

 「展望台のおじいさん?誰のことかしら」

 「たぶん事務室の人で、落とし物を預かっているみたいだよ」

 「展望台に事務室なんかないと思うけど・・・あそこは、管理する人もいないはず」

 「事務室は、僕もないと思っていたけど、それがあるんだ。誰も気がつかないだろうな・・・もう行かなきゃ、日が沈む」

 「秀一、待ちなさい。そんな身体で出かけて行ってはいけないわ」と、お母さんは、靴を履いている秀一の前に立ちはだかった。

 お母さんは、いつもの悲しそうな顔をしてじっと秀一を見つめた。

 「おじいさんとか、日が沈むとか、何のことなの?きちんと説明してくれなきゃ分からない。とにかく一度、家に上がってゆっくり話して・・・」とお母さんが言ったけれど、秀一は時間がないので、それにはこたえず、追いすがるお母さんを振り切って自転車で急いだ。背後で「ほら、あんなに元気なのだよ、怠けていただけなのだ。放っておけ」というお父さんの声が聞こえた。

 秀一は、一生懸命に自転車をこいだ。けれどもこのところずっと寝てばかりいたせいか、足に力が入らない。夕日に照らされてすっかり赤くなった町を、のろのろと秀一の自転車が行く。足がだるく、車輪は前に進まない。歩道を歩いている人を追い抜くどころか、みんな秀一を追い越していく。車道では、車のヘッドライトの流れができはじめた。急がないと日が沈んでしまう、とあせればあせるほど、車輪が空回りする。汗が流れ落ちてハンドルを握る手がすべり、全身の力が抜けてゆく。

 やっと橋の上まで来たとき、ふと展望台を見上げると、展望台の壁面は白い羽毛でびっしりと覆われている。そしてあの老人がてっぺんから見下ろして、早く早く、というように必死に大きく手招きしている。 太陽は、と見ると水平線の上に少し頭を残すだけ。秀一は、自転車を降りてその場に投げ捨てて、鳥居へと走った。心臓が割れんばかり早鐘を打ち、鉛のように重い足を動かし続けて、急な上り坂を這うようによじ登り、ようやく展望台につくことができた。そして休むことなく、そのままらせん階段を駆け上がった。

 階段を上りきると、薄闇が展望台を覆い、足の踏み場がないほど鳥がひしめいている。カモメは白くてよく目立つが、シギ、チドリなどの小さな鳥も、よく見れば隙間を埋めている。展望台の手すりには、タカ、トンビなどの山の鳥、サギ、カラス、スズメも所々に見える。秀一が、到着すると、鳥たちが少しずつ詰めて、足を置く場所を作ってくれた。そして秀一がそこに立つと、背後から、「秀一君、よく来てくれました」という声が聞こえ、秀一が振り返ると、すぐ後ろの階段で白フクロウが見上げていた。どこかで見た顔だった。

 「あれっ、事務室の・・・」と言いかけ、秀一はやめた。おじいさんが、「秀一君、ハイ、鍵」と言って鍵をくれたからだ。おじいさんは、自分がすっかりフクロウになっていることに気づいていないようなのだ。そして鍵には名札が付いていなかった。

 もらった鍵をシャツの胸ポケットにしまうと、秀一は隣に立っているウミウの方を見た。ウミウは、顔をまっすぐ前に向けて秀一なんか眼中にないといった感じなのに、伝えたいことがはっきりと分かるのだ。言葉が聞こえるのではなかった。伝えたい思いが直に心に伝わってきた。

 『鳥があぶない。毎日死んだりケガをしたりしている』

 秀一が目の前のカモメを見ると、カモメも『あのグルグルがきてから、僕たちの海が楽園でなくなった』と伝える。秀一が、次々に鳥に目を移していくと、その鳥が、顔は素知らぬふりをしながらも訴えかけてくる。

 『わたしたち鳥は、遠くからだと見える物でも、近づくと見えにくい。近づき過ぎると風に巻き込まれる』

 『ただでさえ風の中を飛ぶことは、そんなに簡単なことではないのに、知らない風が突然巻き起こるので、まともに飛んでいられない』

 『この春にあのグルグルが海にやってきて以来、たくさんの仲間が死んでいった』

 『鳥は、風に乗ってどこへでも飛んでいける。風とともに暮らしているのに、見知らぬ風がおそってくる。風が、わたしたちを苦しめている』

 『このままだと、わたしたちはだれもここでは暮らせなくなる』

 秀一は、言葉を一言も聞いていないのに、鳥たちが何か訴えていることは分かった。悲しみにうちひしがれ、苦しみにもだえていることはよく分かるのだが、事態が今ひとつ飲み込めない。空は、一筋の夕映えを残しただけで、後は海の暗さと一つに融け合って、鳥の姿も闇に沈んでしまった。秀一は振り返って、あのフクロウを目で探した。昼の鳥も、夜の鳥もそろそろそわそわと落ち着きなく動き始めている。みんなもう行かなければいけないのだ。背伸びをして、階段の奥を覗くと、小さなフクロウが押しつぶされそうになりながら、秀一を見ていた。

 『風車だよ。風車がたてられたので、鳥が巻き込まれて死ぬんだ。君しかいない。わたしたち鳥は、君が頼りなのだ』フクロウは、言葉ではなく心で伝えてきた。秀一も、まねして心で伝えてみた。

 『僕は、みんなを助けたい。鳥たちが死んでいくなんてかわいそうでがまんできない。でもどうやって助けるの?よりによってどうしてこんな僕に?』

 『町中でただ一人、それができるのは、君しかいない。わたしたちは君に決めたのだ』

 『どうすれば鳥を助けられるのか僕には分からない。僕は、・・・あなたたちは知らないだろうけれど、本当は、・・・ぼんやりなの』

 秀一は、鳥がざわざわと飛び立つ準備を始めたので、慌てて「僕は、できないと思うんだ・・・、忘れものはできるけど、・・・ダメだよ、僕では、・・・役に立たないよ」と、言葉に出して、あたりの鳥たちに向かって手当たり次第に言った。秀一の不器用な言葉は、我先に飛び立つ鳥たちには届かず、羽ばたきにかき消されてしまった。フクロウは、と振り返ってももういない。あっという間に全部飛び去って、がらんとした展望台の真ん中に、秀一は一人取り残された。今まであんなにたくさん鳥たちがひしめき合っていたのが嘘みたいだった。

 夢であってほしいと心のどこかで思いながら、小さな羽の一枚も残っていないのをいいことに、「何だ、夢か」と言ってみた。そしておずおずとシャツのポケットに手をやった。鍵があった。取り出して月の光に照らしてよく見たが、今まで落としたどの鍵にも似ていないように思われた。 秀一は、今更ながら怖くなった。今まで誰かに頼りにされたり、頼み事をされる事がなかった。先生が頼りにするのは他のよくできる子供達だし、お父さん、お母さんは、弟の章太に鍵を渡して信頼している。他の子供だったら何でもなくやってしまえることが、秀一には何一つできないという事を、鳥たちは知らないのだ。秀一は、へなへなとその場にしゃがみ込み、鍵が瑠璃色の光を放つのをぼんやり見ていた、そしてすっかり重くなってしまった心をもてあましていた。

 『どうすればいいのだろう。風車が回るのを、そして風が巻き起こるのをとめるなんて、この僕にできるはずがない。この鍵を渡されても、この鍵でどうするのだろう。この鍵はいったいどこの鍵なのかも分からない。でも、鳥たちの苦痛に満ちた訴えをきいてしまったからには、そのままにできるはずもない・・・僕は、選ばれて頼りにされている。鳥たちは、この僕に希望の光を見たのだ。なにもしないわけにいかない。僕にできることは、全力でやらなければいけない気がする。でも、どうやって・・・そうだ、この鍵がどこの鍵なのか、それが分かれば・・・待てよ、ひょっとしてこれは風車のはねをとめる鍵かもしれない。そうだ、きっとそうだ。事務室のフクロウじいさんにきけば、教えてくれるかもしれない。言葉をしゃべれるのだから、事務室で話せばきっとこたえてくれる』
 秀一は、立ち上がると、シャツのポケットに鍵を入れて、まるで地底の闇に続くような螺旋階段を手探りで下りて行った。

(二)

 そろそろと一歩一歩慎重に下りて行くと、霧が、濃い暗闇とともに階段を上がってくる。しめった風が階段を駆け抜け、秀一は、足をとめた。声が聞こえたような気がしたからだ。

 『誰かいる』

 息を殺し、耳を澄ませた。話し声なのか、時々言葉が聞こえる。ちょうど階段の下、事務室の前あたりに人がいるようだ。声は、大きくなったかと思えば、急にひそひそ話になるけど、男の声であること以外何の話か分からない。秀一は、少し階段を下りて、身をかがめて様子を見ようとしたが、真っ暗な湿った闇にはばまれ、なにも見えない。もう少しもう少しと階段を下り、思い切り前のめりになった。姿はやっぱり見えないけれど、声は、はっきりと聞こえるようになった。声からすると、一人の男が誰かに一方的に話している。

 『電話なのか?』

 大きな脅すような、警告するような声で言ったかと思うと、今度は諭すようにゆっくりと、低い声が続く。秀一は、何か不穏なものを感じた。管理する人がいない、とお母さんは言っていた。無人の展望台は、夜になるといろいろな人が、隠し持った企みを抱えて集まってくるのかもしれない、と秀一は思った。とにかく、この場をどうしよう、今、事務室に行くのをあきらめるのは当然だけれど、ここを出るのに苦心がいる。足音を忍ばせて、気づかれないようにそっと階段を下りて出て行くか、それとも音など気にしないで、できるだけ速く走って逃げるのか。そっといくか、ダッシュでいくか。いずれにしろ、階段を下りきってしまっていた方がいいので、足音を立てないように少しずつ下りた。身構えてスタートの気合いを入れて男の方を伺う。その時、ふと、こちらから男の姿が見えないということは、男からもこちらが見えないということではないのか、と思った。秀一は、少し大胆になってかがめていた背を伸ばして、万全の体勢で、見当をつけて見えない出口めがけて突進した。そしてすぐに、墨を流したような黒い闇に、思いっきりぶつかって跳ね返されてしまった。

 「誰かいるぞ-」「ちくしょう」「誰もいないって言ってたんじゃなかったのか」「逃がすなよ、絶対逃がすな」「聞かれたじゃねえか」蜂の巣をつついたように、一斉に大勢の男のわめき声が上がり、階段下は静寂の空間から一瞬にして怒声の渦まく底なし沼と化した。

 秀一は、すぐに立ち上がり、手摺りをつかんでらせん階段を登ろうとしたとき、フワッと冷たい風に触れた。とっさにらせん階段を下りていた。階段がまだ下に続いているとは、知らなかったけれど、上に逃げると、展望台でつかまってしまうのは目に見えている。階段がどこに通じているか分からない、もしかして行き止まりかもしれないが、とにかく駈け下りた。行けども行けども階段はグルグル回る。幸い、ぼんやりとしたフットライトが所々にあるので踏み外すことなく速く下りることができた。でも、どれほどらせん階段を下りても、いつまでも階段がなくならない。 後ろから男達が追ってくる気配もなく、気がつけば足もかなり痛いので、ゆっくりと下りて行く。

 『展望台のらせん階段は、地面から上にほぼ一回転で終わりだったはず。地面から下にこんなにも長く伸びていたなんて知らなかった』

 秀一は、地下に垂直に伸びる階段を下り続けるしかなく、痛い足を半ば惰性で引きずりながら、この先のことはなにも考えないことにした。というよりすっかり疲れてしまって頭は空っぽだった。単調な階段を歩きながら眠りそうになるのをこらえていると、かすかに潮の香りがした。きっとさっきからずっとこの潮風が下から吹き上げていたのだろうけど、秀一が気づかなかっただけなのかもしれない。

 『このまま階段が海の中を通って海底に出るのだとしたら・・・』

 突然、秀一は足を止めた。海の中に続く階段、と想像するだけで、もう一歩も先に進めない。立ち止まって、上を見上げて、ぞっとした。そしてあらためてまわりを見回した。暗黒の地中、しかも無際限の広がりを持った地中の巨大な空洞の中を、細いらせん階段が一本通っている。上に出口らしい物は見えない。秀一は、思わず階段の手摺りにしがみついた。こんな地球の腹の中にたった一人なのだ。

 『もう展望台に戻れるとは思えない。でもここにこうしていてもこの恐怖が続くだけだ。階段を下りるしかないのだ、たとえこの階段がどこに通じていたとしても』

 秀一は、決然として階段を下りはじめた。

 階段の終わりは突然にやってきた。目の前に緩やかなスロープが延びて、建物の内部に入ったように思った。ぼんやりと明るいので、スロープを下っていくのに、不自由はない。ふと右側を見ると、ガラスに自分の姿がうつっている。スロープに沿って右が大きなガラスになっている。秀一は、ガラスに近づき、顔をつけて、外を見た。暗い大きな建物の中、遙か眼下に変わった形の船が停泊している。所々に薄黄色い明かりが灯っていて、人々の姿も見える。秀一は、スロープをかけだした。なんだか船に乗り遅れそうな気がした。スロープは、幾度もターンをして方向を変える。その都度ガラスから離れ、またガラス側に来て外を見る。近づくに連れ、次第に大きな船の姿がはっきりしてきた。

 「いそがなきゃ。待って-」

 秀一は、叫びながら、スロープをグルグル走った。出港の合図なのか、急かせるような汽笛がなる。やっと岸壁にたどり着き、船の方に走ったとき、何か言う声が聞こえた。見ると、壁際に細長い机があって、人影が見える。秀一に向かって何か言っているようなので、仕方なく机の方にいくと、外国風な言葉がきつい調子で浴びせかけられた。意味がまったく分からない。秀一は、何か言おうとしたが、言ってもとうてい分かってもらえそうもない。それより、なんとしても船に乗らなければいけない気がして、船の方へ走ろうとしたけど、すぐに捕まえられ、机の前に連れ戻された。それからは、秀一が少し落ち着きを取り戻すまで、誰もがしゃべるのをやめて見守り、船も出航を待ってくれているようだった。

 『きっとあの船に乗るためには、切符が必要なのだ。どうしよう、僕は切符を買うにもお金がない』

 秀一は、お金がないことを伝えようと、両手でズボンのポケットのあたりをポンポンとたたいて見せた。なにも持ち物がない事を分かってもらいたかった。それからシャツのポケットも同じようにたたこうとして、ふと、鍵のことを思い出してシャツはたたくのをやめたが、それはすぐに見とがめられ、シャツのポケットから鍵が取り出された。そして机の上に投げられた鍵は、さっきの瑠璃色に輝くピカピカの鍵ではなく、すっかりさびてボロボロになった茶色の古い鍵だった。その場は一気に和みはじめ、互いに目配せしてから、係官らしい人が厳かに言い放った。「乗ってもいい」とはっきり聞こえた。もちろん知っている言葉ではないけど、秀一には分かった。それから急いで鍵をポケットにしまってから、走って行って、タラップを登った。

 船にはいると、船室がいくつも両側に並ぶ細い通路を歩いた。行き止まりが階段になっていて、上にも下にも行けるようだったが、秀一は上の階に行くことにした。上に上がると、広いがらんとした空間にイスとテーブル、ソファ、など、がいくつも置いてある。ホールを横切って、重いドアを押し開けると、覆いのあるデッキに出た。風がゴーゴーと大きな音を立てている。どうやらすでに出発したようだった。驚いたことに目の前に壁があり、見上げると空は見えず、ドームで覆われている。まるで列車がトンネルの中を走っているように、船が大きなトンネルの中を水に浮かんで進んでいるのだ。船が速度を上げるにつれ、波が複雑に巻き起こるのか、船は大きく揺れだした。秀一は、投げ出されないように、デッキの手摺りにしがみつきながら、こんなところに来たことを後悔した。船は、鎮まるどころか、ますます大きく横に揺れ、秀一は出てきたドアからもう一度、船内に入ろうと、ドアのレバーに片方の手を伸ばした。ところが片手で手摺りを持ったままでは、かろうじてレバーに手が届くものの、しっかり力が入らない。片手に手摺り、片手はドアのレバーを持ってデッキを塞ぐように立ち、強風と、揺れに耐えながら、秀一は不思議に思った。

 『どうして人がいないのだろう?そういえば、船に乗ってから一人の人とも会ってない』

 秀一が、もう耐えられないとあきらめかけたとき、船が大きく右に傾き、大波がデッキの覆いを洗った。秀一は、波と一緒にデッキの上に投げ上げられ、さらに船の前方へと勢いよく滑っていった。『船が反対側に揺れるまでに、何とかしなければ』と心の中で漠然と感じながら、なおも秀一は滑り続け、ガッツンと思いきり何かにぶつかった。

 「痛い」

 突き出ている何か鉄製の物に、頭を思いっきりぶつけ痛かったが、とっさに両手でそれをつかんで、体ごとしがみつき、次にやってきた反対の大揺れをしのいだ。見れば、大きなゲートボールのゲートのような形をしている。 秀一は、ふと蓋の取っ手のような気がして、両手でもって力を振り絞って引き上げると、蓋が開いた。下を見ると短いはしごがある。秀一は、迷うことなくはしごを下りた。

 通路があり、その先に下へ下りる階段、それを下りて行くと、いくつか部屋がありその前を過ぎるとまた階段が下に伸びていた。なにも考えず、ただ行ける方へ、ふらふらとあちこちぶつかりながらも小走りで進み続けた。少しでも何か考えはじめると、怖くて一歩も動けなくなりそうだった。そして「冷凍室」と書かれた大きな両開きの扉が目の前に現れて、秀一はやっと足を止めた。耳を澄まして、中の様子をうかがっていると、厚い扉をとおして人々の声や機械の音がかすかに聞こえる。

 『なーんだ、あんまり誰もいないのでひょっとしてこれは幽霊船かと思ったけど、全員こんな船底にいたのか』秀一は、心底ほっとして、重い扉を開けて中に入っていった。

 白っぽい光と冷気が秀一の体を包む。冷気を逃がさないためか、大きなシートが上から下がっている。シートの隙間から覗いてみる。部屋と言うより大きな冷凍庫にして工場といった感じだ。白い空気の向こうに見えるのは、いくつも並んだ大きな棚。その間を人々が忙しく歩き回っている。機械の音は、その奥から聞こえてくる。秀一は、もう少しよく見ようと中に入って、棚に近づいた。何か文字が書いてある段ボールが置かれている。ひっきりなしに人がやって来て、秀一に目もくれず次々と段ボールを置いていく。何列もある棚が、みるみる間に段ボール箱で埋まっていく。みんな白装束に身を固め、分厚いゴーグルをして、大きな声で何かしゃべるが、何を言っているのか分からない。秀一のことを誰も気にしていないみたいなので、少し大胆になって、機械の音のする方へ歩いて行くと、霜で真っ白になった大小の鳥が山と積まれて、段ボールに詰められるのを待っていた。

 「箱の中身は鳥なのか」と秀一がつい口を滑らせると、まるでそれが合図だったかのようにぴたりと機械の音も話し声もやんだ。すべての動きが止まり、静寂までも凍り付いた。

 次の瞬間、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。秀一は、あっけにとられているうちに大勢に囲まれ、捕まってしまった。冷凍室から連れ出され、細い通路を引っ立てられて物置のような所に押し込まれた。扉がバタンと閉まると、真っ暗。同時にいろんな匂いがごちゃ混ぜになっておそってきて、秀一は、思わず顔をしかめた。いままで冷凍室にいたせいか、いやに蒸し暑く、息が詰まりそうだ。額に汗が流れ、何気なしに手でぬぐうと、ベッタリ固まりかけた血のような物に触れた。おそるおそる頭の方に手を移してみると、どうやら怪我しているようで、痛かった。秀一の目から涙が落ちた。

 『デッキで、鉄の取っ手にぶつかったときに怪我したんだ。今まで気がつかなかった。それにしても僕が自由に動き回っていても、誰もなにもしなかったのに、ほんの一言つぶやいたとたんにこんな事になった。・・・僕は、何も言わないほうがいい。今まで何か言おうとしてもうまく言えず、黙っていると事態はどんどん僕の気持ちと違う、悪い方に行った。すぐにきちんと思っていることを言わなければいけないと思い込んで、それでも何も言えなくて、やっと言えたとしても思ってもいないちぐはぐな言葉が飛び出して、それで苦しい思いをしてきた。でも今は、なんだかよく分からないけど、なにも言わない方が良さそうだ』

 秀一は、頭の中から言葉を探さなくていい、と思うと少し気が楽になった。黙っていることは、秀一の得意なことだった。

 『僕は、誰よりも話すのが下手だ、だから鳥たちは僕を選んだのかな、そうだとしたら、鳥たちは間違っていない。僕は、生まれて初めて頼りにされた。鳥たちは、他でもないこの口べたな僕に助けを求めたのだ。さっき冷凍室で見たたくさんの死んだ海鳥、山鳥は、いったいどこからどうやってきたのだろう。何か悲惨な事が起きているみたいだけど、この僕に何かできるのかな、・・・ああ分からないよ・・・でもとりあえず一言も言葉をしゃべらないことは、できそうだ』

 暗いよどみの中で目を閉じると、静かな闘志が秀一の中からふつふつとわいてくるのだった。

 まもなく扉が開いて、夜の闇を背景に人影が浮かんだ。新鮮な冷気が一気に押し寄せ、秀一の身体を包んだ。船は、海の上に出たようだった。

 「君は、どうしてこの船に乗っているのか?」

 穏やかな口調に、秀一は少しほっとした。顔も見分けられないけど、分かる言葉で語りかけられた事で、いっそう気がゆるんで、つい返事をしそうになったが、歯を食いしばってこらえた。

 「いったいどうやってこの船に紛れ込んだのだろう」と人影は小声でつぶやいてから、「君は、まだ子供だ。家に帰らなくてはいけない。船は、もうすぐ島につく。そこで君をおろす。でも私たちのことは誰にも言ってはいけない。約束できるか?」と言った。秀一が黙っていると、その影は、すっと扉を閉めて、うずくまる秀一の方にやって来て、もう一度「誰にも言わないと約束できるか?」と静かに迫った。

 秀一は、なれない強い匂いがおそってきたのに戸惑いながら、心の中では迷っていた。

 『約束すれば、島におろしてもらえる。どんな島かしらないけれど、この船に乗っているよりいいような気がする。でもそもそも、みんな知らない言葉を話す人達だと思っていたから、言葉を話さなければ気づかれないと思ったのだ。ところが、目の前にいる人は、ちゃんと分かる言葉を話している。だから、きっぱりと約束して、船から降ろしてもらおうか。

 いや、待てよ、強い匂いを放っているこの人の姿も顔も分からない。この真っ暗な中で、どんな人かも分からない。分かっているのは言葉の意味だけなのだ。何も知らない人と約束できるのだろうか?それに、もし約束しても、誰にも冷凍庫の鳥のことを言わないでいられる自信がない。やっぱり約束しないほうがいいかもしれない。でも約束したら、島におろしてもらえる、約束しなかったら、僕はどうなるのだろう?』

 秀一の、心の内を察したのか、影はゆっくりと語りはじめた。

 「約束してもしなくても、君は島におろす。けど・・・私たちのことは秘密にしておいてほしい。私たちは長いことこうして暮らしている。この暮らしを守りたいのだよ。鳥は、すべて野鳥だし、魚や貝も人の物は盗んでいない。ここの人に決して迷惑をかけない。だからお願いする、黙っていてほしい、いいね」

 秀一には、影が言っていることがよく飲み込めなかった。でも鳥の悲しみを思うと、野鳥を捕るのはやめてほしいというべきだと思った。それで何度も声に出して言おうとしたけれど、影の必死さがこちらに伝わってきて、いつものように何も言えずに黙っていると、影が扉を開けて、秀一を押し出した。外は夜の海。それでも真っ暗な部屋よりは幾分明るく、ちらっと影の顔を見た。なんだか見覚えがあるような気がした。

(三)

 船が、突然止まって、迎えに来ていた小さな船に、積み荷を少し降ろして、最後に秀一もその小舟に乗せられた。

 秀一の乗った小舟は、岩礁をよけながら島にたどり着いた。一見、切り立った崖のように見えたけれど、崖は、幾重にも岩板が入り組んでいて、小舟を外界からきれいに隠してしまう。船が着くと、人々が三々五々集まってきて素早く荷物を運び去り、後に残されたのは、舟の操縦をしていた男と秀一だけになった。男は、舟の片付けをしてしまうと、秀一にはお構いなしに歩き出した。秀一は、少し遅れて後を追った。きつい上り坂を上り詰めると、今度は転がり落ちそうな急な下り坂をくねくねと下りなければいけなかった。谷底に下りたつと、一本の踏み分け道にでた。

 歩いて行くと、道の片側に家が数軒並ぶだけの小さな部落があった。ほんのりとした明るさが道を照らし、切り立った崖の隙間を人が生活を営む場所に変えていた。

 気がつくと男の姿は無く、家々から談笑する声が漏れる。秀一は、こんなところに人が住んでいることに驚いた。見上げると、細長く切り取られた空に、星が見えた。

 秀一は、海側と反対の方に行きたかった。崖の上からなら、島の全体が見えるかもしれない、と考えクマザサをつかんで崖をよじ登ろうと思った。突き出ている木々など、手当たり次第につかみながら、斜めに登ってようやく平らなところにたどり着いた頃、空が白みはじめた。島は、思った以上に大きそうだ。だだっ広い少し起伏のある原っぱに立って、ふと思いついた。振り返って下をのぞき込めば、あの集落が見えるのだろうか、と。それで秀一は、思い切り前のめりにのぞいてみたが、どうしても木々や灌木しか見えなかった。あの集落は、海からも、そして内陸からも見えないのだ。

 ぐんぐん空が赤みを増し、視界がはっきりとしてくると、秀一は、はるか下の方にゲートのような物を見つけた。あたりに何か悪臭が漂っているのを感じたこともあり、秀一は、逃げるようにゲート目指して一目散にかけだした。

 なだらかに見えた丘は、地面が柔らかく、足を取られて転ぶこともしばしばだったが、やっとゲートにたどり着いた。ゲートは閉まっていて、そのまわりにブリキのフェンスがある。フェンスの途切れているところを少し歩いて探してみたが、見あたらない。秀一は、ゲートの前に来て、ポケットの鍵のことを思った。

 今までずっと、鳥にもらった鍵のことが頭の片隅にあった。船に乗ったとき、物置のようなところに押し込められたとき、恐怖から逃れられたのは、鍵のおかげだった。鍵さえあれば、どんな扉もフェリーターミナルの待合所のように開けることができそうだった。どんなことになっても余裕を持って望めたのだ。そして、いよいよ鍵の出番がやってきた。秀一は、ゲートを開けてここから出ようとシャツの胸ポケットをさぐった。

 鍵がない。

 『落としたのかもしれない。さっき転んだときか、それとも船のデッキで揺られたときか、分からない。でもまた落としてしまった。家の鍵ばかりか、鳥にもらった鍵も、なくしてしまった。僕は、なんてダメなんだ、どうしていつもこうなんだ』

 秀一は、すっかりしょげて、フェンスにもたれかかり、そのまま崩れて赤茶けた臭い土の上に横たわった。涙が一筋こぼれて落ちた。

 「死んでいるんじゃないか」

 「いや、息はしてるみたいだ」

 「頭のところの黒いのは?怪我しているように見えるけど」

 「とにかく、このままにしておくのはまずいんじゃないか」

 「おい、起きろ、寝てるんだろう?」

 男達が秀一を囲んで上からのぞき込んでいた。そばにダンプカーがエンジンをかけたまま止まっている。秀一が、身体を起こしてぼんやりとしていると。男達は口々に

 「ほらな、死んでるわけねえべや」

 「何だ、寝てやがんの」

 「人騒がせなガキだな」と言いながら、離れていった。

 すると、こざっぱりとした身なりの男が一歩近寄って言った。

 「どうやってここに入った?」

 秀一が、黙っていると、男は、じれったそうに「フェンス?ゲート?乗り越えたのはどの辺だ?どうしても侵入するならもっと高いのを作らないといけない。ここは、侵入禁止、立ち入り禁止。ゴミの最終処分地。こんなところに入って何の得があるんだ?臭いし、ゴミしかないんだから。入ってくる人間の気が知れないけど、なぜか後を絶たない。困ったもんだ」と、ほとんど独り言のように言って、少し目を細めた。

 「ところで、家はどこ?どこから来た?」

 「・・・西町の教員住宅」

 「へえ、先生の子供か?一人で島に来たのか?と、いうことは・・・フェリーは、まだ来ないから・・・いつ島に来たんだ?」

 「いつ・・・か、・・・わかりません」

 男は、残っていた一台のダンプカーのところへ歩いて行くと、運転手となにやら話をして、戻ってきた。

 「事情はよく分からないけど、家に帰らないと親御さんが心配する。とにかく今はうちに帰れ。よく話し合えば分かるよ。あのダンプに港まで乗せていってもらえ。そこで今日のフェリーを待つんだ。いいな、もう家出なんかするなよ」

 男に見送られて、秀一は、ふらふらとダンプの助手席に乗った。

 ダンプの運転手は、ありがたいことに何も話しかけない。荒い運転にもかかわらず、秀一はまたしても眠ってしまい、港までの道のりが、あっという間だった。降り立ったのは、小さな漁港。少し歩けば、フェリーの待合所があるが、秀一は、午後のまどろみをむさぼる漁船の一つに忍び込むと、身体を丸めた。ひたすら眠く、漁村に覚えがあったことですっかり安心した。西町がある本島からフェリーが出ていて、夏には物好きな観光客が訪れる事もあるが、いつもは漁師だけが住む静かな孤島だ。孤島は大げさだけど、冬になれば海が荒れ、フェリーがしょっちゅう欠航するので、孤島みたいなのだ。

 波に揺られうつらうつらしていたが、空腹がおそってきて眠るまでは行かなかった。

 『フェリーに乗るにもお金がない。食べ物を買う事もできない、どうしよう、どうすればいいのだろう』

 漁港にも、道を隔てて山側に広がる漁村にも、人影はない。生きている物といえば日陰を見つけて惰眠をむさぼっている野良猫どもと、翼を休めて海をみているカモメたちだけだった。

 『カモメ、・・・そうだ、そもそも僕は鳥たちの役に立とうとしたのだ。鳥たちは、最近鳥がいなくなっている事と、風車の建設とを結びつけているようだったけれど、それよりも僕が船の中で見た山のような鳥の死骸と関係がありそうな気がする。ひょっとしてあの岩の隙間に住んでいる人達の食料になっているのかもしれない。それに・・・そういえば、この頃密漁が多いと、西町の人達も言っていたけど、魚介類も持ち去っているのだろうか。これは大変なことになった。早くみんなに知らせなきゃ、さもないととんでもないことになる。手始めに、カモメに僕が分かったことを言おう』

 秀一は、ふらふらと漁船から這い出して、近くにいるカモメに向かって、小声で話し始めた。

 「ねえ、大事な話があるんだけど」

 カモメは、振り向きもせず、じっと海を見たままなので、秀一はもっとそばまで行って大声で「鳥のみんなに伝えてほしいんだけど」と言うと、驚いたのかあたりのカモメともども一斉に飛び去ってしまった。秀一は、小さくなっていく鳥の後ろ姿に向かってなおも叫び続けた。

 「鳥を捕る人達が君たちを狙っているんだ。どうやって捕るのか分からないけど、飛んでいるときも休んでいるときも、気をつけなければいけないよ。海の鳥も山の鳥もみんなが狙われている・・・」

 カモメたちは、すぐに戻ってきたが、秀一からずっと離れた岩場の方に行って邪魔された憩いを取り戻していた。

 秀一は、もう叫ぶのをやめた。鳥と話ができなくなったことが寂しかった。仕方なく、重い足取りで「フェリー」の文字が見える方に歩き始めた。

 『家に帰るしかない。でもお父さんは怒るだろうな。さっきのゴミ捨て場では、家出したと思われたけど、家のみんなもそう思っているのかもしれない。僕は、そんなことできないし、考えつくこともなかった。とにかくフェリーに乗せてもらって、家に帰ったら謝ろう。今度こそちゃんと謝るのだ。フェリーは、いつ到着するのだろう。それにしても、道にも、家の辺りにも人の姿がみえない』

 秀一が、フェリー乗り場に着くと、入り口は閉まってシャッターが下りている。建物に何となく人の手が感じられない。窓には、板が打ち付けられ、中が見えない。桟橋の方に目をやると、夏の太陽が照りつけているだけで、観光客どころか人っ子一人いない。風除フェンスが壊れていて、なんだか使われてないようにみえる。

 『おかしいな、午後に一便あったはずなのに、フェリー会社の人はどうしたのだろう』

 ふと、港の方からエンジンのような音が小さく聞こえたような気がした。そういえば今まで波の音と鳥の鳴き声以外の音がしなかった。自然の静寂を破る音を聞いて、秀一は小走りで音のする方へ向かった。なにより、誰か、人と会いたかった。

 さっきの港に戻ると、老人が船を出すところだった。秀一は、駆け足で近寄り呼び止めた。耳が遠いのか、目が悪いのか、なかなか気づいてくれないので、秀一は船の舳先に手をかけてなおも呼びかけた。やっと上げた顔は、意外にも女の人だった。これから漁に出るという。かなりの年寄りらしいが、動作はきびきびして手際よく、秀一の要領を得ない話しぶりをじれったそうにわずかに聞いて言った。

 「ゴミ捨て場から来たって言うけど、ゴミ捨て場はないからね。ずっと昔はあったけど。ほれ山の斜面に広がる家々はみんな空き家で、誰も住んでないからゴミも出ない。年寄りは死んで、若いもんは島を出て行った。わしは、一人ここでがんばってる、他に行くところはないし、海があれば生きていけるからね。時々よそ者がゴミを持ってきたり、勝手に漁をしたりしてるのを見ることはあるけど、かかわらない。どうもできないし、どうせ死ぬまでの命だから。ところで、あんたは誰だ、どうしてここにいる?子供に見えるが、どうしてこの島に渡った?」秀一は、それにはこたえず、「何か食べたいのですがありますか?それに西町に帰りたいのですが、どうすれば・・・」と、力なく言った。

 ほんのわずかの間があって、「ここで待ってろ」というなり船は白波を蹴立てて沖の方へ出て行った。後には、小さな船が残した分不相応な大きなエンジン音と、ちょっぴりの安堵が残った。ここで待っていればいいのだ。そうすればすべてが解決する。秀一は、改めてあたりを眺めてみた。言われてみれば家々はもちろんすぐ目の前に居並ぶ小さな漁船すら、みんな古ぼけて、死の静寂の中に埋もれているように思われた。そしてその場に立ちつくしたまま秀一の上に闇の帳が下りても、船は帰ってこなかった。

 あっけらかんとした青い昼の世界が、日没とともに一変した。波の向こうに、船影のかけらでも見えはしないかと、目をこらしていた秀一だったが、もう何も見えない。ぐったりと膝をついてそのままごろんと身体を横たえた。とたんに魚の生臭い匂いと、じめっと湿った苔の感触がほおに触れて、気持ち悪く、慌てて身体を起こした。港のコンクリートは、先ほどまで射すような白い太陽に照らされてからからに乾いていたはずだったのに。しかたなく立ち上がって、近くの漁船に潜り込んだ。お腹がすいて、歩くのもやっとの身体を船に投げ入れ、じっと目を閉じる。すると、漁網やらが置いてある足下からゴソゴソ、と何かが這い出す音がして、何かの生き物がこっちにやってくる。秀一は、驚いて跳ね起き、船から転げ落ちた。顔を上げると、目の前に廃屋を抱いた山の斜面。振り返るとねっとりと広がる黒い海。絶対の暗さにはさまれて、たった一人。秀一は、おびえて、空を仰いだ。

 「よかった。星が瞬いてる。暗くなったら自動的に点く電灯みたいだ」とそっと声に出して言ってみた。すると少し余裕が出たのか、あたりを冷静に眺めることが出来るようになった気がした。星の瞬きはどんどん数と威力を増して、廃屋群の中にも飛び火したのか、少し明るんで見える家もあるほどだ。

 「あの家、明かりが灯っているのかな」山の中腹ほどに、ぼんやりとした明るさが見える。「誰か住んでいるのなら、行って助けをもとめてみようかな。それとも、ここを動かないで、おばあさんが戻るのを待っている方がいいのかな」秀一は、ほんの少しだけ迷っただけで、足を山に向けた。きっと今なら夕食にありつけそうな気がしたからだ。

 家々を縫うように細い道が山の方へ延びている。あかりの方へまっすぐ行こうとしても、塀や藪で行きどまる。道を見失い、元に戻ってはじめから見当をつけて歩き出す。何度目かで、ようやく明かりの漏れる家にたどり着いた。旅館のような大きな家だった。秀一は、光がチラチラするガラス窓を、背伸びをしておそるおそる覗いてみた。暗い部屋の真ん中にブリキのストーブがあり、その前に人が座って時々薪をくべている。寒くないので、ストーブは暖をとるのではなく何か煮炊きするのに使っているのだ。どこからともなく食べ物のいい匂いがして、秀一のお腹がなった。いよいよがまんできなくなって、ガラス窓をトントンとたたいた。しばらくあってその人はやっと気づいたらしくこちらの方へやって来た。警戒するように、窓を開けずに外を見て、秀一を見るとガラス越しに「誰?」と言った。

 「何か食べ物を下さい」

 「なんだ子供か・・・一人?」

 「うん、僕一人」

 「よし、入れ」と言うと、玄関の方へ回って戸を開けてくれた。

 「鍵をかけないと、この頃用心が悪いから」と言いながら、部屋にいれてくれた。

 秀一に座るように促して、火入れ口から、黒いジャガイモを一つ取り出して皿にのせてくれた。

 「これは、小さいからもう焼けているだろう。熱いから気をつけて食べろ」

 秀一は、待ちきれず皮をとるのももどかしく、口にほおばった。芋は、口の中を燃やしながら、あっという間にお腹におさまった。秀一が、皿を持ったまま待っていると、その人が「そんなに早く焼けないよ」と少しほほえんだ。笑い方をすっかり忘れていたような、ぎこちないほほ笑みだった。ストーブの上で、鍋がぐつぐついい音を立てている。その人は、時々蓋を取って中をかき混ぜて、また蓋をする。火入れ口から木ぎれをくべては、芋の様子を見る。そのたびに、あたりがパッと明るくなって互いの顔がはっきり見える。

 「いくつ?小学生?それにしてもどうやってこの島に来た?」

 穏やかだけど、きっぱりとした矢継ぎ早の質問に、秀一の口はいつものように重く、よどんでいった。

 名前を聞かれて、「秀一」と答えると、それには黙ったまま、男はストーブの中の芋を五つ取り出してそのうちの一つを秀一の皿においた。

 「芋はこれで全部。後はなべの中の汁を飲む」

 男は、椀や欠けた茶碗、湯のみに汁を注ぐ。中身をこぼさないように注意深く入れてしまうと、立ち上がって芋の皿と椀をもって隣の部屋に行った。開いたふすまのほうを見たが暗くて何も見えない。

 「もう、いいよ。持ってきてもらわなくても。食べられやしないから。誰か来ているのなら・・・」

 「いいから、食べろ」

 それから二言三言何か話して、男は部屋を出てきた。

 「この暮らしで一番怖いのは、怪我をすることだ。バイ菌が入ったとき薬がないから、それが元で命を落とすことになりかねないのだ。あいつも、この間まで元気だったのに、今じゃあの有様、もう長くないだろう。島に医者はいないし、どうしようもない。もっとも医者がいても、金がないから仕方ないけど・・・」

 男は、歯のない口でゆっくりと芋を食べながら、うまそうに汁を飲む。汁は、何か豆と葉っぱのようなものが入っているが、何の味もない。久しぶりに話し相手ができたからか、それとも空腹が収まって気分が明るくなったからか、男はよくしゃべる。

 「調味料がないので、うまくはないけど慣れる。この島は、楽園だね。ここに来なかったら、俺なんかとっくの昔に路上でくたばってるからね。俺が島にやってきたときは、まだ何軒かの家に人が住んでいた。そのうちに、あのばあさん以外みんないなくなってしまった。フェリーがなくなったからだろうね。俺にとっては、ラッキーだった。おかげで一番ボロい小屋から元旅館だったこの家に移り住むことができた。なんといってもこのストーブがあるおかげで冬が安心だし、裏に畑があるからそこらを掘れば何か食べ物がある。でもこの家も、立派に見えるけど、もうガタガタ。まともに使えるのは、この部屋と隣の部屋だけ、それも風向きによっては雨漏りがひどい。でも、まあ、家賃を払ってるわけじゃないし、ただで使わせてもらってる身分だから何もいえないけど」

 男は、きゅうに不安になったのか、話をやめ、秀一をじっとみつめた。

 「お前は、どうやってこの島に来た?船は、どこに着いたんだ?おかしいな・・・わからないはずないけど・・・」

 秀一は、男の問いに答えようとしたが、自分でもよくわからなくて、下を向いた。そして黙り続けていると、男がますます疑いの目を向けてくるようで、どんどん追い込まれていった。
 男は、立ち上がってゆっくりと窓の方へ歩いて行き、また戻ってきて秀一の顔をのぞき込むようにして言った。

 「わかったぞ、ダンプだ。このところ、時々ダンプを見かける。そういえば、今日もダンプの音を聞いた気がした。なあ、ダンプでここへやって来たんだろう?」

 秀一は、男の目の迫力に圧倒されて、石のように固まってしまった。何もこたえない秀一にむかって、男はますますたたみかける。

 「ダンプでこの港まで来たんだな。きっとそうだ。でもどこから?どこでダンプに乗った?この島に、町と呼べるものは、一つしかない。この地区だ。島はほとんどが山林で、特に、西側は切り立った崖とそれをとりまく岩礁だそうだ。俺はまだ行ったことがないけど」

 突然、男は、疲れたのか目をそらして腰を下ろした。そしてゼーゼーと苦しそうに何度か深呼吸をしてから、独り言のようにつぶやきはじめた。

 「ときどきダンプの音を聞くけど、俺たちの生活を脅かすわけでもないから、知らん顔を決め込んでいた。何かよからぬ事をしてる奴がいたとしても、俺も他人の家に勝手に住んでるのだから、大して変わらないし、それがもし役場のダンプなら、当然、できるだけ見つかりたくないから」

 男は、そばに置いてあったやかんをストーブの上に置くと、ぶつぶつと語るともなく語り続けた。秀一は、この状態で自分でも不思議なのだけれど、抵抗できない眠気におそわれ、たびたび眠りに落ちては、気がついてまぶただけをあけるのだった。
 低い静かなつぶやきを聞きながら、あらがいようのない眠気に引きずり込まれていった。

 次に、気がついたとき、秀一は暗い部屋の床に横たわっていた。壁を背にして、海老のように身体を丸めて、湿った木が放つカビや虫のような臭気の中、そのまましばらくボーッと覚めずにいた。どこからか夜の外気が忍び込んでいるのだろうか、ただ暗いだけの部屋に、自然な明るさが射しこんでいる。目が慣れてくると、小さな部屋のそこここに人が横たわっているのが見えた。秀一は、何かいたたまれないような感じがして、何も踏まないように注意しながらドアまでたどり着くと、そっとノブを回した。ノブは、ギーッつと音がしたが思ったほどには回ってくれず、もう一度ギーッつと、力を込めて回してみた。ドアはすこし開いて、ストーブのあるさっきの部屋が見えた。ところがドアは、前に横たわる人が邪魔になって開けられない。

 「どこに行く?」

 背後から声がした。秀一は、ドキッとした。声の主が分かったが、これ以上ここにいたくなかったので、ドアの前の邪魔な人を思いっきり押しのけて、ドアを開けて飛び出した。

 「なけなしの食料を恵んでやったのに、恩知らずだな。俺たちのことを誰かに言いつけたら承知しないぞ。・・・」

 秀一は、あわてて玄関から走って逃げた。走りながら、まとわりつくように追いかけて来る虚ろな言葉を、ふりほどくように首を大きく振りながら、心で叫んだ。

 「言わないよ、誰にも言わないよ。だから安心して」

 秀一は、だんだん赤みを帯びてきた空に向かって、山道を駈け下りた。もう朝が来る。誰にも、何も、言うつもりなど無かった。自分が何を言ったって、信じてくれる人はいない。話をしても、話にならず、最後まで聞いてくれる人がいても、理解できず、ついには哀れむような眼差しを秀一に向けるのが常なのだ。
 白みかけた空が、頑固に居座る夜のとばりを、勢いよくはねのけている。暁の加勢を得て、秀一は、鳥の群れ飛ぶ港まで、一気に駈け下りた。無数のカモメがけたたましく鳴きながら、海に、空に、舞っていた。秀一は、『僕の世界』と心の中でつぶやくと、それと同時に心がどこまでも遠く広がって行くのを感じた。カモメは、ますますその数を増やし、一瞬だけど、秀一をまわりの景色から隠した。
 だけどあっという間に、カモメの乱舞が消えた。静かな波の向こうから船の音がする。見ると、いつの間にか岸壁に、三々五々猫が集まってきている。どこから来たのか、秀一の足元にも、弱々しい鳴き声を上げながら、やせ猫どもがうろついている。水平線からこちらに向かって、何かやってくるのが見える。あんまりゆっくりとした動きなので、船、それもおばあさんの船だと分かるまでに、すっかり太陽が顔を出し終わってしまった。

 『おばあさんは、一晩中漁をしていたのだ』

 秀一は、港で待っていることが出来ずに、あの家に行ったことが、なんだか恥ずかしかった。おばあさんに悪いことをしたようで、それを取り消すかのように、船に向かって大きく両手を振った。

 オンボロの小船の帰還は、カモメの群れを従えて晴れがましく、誇らしげに見えた。おばあさんは、たくましく船を操り収穫が詰まった荷箱をいくつかおろして、秀一に言った。

 「ソイ、カレー、ホッケ、ついでにイカ、エビ、ほれ大漁だ」

 ところが箱を覗くと、それぞれの箱に一、二匹しか入ってなくて、何もない箱もある。秀一は、少し当惑した。全部を一つの箱に入れることができるほど少ない量なのだ。でも何か言わなければいけないような気がして、秀一は「すごいね」と、つぶやいた。

 おばあさんが、道を隔てた家の前に箱を運びはじめたので、秀一も見よう見まねで手伝った。それからおばあさんは、家の中から、網や包丁やらを持ってきて、慣れた手つきで魚をさばいてトントン切ると、焼き網にのせたり、遠巻きにそれを見ている猫達に投げてやったりした。家の前には、魚の焼けるいい匂いが充満して、にわか食堂の開店だ。港の猫、カモメ、それに、木の上にはカラスまで集まってきて、焼き網に注がれる眼差しの多さに、その場はますます活気づくのだった。

 「ほれ、今が旬だ。喰え」と、言って、おばあさんは秀一の皿に焼けた魚を入れてくれた。カラスは、頭すれすれに飛びかい、猫がにじり寄ってくるのが気になったけれど、秀一は、おいしくて一心に食べた。食べてしまうと、おばあさんは、自分は食べないで、次々と秀一の皿に入れてくれた。秀一は、残り一切れになったとき皿を置いて、「ごちそうさま。おいしかった」と言って、おばあさんに渡した。おばあさんは、黙って皿を受け取ると、飲み込むようにガツガツ掻き込んだ。
 鳥たちも、猫たちも食堂が終わるとともにそれぞれのところに帰って行き、あたりにまた元の静寂が戻ってきた。

 後片付けは、すぐ済んだ。おばあさんの家はせまい。その上、所狭しと物が置いてあって小さな食台付近と、穴倉のような万年床以外に足の踏み場もない。
 「寝るよ」といっておばあさんは、布団に潜り込んだ。なんだか突然放り出されたようで、秀一は、靴を脱いで部屋に上がることもできず、土間に立ったまま部屋を埋めている物に目をやった。木箱、魚箱、段ボール、一斗缶、と容器類が多い。一番近くにある段ボール箱を少しめくって覗いてみたが、何も入っていないようだ。隣の木箱には、スーパーの袋ばかりがつまっている。その向こうの箱も空き缶や空き瓶がはいっている。大きな衣装ケースまで手を伸ばして少し覗くと、さびた釘抜き、ひからびた塗料缶、柄がとれて欠けた包丁、とガラクタが見える。

 「なんだ、みんなゴミか」

 秀一は、おばあさんの眠りを邪魔しないように、玄関をそっと閉めて外に出た。風が出てきた。雲が空に広がり、空と海の青に暗い陰りがしのび込み、秀一は、不意に悲しくなった。

 『お母さんは、心配しているだろうな。お父さんも章太も、クラスのみんなも先生も、僕を探しているだろうな・・・きっとそうだ。そうにちがいない。早く家へ帰らなければいけない』

 秀一は、風に押されながら、鳥が乱舞する波止場を歩く。水平線がぼやけてきて、ますます鳥が騒ぐ。

 『この島は、西町から遠いのだろうか?島の向こう側の風変わりな集落、ダンプの人達、廃屋に住む男達、おばあさん、みんなが関わりを持たずに暮らしているように見える。他の人達の気配を感じながらも、互いに見ないようにしているんだ。少しでも相手に踏み込んだら、無事でいられないような感じに恐れを抱いているのかもしれない。でも・・みんな僕には目をそらさないでいてくれた。僕は、みんなに助けられたと思う』

 気がつけば、一羽のカモメが、秀一の目線の高さで、風に逆らって羽ばたき続けている。手を伸ばせば届きそうな距離。でもじっと見ることも、まして手を伸ばして触れることも秀一にはできない。カモメは、このまま秀一の横で羽ばたき続けていることは出来ないだろうけど、せめて今だけは、これを共にしたいと願って、カモメと同じ点を見つめていよう、と思った瞬間カモメはどこかに飛び去ってしまった。
 波止場に、湿った風が吹き始め、大粒の雨が降り出した。秀一は、急いでおばあさんの家の軒下に駆け込んだ。

 雨は、風を伴っていよいよ激しさをます。秀一はそっと戸を開けて土間に入りフーッつと息をついた。トタン屋根を打つ雨音はいやに大きく、耳をつんざく。この家では、雨が降れば話も出来ないだろうと思っていると、背後から声がして驚いた。

 「おまえさんに、一寸頼みたいことがあるんだ。実は、わしには、息子がいて毎年冬が来る前と春の二回、わしに荷物を届けてくれていたんだ。向こうで仕事を見つけて嫁さんをもらって順調にやっているからなにもいうことはない、けど去年冬の前には来なかった。それから春になっても、わしは待っていたけど、来なかった。この島を離れずにいるのは、わしのわがままだ。だから生活の物が無くなっても、それでやっていくしかないと思っている。困るのは、船の燃料だけど、船が使えなければ、岸壁から釣りをするさ。その覚悟は出来ている。わしの心配は、息子だ。何か困ったことが起きたのかもしれない。そう思うと、わしは、心が痛くなってじっとしていられない」

 おばあさんは、とつとつと言葉をつないでいく。大声でもないのに、おばあさんの心配は、秀一の心に届いた。

 「おまえさんの家は、どこだ?」

 「西町」

 「フェリーがあったときは、よく行ったよ。わしは、船にありったけの燃料を入れて、おまえさんを家に送り届けようと思う。そしてわしは息子を訪ねる。わしもおまえさんも、二人とも万歳だ。ただ、気がかりがある。途中、潮がぶつかるところがあって、わしの小さいオンボロ船で突っ切れるかどうか、それが・・・まあ賭じゃね。運を天に任せるしかない。そこでわしの頼みというのは、おまえさんにわしの目になってもらいたいのだよ。わしの目は、困ったことに、ぼやけてかすんでまともに見えない。おまえさんに会わなければ、船で息子に会いに行くことなど考えられなかった。どうだ?目になってくれるかな?」

 おばあさんは、万年床から顔だけ出して、天井を仰いだまま秀一に問いかけた。 秀一は、おばあさんの申し出に、「う、うーん」と曖昧な返事をした。

 『おばあさんの目になるなんて、どうすればいいのか、何を見ればいいのかわからない。おばあさんの役に立てる自信がない。けれどもこのままだとおばあさんは、生活に必要な物が無くなって、幾日もしないうちにあの廃屋に住んでいる男達のようになっていく。僕が、一緒に行くよりほかに方法がない・・・でも失敗すれば二人とも海の中に沈むかもしれないのだ。困った』

 秀一が思い悩んでいると、グーグーと低いいびきが聞こえてきた。

 『なんだ、寝言だったのか、脅かさないでほしいな。よかった』

 段ボール箱を少し押しのけて、部屋の隅に寝場所を確保すると、秀一も丸まって寝息を立て始めた。

 目覚めたときは、雨はやんでいた。すっかり暗く、家の中はご飯を炊くいい匂いがしている。おばあさんは、暗がりでなにやら忙しく立ち働いているようだった。

 「さあ、おかゆを炊いたから、起きて早く食べな。米は、これでおしまい、最後の最後だ」

 秀一は、薄いスープのようなおかゆを飲むとかえって空腹が身にしみ、他になにか食べ物が出されるのを待っていたが何もなかった。

 「さあ、わしは、船の準備に行ってくる。その間に茶碗を洗って片付けておくれ。夜明けとともに出航だ」

 どうやら寝言ではなかったようだ。秀一は、もう決心するしかなかった。茶碗を片付けてぼんやり窓の外を眺めていると、ゆっくりと空に赤みが差してきた。おばあさんは、家に戻ると秀一にビニールの袋に入った物を差し出して言った。

 「わしのなけなしの全財産。と言っても残高はあんまり無いけどね。これをもっていてほしい」

 銀行か郵便局の通帳と印鑑だった。秀一は、あわてた。

 「僕は、いやだ」

 それだけ言うのが精一杯だった。落とし物、忘れ物が得意なのに、人の大事な物を預かるなんて出来ない。どう言って自分のことを説明しようか、と頭の中で言葉を探すけれど、焦れば焦るほど言葉どころか声さえ出てこない。

 「こんな家だけれど、やっぱりわしが戻る場所だから、しっかり戸締まりしておかないと」というと、どこからか大きな旧式の鍵を出してきて、ぼんやり突っ立っている秀一を押し出して、扉に鍵をかけた。

 「ほい、これもその袋に一緒に入れて」と言いながら、おばあさんは鍵も袋に入れて秀一に押しつけた。

 『ああ、もうだめだ、鍵はだめだ!』

 秀一は、両手を後ろに回して後ずさりした。どうしても受け取ることは出来ないのだ。

 「僕は、僕は、鍵をなくす・・・おばあさんが持っていたほうがいいよ」

 「わしは、船のこと全般をしなければいけない。身軽でないと、ね。そんな物を気にかけていてはとっさに動けない。おまえさんに頼む、いざというときは無くなってもいい、いくら大事な物だといっても命の重さよりはずっと軽いから」

 おばあさんは、そう言いながら秀一のシャツの上から腰にひもでグルグルと巻いて袋を結びつけた。

 「これでいい、さあ行こう」

 腰に袋を巻き付けた秀一は、なすすべもなく、おばあさんの後について船の方へ歩いていった。抗する言葉は、とうとう口から出てこなかった。おばあさんがエンジンをかけ、秀一が乗り込むと、船はゆっくりと動き始めた。座った姿勢の秀一は、お腹に巻かれたひもがきつかった。そしてなにより、さっきから心に渦巻いているものがあった。それが悲鳴を上げていた。

 『僕が何も言わないからってお腹をひもでグルグル巻きにするなんてあんまりだ。まるで縛られた囚人みたいじゃないか。おばあさんが、必死なのは分かるけど、・・・僕に頼み事をしていると思えない』

 秀一は、船の舵を操るおばあさんを見ていた。そしてゆっくりと腰に巻かれたひもをほどきはじめた。そしてすっかりほどいてしまうと、今度はひもをビニール袋にとおして、袋が背中に来るようにひもをたすき掛けにした。するとすうっとお腹が楽になり、海の風が身体中に染みわたった。

 『この袋は、頼まれたから持っているのじゃない。僕が持ってあげるのだ。子供のことを心配しているおばあさんのために、そして親切にも、見ず知らずの僕を家におくりとどけようとしているおばあさんのために、僕が出来ることをするのだ』

 船は、ゆっくりと港を出た。朝の風は心地よく、空はどこまでも青く透き通っていた。

(四)

 船は、大きなエンジン音をあげて、ゆっくりと海上をゆく。上下に大きく揺れる船を、次々と波のしぶきが洗う。秀一は、頭からびしょ濡れになりながら、落ちないように船縁にしがみついた。出港するとき、風はほとんど感じられなかったのに、今は、海原に白い波頭をつくって、おばあさんの船に容赦なく襲いかかる。空は雲一つ無い快晴だし、海は、どこまでも広く、他に浮かぶ船も見あたらない。海と空の間では、ぬうように鳥の群れが行き交うだけだ。秀一は、目をこらしてあたりを見ていたが、船の速度が遅いためか、いつまでたっても陸地らしいものが現れない。

 しばらくすると秀一は心配になってきた。

 『この方向でいいのだろうか?僕がおばあさんの目になるはずだから、何か言わなければいけないけど、いったい何を言うんだろう?』

 秀一は、おばあさんに思い切って尋ねてみた。

 「僕は何を言えばいい?」

 秀一の声が聞こえないのか、それとも操舵に集中しているのか、おばあさんは振り向きもしないし返事もない。気がつけば、鳥の群れがいくつも集まって船のまわりを飛び回っている。次第に鳥たちは数を増し、船にますます近づいて、船と船に乗っている秀一達をすっかり取り囲みはじめた。辺りの景色は刃のように飛び去る鳥たちにすっかり消されてしまった。おばあさんがどうしているのかもまったく見えない。鳥は、秀一の頭をかすめ、背中に背負った袋をたたき、手をついばむ。秀一は、鳥を追い払おうと舷から手を離し、思いっきり両手を振り回した。その時、船が横風を受けてバランスを崩して、秀一は海の中に落ちてしまった。

 ブクブクとどれくらい深く沈んだのか分からないが、何とか浮かび上がって海水から頭を出すと、あんなにゆっくりだった船が驚くほど先に行ってしまっている。しばらく立ち泳ぎをして落ち着こうとしたが、黒い水が冷たい。鳥に囲まれた小さな船は、秀一を置いて去っていく。港を出てから一度も秀一の方を見ず、話すこともなかったおばあさんのことを、ぼんやりと思った。

 遠のいていく船を見ながら、ゆっくりと立ち泳ぎをしていた。

 『僕がいないのに気づいて、きっと戻ってきてくれる、戻ってきて助けてくれる』

 呪文のように、何度も心で繰り返していたが、鳥の固まりとなった船は、どんどん離れていく。身体が冷えて、だんだん思うように手足を動かせなくなっていく。次第に頭が波に沈みがちになるのを、一生懸命こらえていたが、一瞬力が入らず一挙に深く潜ってしまった。

 『あ、油断した、急いで体勢を立て直さないと』

 秀一は、慌てて浮上したが、その時、海の中に何か黒い船のような物があるのをみた。『難破船』という言葉が頭をよぎったけれど、その時どこからかエンジン音が聞こえたような気がした。ぐるりと首をひねって見ると、見知らぬ船がこちらにやってくる。徐々に近づいて、人の叫び声が切れ切れに聞こえてきた。

 「確かに人が落ちるのを見たんだ。ちょうどこのあたりじゃないか?」

 「どこだ」

 「あそこに白い袋が浮いているだろう」

 「物を捨てたのじゃないのか。あの鳥にたかられている船が。きっと海にゴミを捨てたんだ」

 「いや、待て、ほら頭が見える、早く、もっと早くしろ。・・・よし、浮き輪を投げろ」

 「おーい、大丈夫か、今助けてやる、もう少しだ、がんばれ」

 何度目かの挑戦でやっと浮き輪につかまり、秀一は、漁船に引き上げられた。助かったという安堵感でしばらく横になっていたが、おばあさんのことが気になった。ふらふらとよろけながら、立ち上がって海を眺めた。大きな船は、見晴らしがよく、おばあさんの船がいるあたりは、鳥が集まっているのですぐに分かった。辺りをぐるりと見回すと、遠くに陸地と白い風車が見える。

 「何だ、反対の方向じゃないか。おばあさんは、とんでもない方向へ進んでいる」

 秀一は、船長と思われる人のところに駆けていくと、一生懸命に言葉を探して言った。

 「あの鳥の群れまで行ってください。あの中に僕が乗っていた船があるのです。あの船は、目がよく見えない人が操縦しているのです。方角がよく分からないのです。教えてあげなければ、あのまま漂流してしまいます。お願いします」

 船長は、秀一の説明を聞くと、何を言われているのかよく飲め込めないようだったが、この少年を落としたまま航行を続けている船をそのままにするわけにはいかないと判断したのか、「よし、おいかけてやる」と言った。

 おばあさんの船は、まるで海に漂う一枚の葉っぱみたいだから、鳥に囲まれていなければ見つけられなかっただろう、と秀一は思った。漁船が追いついた後も、秀一は、漁船に乗ったまま、おばあさんの船が後をついてくるのを見守る事にした。漁船の船長は、時々警笛を鳴らしながら、おばあさんの船をゆっくりと誘導してくれた。鳥の群れは、ちりぢりに飛び去ってしまい、おばあさんの小船は羽をむしられ丸裸になった鳥のようだった。

 漁港に戻ると、漁船は秀一を浜におろして再び漁に出て行った。秀一は、身体に巻いたヒモをやっとの事でほどき、ドキドキしながら背中から袋をおろし、中身を見た。袋の中に水がたまっていたが、通帳も鍵もあった。

 「よかった・・・無くなってないよ、・・・奇跡、だね」

 秀一は、嬉しかった。おばあさんの期待にこたえることが出来たことがなにより嬉しかった。心の中では、飛び上がって踊り出したいほどだったけれど、秀一が出来たのは、口を少しゆがめることだけだった。

 「うん」とおばあさんは、言ったきり、すっかり疲れたのか呆然としている。それからしばらく二人で浜に腰を下ろして、ものも言わず波を見ていた。

 「じゃあ、わしは行くから。おまえさんも家に帰れ」と言うなり、不意におばあさんは立ち上がり、町とは反対の方へ歩き出した。秀一は、あっけにとられて後ろ姿を見送っていたが、やおら立ち上がり、濡れているズボンの砂を払った。砂は、払っても払ってもまとわりつき、べとついてシャツにも手にも広がってゆき、顔や頭の中までもすっかり砂まみれになってしまった。しかたなくそのまま歩き出すと、至る所に『密漁禁止』の看板がたっている。秀一は、見ないようにうつむき加減に歩き続け、国道にでた。何の気なしに顔を上げて崖の上に目をやると、展望台の柵がみえたので、あわてて目を伏せた。後ろめたさがこみ上げた。鳥たちの役に立てなかった、という思いが秀一を苦しめた。なおも歩き続け、橋のところに来たとき秀一は自転車をここに置いたことを思い出したが、案の定自転車は無かった。自転車も自分のせいで失ってしまった、と思うと秀一の足取りはますます重くなった。

 家につくと、秀一の自転車が玄関横に置いてあるのが目に入った。秀一は、「ただいま」と小さく言って中に入るなり、章太が飛び出してきた。

 「兄ちゃん、どこに行ってた?今までどこにいた?お父さんもお母さんも毎日探し続けてるんだよ」

 章太は、秀一の頭の先からつま先までしげしげと何度も首を上下してみていたが、秀一が何もこたえないので、上がって服を着替えるように言った。秀一は、てっきりお父さんにどなられると思い込んでいたのに弟が出てきたので、少しほっとした。

 「船を見た。難破船だ、海の中で」

 「海の底でみたの?」

 「海底に行くわけないよ、おぼれそうになった時に、黒い鯨みたいな船を見たんだ」

 「それ、潜水艦じゃないの。兄ちゃん、潜水艦を見たの?・・・そんなわけない。あーあ、何を言っているのだろうね、兄ちゃんはいつも・・・」

 「そうか、潜水艦か、そうだね、間違えた、難破船じゃないよ、潜水艦だ、あれは」

 何かとんちんかんな秀一の話を切り上げて、章太は、「お父さん達は、今日は川岸のあたりを探しているんだ。橋の上に自転車があったから、川に落ちたんじゃないかって。だから僕、兄ちゃんが無事に帰ってきたことを知らせなきゃ。ここにいてね、どこにも行っちゃダメだよ」と念を押し、出て行った。

 意外なことに、お父さんは怒らなかった。お母さんは、気が抜けたみたいになって涙を流していた。秀一は、ときどき思い出した時に、島の事や芋をくれた男やおばあさんのことを、誰に言うともなしにつぶやいた。すると、秀一のそばにいる誰もがそわそわとして落ち着かなくなるのだった。