山の果樹園

 なだらかな山の中腹に小さな果樹園がある。昔、人口が急増したとき、このあたりも多いときで三十世帯を超える人々が住む部落があった。小さな田舎町に仕事を求めてやってきた人たちがとりあえず住み、町に通うベッドタウンといったところだった。山の中腹は、通勤に便利とは行かなかったが、道路も次第に整備され、バスも走っていたので、暮らしに支障はなかった。小学校の分校があり、子供たちも大勢いて、わいわいと毎日賑やかだった。しかしその後、時代の移り変わりとともにどんどん町自体の人口が減って、暮らしやすい町の中心部にもぽつぽつと空きができたので、山の部落の人たちは、次第に市街地区に移って行ってしまい、今では、山喜源一郎の山源果樹園一軒があるだけになってしまった。とはいっても果樹園ができて集落ができたという経緯からすると、山源果樹園を取り込んで集落ができ、そしていつの間にか誰もいなくなっただけのことだった。はじめは何もない山にマッチ箱のような町営住宅が建てられ、分校や神社の社まででき、そして建物はそのまま朽ちるに任せて、廃墟になっている。
 一平は、父が心臓発作で倒れて、しばらく療養していた時にこの家に戻ってきた。自分は長男だし、当時勤めていた会社が合理化で早期退職を募っていたこともあって、やめることにあまり躊躇はなかった。果樹の仕事は、小さい頃から手伝いをして体になじんでいたし、何より山の生活が恋しかった。そして父が亡くなり、母と二人の暮らしが始まった。自分がずっと待ち望んでいた展開が訪れたのだ。父の死によってもたらされた母の落胆と憔悴はかなりなものだったが、時がたちそれも徐々に癒えていった。
 「雪解けが遅かったせいか、今年はだいぶネズミにやられた」山から戻って長靴をぬぎながら母に声をかけると、母は、「ああ、仕方ない。父さんは雪が降る前にしっかりと金網で巻いていたのよ。それも根元だけじゃなくかなり上の方まで。ネズミにかじられると木がとてつもなく傷むから」と一平の方を見もせずつぶやいた。父が残した木々は、それほど多くはなかったが、どれもよく実のつく立派に手入れされた木ばかりだ。それを引き継いだのはいいが、この雪深い山の斜面で、それを維持することは想像以上に困難な仕事だった。果樹栽培の基本的なことは分かっていたが、変化する状況にきめ細かく対応するには経験が必要だと、一平はやり始めて分かった。父がやっていたときと比べ、収量も品質も下降気味なのを、母は黙って耐えているようだった。
 一平も金網のことはよく知っていたので、巻いてはいたが、徹底が足りなかったのか、どうもネズミの方が上手だったようだ。母は、五十になろうとする息子に対しても昔のままの態度を変えることをしない。立派でやり手の父、何をやっても要領悪くぱっとしない子、の構図のままだ。昔のように厳しく叱責することをしなくなっただけで、心の中では相変わらず期待にこたえられない息子にいらだっていた。一平は、父が亡くなって、生活全般を自分がになうことで、それが少しは変わるだろうと期待していた。でも母の中に父は厳然と生きて、日がたつにつれ、あろう事か良い思い出ばかりが肥大していくのだ。母の口から、何でもそつなくこなし、冒険に果敢に挑んだ英雄のような父の思い出が語られない日はなかった。一平は、それでも家に帰ってきたことを後悔しなかった。
 この年になるまで一平にも結婚をして家庭を持ちたいと思う人が何人かいたが、それが成就することはなかった。恋のはじめの追いかける情熱がなぜか続かない。一平はそれが、なぜなのか分からず、相手に対する不実な自分を責めることでそれはいつも終わった。しばらくして、それは母のせいではないか、と思うようになった。母の愛を求めても得られなかった記憶が心のどこかにいつもあった。今度の帰郷は、母と二人きりの生活の中で、自分に対する母の愛の有り様を確認したいということもあったのかもしれない。今更、そんなことをしても何もならないことは分かっている。でも、母の愛の対象であった父が亡くなり、弟の修次もとっくの昔に家を離れた。心の中に不発弾を抱えているかのように、何かがくすぶりながらこのまま人生を終えなければならないにしても、確かめることができるなら、これが最後の機会のように思えた。弟の修次は、父に似て、やることなすこと型破りだった。小学校の頃から進学のため家を離れるまで、母は、修次の起こす数々の問題に振り回された。悪いことをするのではないが、危険なことを選んでやっているようなところがあった。一番高い崖を素手でよじ登ったり、熊がでそうな場所にあえて出かけていくようなことを日常的にした。そして成功すると、父や母の前で得々として語り、無様に失敗して騒ぎになり、部落の人たちに救出されるようなことになっても、平然としてまた冒険を繰り返した。そんな修次はいつも母の注意を独占していた。一平には、母を振り向かせる術がなく、修次を疎ましく思うこともしばしばだった。
 でもそれも過ぎ去った。父は亡くなり、修次は全く家に寄りつかない。一平は、思いもかけず訪れた母との二人っきりの暮らしに、長い間求めても得られなかった心の平穏を見いだした。
 一平ははじめから果樹の管理に自信が持てなかった。こんな山の斜面を切り開いて、果樹園を作ろうと企てた父は、やはり尋常の人ではなかった。それで、一平がこちらに来てすぐに着手したのは、果樹からアスパラガスやトマトの栽培に徐々に移行することだった。今はまだ、収穫は安定せず収入にはなっていないが、今後期待できる。退職金のある間に基盤作りをしておこうと決めた。母は、家族の食料として野菜全般の栽培を一人でこなしてきたので、二人で力を合わせればやれないことはない。一平は時々ふと思う、父が母に与えた暮らしよりいい暮らしを母にさせてやれるのではないかと。そうすれば、母に認められる。もちろん母は、木を伐ることを承知しない。父の残した木々は、凍えるような冬にも春に備えて芽を守り、春到来と同時に愛らしい花を咲かせ、この殺風景な山に色とりどりの晴れ着を着せるのだ。それは父の母への愛の証のように思われた。少なくとも母は、父が残した形見だと思っていた。木々が、以前のように実をつけなくなったからといって伐ることは、母にはつらいことなのだ。「おまえは父さんが大切に守ってきた木を、きちんと手入れできないのだね」と母が言うと、一平も負けずに「この冬は何十年に一度の大雪だったのだよ。父さんが生きていたとしても、どうしようもできない。それに台風や、落雷で木が駄目になるたびに、木を伐ってしまうことに反対されるんじゃ、ここの家はどうして暮らしていけるというんだい」とやり返した。一平は、父なら木を伐採しないと知っていたが、自分は、自分の方法で困難に立ち向かうしかない、そしてそのことを母に分かってほしいと思った。

 果樹の見回りと、新しいビニルハウスの苗床を点検して、土間で作業服を脱いでいると、母がおずおずとそばに来て、手紙を差し出した。一平は、「手紙が来たの、誰から?」といいながら、受け取ると修次からだった。「いつ来たの?」と一平が聞くと、母は「昨日」とこたえたきりうつむいた。一平はなんだかいやな予感がしたが、居間のテーブルにきちんと座ると、たった二枚の便せんに目を通した。内容は、結婚する前にある女性との間に子供ができたので認知した。その後彼女と別れ今の妻と結婚した。その子はずっと彼女が育てていたので、以後会ったこともなく音信不通だったが、彼女が突然事故で亡くなったとのことで、修次のところにその子が訪ねてきた。しかし自分の家族と同居させることはできない。もうすぐ二十歳になるので、それまでそちらに行くように住所を渡した。名前は修一郎、これは彼女が勝手につけた名前だから、気にしないように、と淡々と書かれていた。一平は、頭にカッと血がのぼった。父親の葬儀にも出てこず、ずっと何の便りもよこさなかったのに、なんと身勝手な奴なのだ。自分の子供なら自分で責任を取るべきだ。なぜ母に押しつけるのか。一平は、はらわたが煮えくりかえる思いがして、じっとしていられず、立ち上がると、そばで小さくなっている母に向かってきっぱりと言った。「母さん、こんな勝手な話は聞く必要がないよ、どこの誰か分からない奴がやってきても家に入れることはないからね。この家は、山喜一平がやっている。追い返すのだよ、わかったね。」母からなにも言葉はなかったが一平に何か悲しげな眼差しを返した。一平はその眼差しから逃げるように、「出かけてくる」と言って家をとび出した。

 行くあてはなかったが、勢いに任せて部落跡に向かった。分校のグラウンドは、校門が残っているから、それと分かるだけで、草や若木がかつての広々とした空間を埋め尽くしている。通りを挟んで鳥居が見える。太い木を三本、鳥居の形にしてあるだけなのに、今でもしっかりと立っている。一平は、人の姿も生活の気配もない通りを歩きながら考えをまとめようとした。
 やっとたどり着いた母と二人の生活を、邪魔されてたまるものか。修次は、子供の頃は母の愛を独り占めして、後は家を出たきり、自由を求めて気ままに生き、そして子供が生まれ、今結婚もしている。なのに愛されなかった自分は、仕事も中途半端、結婚もせず子供もいない。まだ、人生でなにもしていない気がする。どうして自分は結婚に至らなかったのか?母に愛された気がしないことが何か関係しているのだろうか?自分は、人を好きになっても、母のように一人の人を深く愛していけるか不安になるのだ。母は、一途に父だけを追いかけた。父は奔放な人で、決して母を常に愛したわけではなかったのに、そのたびに母は、必死に追いすがり、決まって父は母の元に戻った。父と母の修羅場を子供の頃から何度も目にしていた自分と修次は、互いが自分なりに教訓を得たようだ。でもそんなことはもうどうでもいい。とにかく山源果樹園は、自分の力で盛りたてること、それが自分に課せられた仕事だ。ようやく見つけた自分の生業のような気がする。母が持っている父の残した金はわずかなもの。それに手をつけないで自分の退職金と貯金を使って今はやりくりしている。今やっとそれに情熱を燃やす事ができるのだ。弟の子供を引き取る余裕はない。子供の世話を母に頼むなら、弟も養育費を渡すぐらいは常識だろうに。まったく話にならない。たとえ金を積まれても、ごめんだけれど。
 一平は、通りを行きつ戻りつしながらも心を決めかねていた。木の鳥居をくぐると、馬頭観音の大きな石の台座があり、そこに腰掛けて、ふと空を仰いだ。
 それにしても、母は、すでに孫に会うのを楽しみにしているだろうと思った。ほかならぬ修次の息子なのだ会いたくないはずがない。それは、理解できる。母の気持ちを考えると、受け入れる方向に気持ちは動く。しかし、突然便せん二枚で、送り届ける修次のやりかたは間違っている。少なくとも修次がこちらに来て事情の説明をしなければいけないのだ。今更こちらから修次に何かを言うつもりはないが、いつまでもいつまでも心の中に修次に対する不満がわいて出るのだった。母とよく話をして、どうするかを決めよう。一平は、石から立ち上がると通りに出て、果樹園の方へ歩き出した。もう少しで果樹園というところで、後ろから砂利道を静かにやってくる車の音に気がついた。ジャリジャリとゆっくり通りをこちらに近づいてくる。一平は、あまり車が入ってこないこの道に、何がやってきたのか、と振り向くと、駐在所のミニパトカーだった。立ち止まって、道をあけると、パトカーは近くまで来て止まり、窓から駐在さんが顔を出して、「山源果樹園の道順を聞かれたんだけど、遠いし説明できないから、連れてきたんだけど。本人がお宅のお孫さんだと言うんでね。」一平が驚いて後部座席を覗くと、若者がいた。「本当に源一郎さんのお孫さん?」駐在さんは、いぶかしそうに一平の顔をじっと見て尋ねた。孫かどうか、会ったこともない自分には何とも答えられない。しかしここであいまいな態度をとるのは、良くないように思えたので、「ああ、どうも。ご面倒をかけました」と言ってから、後部座席の若者に家の中に入るように目で促した。
 若者は、気がつかないらしく、いつまでも無表情に座っている。一平が、ドアを開け「降りなさい」と声をかけると、若者はゆっくりと背をかがめて降りた。駐在さんにお礼を言うように促すと、無愛想に少し会釈をしたが、言葉はなかった。パトカーが行ってしまうと、一平は、若者に目をやった。上背があり、小柄な一平はやや見上げる格好になる。頬がこけてひどくやせている。寝癖なのか髪の毛は固まったように一方になびいている。上着とズボンは、いつ洗ったのか分からないほど汚れているように見える。荷物は、手提げ鞄一つ、それに重そうな皮革のコートそして小さな穴をいっぱい開けた段ボール箱。何か生き物でも入っているのだろうか。「君は、どなたかな?」一平は、挨拶もしないで突っ立っている若者に、いらだって皮肉っぽくきいた。若者は、「川井修一郎、父は山喜修次という人です」とかろうじて聞こえるほど小さな声で言って、うつむいた。目のあたりに修次の面影があるように思えなくもない。「そうか。実は、修次からの手紙が届いて読んだばかりで、まだ君を家で面倒をみるかどうかきめていないんだ。でもとりあえず家に入って話を聞こうか」と言うと一平は、先に立ってすたすた歩き出した。若者は、一度に持つには、かなり難しい三つの荷物を持とうと苦心している気配だったが、ようやく全部持てたのか、後をついて入ってきた。

 母は、そわそわと落ち着きなく台所と居間を行ったり来たりしている。修一郎が玄関に足を踏み入れたとき、一平がすかさず言った、「その段ボールは?そこに置いておいた方がいいね。」「ああ、はい」と言って修一郎はたたきに段ボールを大事そうにおいた。「なにが入っているの」一平が聞くと、修一郎は、少し照れたように「ママの形見」と言って、箱を開けた。中には、サボテンがぎっしりと並んでいた。小さな鉢に入った様々な、しかしよく似たサボテンがすべて枯れていた。一平は驚いて、「これがお母さんの形見なの?なんだすっかり枯れているじゃないか。こんなに持ちにくい段ボール箱を大事そうに持ってきたから、てっきり何か動物かと思ったよ。まあ、上がって」と言うと、修一郎は、「僕は、ここでいい」と低い声で口早に言ったかと思うとその場に座り込んだ。「たたきに座っていては、話もできない。なにが気に入らなかったのか知らないが、早くこっちに来ておばあさんに挨拶しなさい」と言う一平に、「サボテンは枯れていない、おじさんには分からないんだろうけど」と箱のそばを離れようとしない。そこに母がやってきて、「いいよ、その箱もって上がっておいで。今お茶を入れるから」と言った。修一郎は、一平の方を見もしないで、汚らしい箱を居間の隅に置くと食卓のいすではなく、ソファーの方に座った。
 一平は、お茶を一口飲むと修一郎の方を見ないで口を開いた。「君は年はいくつなの?」「十七。」「じゃ、高校生かな?」 「学校は行ってない。」「中学校を卒業して、高等学校に行かなかったの?」「入学はしたんだけど、やめた。」「どうして?」「・・・どうしてって・・・」「まあ、いいや。それで君は修次にあったんだね。修次が、どうしてるのか様子が分からないんだ。どこであったのか聞かせてくれないかな?元気だったの?」「・・・どこでも、会ってないから分からない。」「じゃ、君はどうしてここが分かったの。手紙では住所を渡したと書いてある。本当に君は修次の子供なの?」一平は、要領を得ない修一郎に、だんだん腹が立ってきた。「君はどこから来たの?つまり住所は?それと生年月日を聞こうか」一平の口調が、取り調べをする警察官のようになってきたので、母のマサ子が、「サボテンは、箱から出して日の当たる暖かいところにおいたほうがいい」と言いながら、出窓のところに新聞紙を持ってきて広げ始めた。すると、修一郎はすかさず箱を持って、出窓のところに行きサボテンを一つずつ並べていく。もう日が沈みかけて、出窓のそばはかえって寒いだろうと一平は思ったが、二人がすることに干渉したくもなかった。それにどうせ枯れている。カラカラに乾いて茶色になったサボテンの鉢が一列に出窓に並ぶと、修一郎は、しばらく眺めてから、箱を土間においた。一平は、混乱していた。自分の思惑と反対の方に事態が動いて行くのを受け止められずにいた。
 室内が薄暗さを増したことに気づいて一平は蛍光灯をつけた。今夜泊めるには、汚すぎる。まず風呂だ。修一郎に、風呂を沸かすので一緒に来るように言うと、なにも言わずについて家の外に出てきた。風呂を沸かすのに薪を燃やす。薪は、家の軒下にいつも準備してある。一平は、軍手を渡して、「今から風呂の焚き方を教えるから、よく見て覚えるように。たぶん薪の風呂は知らないだろうな」というと焚き口を開け、紙や細木を火の肥やしにしながら薪を順序よく入れて見せた。「もっと薪を持ってきてこの横に置いて」と言われ修一郎は薪を両手に一本ずつ持って帰ってきた。「家に風呂はなかったけど、ばあちゃんから薪で焚く風呂のことを聞いたことがある。」「じゃ、風呂屋に行ってたのか。」「昔ばあちゃんが住んでいた家では、ばあちゃんが風呂を焚く係で、大家族だからね、毎日長いこと焚いていたんだって。ばあちゃんが最後に入っておしまいなんだけど、ばあちゃんが入る頃には湯はぬるくて、くたくたで、それでも疲れていてもうどうでも良くて、いつも湯船の中で眠りそうになったって。」「風呂がなかったのか、道理で汚いはずだ。薪は一度にもっと運ぶ方が手間がかからないだろう?ところで君のおばあさんはどこにいるの?」一平はちぐはぐな会話を終わらせようと、修一郎の方に向き直って聞いた。すると「ここ」と言って修一郎は胸のあたりを指さした。
 一平は、なんだか手強さを感じて、わざと無視した。風呂が終わると、夕食をとった。修一郎は、テーブルの真ん中におかれた煮物の大鉢から、ほんの少し芋をとってゆっくり食べた後、茶碗にご飯を半分くらい残して箸を置いた。「もういいの?こんな田舎の食べ物じゃ口に合わないのかい?明日は、何かもっと気の利いたものを作ってあげるよ。でも今晩は、これしかないから仕方がない。もっと食べないと、お腹がすくよ」母は、困ったような顔をして修一郎に語りかけた。修一郎は、「あんまりお腹すいてないので、今はこれでいい」とつっけんどんに言うと、出窓のサボテンのところに行った。一平は、少し酒の酔いも手伝って、つかつかと修一郎のところに行くと、仁王立ちになり、「おい、テーブルに戻って茶碗の飯をきれいに最後の一粒まで食べろ、食い散らかしたままで席を立つな」と大声で怒鳴ると、修一郎の手をつかんでテーブルのいすに座らせた。一平は、「ここは山の中だ。ちょっと行ったらすぐコンビニがある町中とはわけが違う。食べ物はあるときに食べる、これが基本だ。食べたいかどうかは、重要じゃないんだ。それからいただきますとごちそうさまでしたを必ず言うこと」ときつい調子で言った。修一郎は黙って聞いてはいたが、じっといすに座ったまま箸を持とうとしない。一平が、食事を終え食器を流しに持って行くと、母が、修一郎の前にある食器を片付けようとしたので一平は手で制止した。「修一郎、その茶碗のご飯をどうする?」一平が静かに聞くと、修一郎は、おもむろに顔を上げて、「今はいらない。でもこれをおむすびにする。明日の朝食べるから、いいでしょう?」と言って、母に向き直って「塩はどこ?それと・・・食器の後片付けは、全部僕がやる、やりかたを教えて」と言うなり椅子から立ち上がった。母には、ひょろりとした痩せた体が、今にも倒れて来るのではないかと思われ、とっさに両手で体を支えた。
 修一郎の片付けが済むと、一平は昔修次が使っていた部屋に案内した。一番奥の小さな納戸のような部屋は、主を失って何十年も開けられたことすらない。埃と蜘蛛の巣だらけの暗闇に窓から明るい月の光が一筋差し込んでいる。「これはひどいな、準備する間があれば掃除をしておいたんだけど。突然だったから。今夜はひとまずさっと掃いて、布団は向こうから運ぶといい」と言い残して一平は部屋を出た。
 母は居間にいて、一平の顔を見るなり「よく似ている、若い頃のお父さんに。あんなに細くなかったけれど、そっくりだよ」と自分まで若い頃に戻ったみたいにはしゃいで言った。一平は、「修次に連絡をして話をしようと思う。住所とか連絡先はある?」と言うと、母はタンスの一番上の小さな引き出しから箱を取り出してテーブルの上に置いた。「これは、おまえがこの家に戻ってくる前に修次から来たもので、ええーっとこれは就職した事が書いてあった。それからこっちは結婚することにしたと言う内容、それからこれはどこか外国からの絵はがき、これで全部。」「住所はある?」「ない。」「昨日来たのに住所はある?」「それが東京都台東区・・・と書いてあるのだけれど番地まではないのだよ。」「怪しいな。就職した会社は分かる?」「商社の営業だと書いてあるけど会社名とか住所は書いてないの。それにもう二十年以上前のことだよ。」「だからか、音信不通の意味が分かったよ。修次の居場所を調べる方法はないこともないけど・・・」一平は、それにしても不思議だった。結婚しないで別れた女性との間に生まれた子供が、どうして修次と連絡を取ることができ、この山源果樹園にくることができたのだろうか?捨てられていた子犬を拾ってきたみたいに、無邪気に喜んでいる母に免じて、ここはすべて目をつぶって、修一郎の面倒をみるしかないのか、と一平が思い始めたとき、奥の部屋の方から、何か音色が聞こえてきた。小さなその音は、笛なのか聞いたこのとのない音で、単調に一つの旋律を繰り返すのだった。遠慮がちに奏でる、かすかなその音色は、夜が更けても執拗に繰り返された。

 毎朝、一平は日の出の頃、山の見回りをする。木々を一本一本丁寧に見て、畑、ビニルハウスと一通り無事を確認してから、開けた高台の切り株に腰を下ろし、下界を眺める。朝日が明るく輝く朝も、霧深い凍える夜明けも、一平にとってはその瞬間が至福の時だった。
 しかし今朝は、今までと違う。修一郎がいる。起こさなければいつまでも起きてこないのだろうと思って、一平は、修一郎の眠る部屋に行ってそっとふすまを開けた。ところが薄闇の室内に、布団もなければ修一郎もいない。部屋の隅に鞄がぽつんと置かれている。一平は、外に出ると修一郎を捜しながら、いつもの見回りを始めた。得体の知れない胸騒ぎがしないではないが、努めて普段の通り木々を見て回った。それにしても修一郎は、どこへ行ったのだろうか。もやが次第に晴れてまぶしい朝の最初の光が、果樹園に差し込み、一平が梅の木のところにさしかかったとき、木の上に修一郎が座っているのを見た。梅の木は、元々は見事な梅林にあった。積雪と厳しい寒さで、梅の木は、この地に根付くことはないと言われていたが、源一郎は、その定説をはねのけた。そして梅は多くの実をつけ、地元の人たちに重宝がられた時期もあった。しかしやはり梅は難しく、一平が引き継いだときにはすでにたった一本しか残っていなかった。その梅の木を、一平は細心の注意を払って大切に見守っていた。修一郎は事もあろうに、その梅の木にのぼっているのだ。
 「何をしている、下りろ。早くその木から下りろ」というが早いか、一平は、幹に駈け寄って、さほど高くもない木の下から修一郎のコートを引っ張った。一平の勢いと形相に度肝を抜かれ、修一郎は恐れをなした。すでに枝枝にふくらみかけた花芽がいくつもついていたが、修一郎は、逃れようとして手当たり次第に枝という枝にしがみつき身をくねらせた。皮革の重いコートが細い枝に被さり次々に容赦なく折れていく。その様子を目の当たりにした一平は、冷静さを失い、木によじ登って修一郎めがけて殴りかかった。二人は、もつれながら木から落ち、あたりに枝が散乱した。「この木はな、母の大事な木なのだ。この木は今でもちゃんと生きて毎年実をつけている。それは奇跡なのだ。父の魂なのだ。それなのにこんなになってしまって。枝も花芽も落ちてしまった。それだけじゃない、幹も上が折れてしまっている。ああ、もうおしまいだ。」一平は、年甲斐もなくすっかり取り乱していた。地面に仰向けに倒れている修一郎めがけて、さらに殴りかかろうとしたとき、修一郎のか細い声が聞こえた。 「おじさんは、おばあさんを大切に思っているんだね。それに源一郎さんも尊敬している。僕にも、大切にしている人がいた。ばあちゃんとママ。ばあちゃんは、僕を育ててくれた。僕が生まれるのを誰も望まなかったときに、ばあちゃんはママに生むように言ってくれたんだ。だから、ばあちゃんは命の恩人。僕は、ばあちゃんに大事にされて大きくなった。でも僕が高校に入って間もない頃にばあちゃんが亡くなった。その時から、何か分からないけど何もかもが変わってしまった。足下がふわふわとして、地に足がつかないような、自分がちゃんとここにいるのかどうか確かな感じが無いような、周りの人々も学校も、そしてこの僕自身も何の意味もないような、そんな思いがおそってきたの。その頃から、食べることがあまりできなくなって、眠るのもあんまりちゃんと眠れないんだ。ママは、僕のことをとても心配してくれた、と思う。でもママは、ばあちゃんを失ってから山喜修次をしつこく追い回し始めた。ばあちゃんが生きていた頃は、全く興味も持たなかったみたいだけど、それが打って変わって執着し始めたみたいで、警察沙汰になったこともあった。そのママも道路に飛び出して車にひかれて死んだ。僕は、こうして生きているけど、僕をこの世に生み出した人は、二人とももういない。僕は、確かなものがほしくて、ママが集めた修次という人の情報を元に探した。そして会おうとしたけど、会えず別の人にここの住所をもらった。」修一郎は仰向けに倒れたまま、力なく語ると、一平を見上げて「おじさんの服破けてる」と少しほほえんで言った。

 修一郎は鼻血を出していた。一平は、「大丈夫か、これで押さえて」と言って首にかけていたタオルを渡した。修一郎は、起き上がりタオルを受け取ると、それで鼻を押さえた。一平は、改めて梅の木を見た。まず、母が見たら悲しむだろうと思った。それほど変わり果てていた。この木は特別なのだ、なんとしても再生させないといけない。「おまえと俺はこの木をこんな姿にした。なんとしても元通りに元気にしなきゃいけない。そうだろう?」一平は、修一郎になぜ木に登ったのか、責めてみてもはじまらないと思い、何か二人がもっと力が出てくるようなことを言おうと思って、そう言った。修一郎は、タオルを真っ赤にしながらくぐもった声で「木って暖かいんだ。木の上で幹にもたれていると木に抱かれているようだった。少しも不安がないんだ、不思議な感じだった。木に登ったのは、初めてなんだ。でもこんな事になるなら、のぼらなければ良かった、ごめんなさい。」修一郎は、タオルを鼻から外して、うなだれた。鼻血はまだ勢いよく流れ、口も赤く染まっているのを見て、一平は急ぎ家の中に連れて入った。
 母は、驚いて救急車を呼ぼうとしたが、一平は明るいところで傷をよく見ようと言った。鼻血とそれから口の中を切っていた。さらに足と腕にかなり擦り傷があった。一平もシャツがびりびりに破けて、耳を少し切っていた。母は、何事があったのかしきりに尋ねていたが、二人とも何も答えはしなかった。外に出れば、そのうち分かるのだ。一平は、母が可哀想でならなかった。

 修一郎は、朝食と向き合って、緊張した面持ちでため息をついていた。一平は、粥を二杯平らげると、早速、ぐずぐずと食べようとしない修一郎を伴って梅の木のところへ行った。母が後をついて出て来た。折れた箇所をのこぎりできれいに伐ると薬剤を塗って処置をした。二人とも、すっかり小さくなった木の廻りで黙々と動いた。源一郎の梅の木に、吸い寄せられるようにたどり着いた二人が、木を損ないそして二人して木を修復している。一平は、何も言葉を発しない母の方をちらっと見た。母は、小さくなった木を見て、「これじゃ今年の梅干しは無理だね。でも死にはしない、きっと生き延びるよ。そしてまた大きくなって、いつか新しい梅の花を咲かせてくれる」ときっぱりと言って足早に家に入っていった。
 一平は、高台の切り株で一服しようと、修一郎を誘った。修一郎は、とりとめのない様子でいつもうろうろしている。どこかへ行くでも何をするでもなく、ただ動いている。高台に来て一平が腰を下ろしても、修一郎は座ったり立ったり落ち着きがなかった。「今日は買い物があるので、今から町へ下りていく。何かほしいものがあるなら、一緒に乗っていくか?食べたいものがあるなら買えばいい」と朝日にまばゆく輝く山の景色を眺めながら一平が言うと、「いや、いいです。僕はおばあちゃんに話があるので」と修一郎は、忙しく歩きながらつぶやいた。

 修一郎が、台所に行ってマサ子に「あのう、昨日の芋の煮物ある?」と聞くと、「芋なら鍋にあるよ、いつもこうして煮てあるの。温めようか?」と鍋のふたを取って修一郎に見せた。修一郎は、「いい、さめたままで。少しほしい」と言って洗い上げた小鉢に、自分で二つ三つ芋を取り出して盛ると、テーブルについてゆっくり食べ始めた。そして独り言のようにぽつりと言った。「ばあちゃんの味だ。ばあちゃんが僕によく作ってくれた芋の煮物と同じ味だ。」「そりゃ良かった。もっと食べればいいよ、芋ならいくらでもあるから。ほかにもっとおばあさんが作ってくれたもので食べたいものがあるなら、私が作ってあげるよ。言ってごらん。」「今は、これでいい」と言ったきり修一郎は、黙って少しずつ芋を口に入れている。マサ子は、修一郎が一口でも多く芋を食べるようにと、祈るような気持ちで床を拭いていた。そして拭き掃除が終わる頃、小鉢が空になり、「ごちそうさま。久しぶりにおいしかった」と修一郎は言うと、立ち上がって小鉢を洗い、出窓のサボテンのところに行った。明るい日差しがサボテンに降り注ぐのを見ながら、「僕、ここにいてもいいのかな?」と言った。マサ子は、そばに来て修一郎の後ろに立ち、「よくここに来てくれたね。風に運ばれて、水に流れて草木の種は遠く離れたところにたどり着くけど、修一郎は、ここに来るべくしてやってきたのだよ。ここが、修一郎が住むところなのだよ」と語りかけた。修一郎は、何も言わず、その場にうずくまると猫のように丸くなって眠った。窓から差し込む暖かな光が、骨と皮ばかりの修一郎の体を包んでいた。

 マサ子は、菜園の手入れをしてからぶらぶらと部落跡に行ってみた。廃屋は、取り壊されず、大半は朽ちて崩れ落ちている。でもわずかにしっかりと立っていて今でも手入れをすれば人が住めそうな家もある。そんなところは、しかしたいていタヌキかキツネの一家が住み着いていた。あるいは蛇がぞろぞろ列をなして家から出てくるのを見たこともあった。人間の都合で急に建設された住宅地は、今や廻りの森の援助を得て元の持ち主に返還されつつあるようだ。
 修一郎は、マサ子の心の中に飛んできた種だった。むかし源一郎や修次がそうであったように、今は修一郎の種がまかれたのだ。心の軟らかな土の上に、種が飛来してきて芽を出し、根を張っていく。心配や喜びの花を咲かせ、いつかは跡形もなく消えるのだ。やがてマサ子の心に残された記憶は、思い出すことで新たによみがえり、よみがえるたびに、良いものとなっていく。時にいばらの記憶もあるが、それは不思議と自然にどこかに行ってしまうのだった。今のマサ子の気がかりは、修一郎の健康だ。あの痩せようは尋常じゃない、とマサ子は一目で見抜いた。昨夜の晩ご飯で、その直感は確信に変わった。何とかして食べさせないと、と思うが、どうにもできないような感じがあって、手を出せない。焦らない、焦ってはいけない、そのうち時間が経つうちに、何かやるべき方向が見えてくるに違いない、とマサ子は思うことにした。それは、畑と種から身につけた、マサ子の知恵だった。

 一平が家に戻ると、修一郎が、戸棚や引き出しを開けて何かを探している。戸棚や引き出しを次々と開けて、中を覗いてすぐに閉める。一平が入り口に立っていることにも気づかないようだ。一平は、「何をしている?」と問うと、修一郎は立ち止まって「いや、何も」と言うと、サボテンのところへ行って窓の外を見た。「何かを探していたのか?家の中には、わずかだけれど大事なものがある。もし要るものがあれば、母や俺に言ってくれ。誰もいないときに、勝手に引き出しや戸棚を物色するのはやめてほしい。」『物色』と言ってしまって、一平は自分でも少し動揺した。修一郎が何も言わないので、一平は、「おばあさんはどこ?菜園にいなかったみたいだけど」と、今言った言葉を隠すように、わざと明るく言ってみた。けれど相変わらず修一郎は黙ったまま背中を向けている。一平は、きちんと閉められずに少しずつ開いている引き出しを目にしていると、疑いが胸に迫ってきた。
 ひょっとして、こいつは家に入れてはいけない者だったのかもしれない。不確かな素性と唐突な行動は、何かあるたびに、不安の塊となって俺を襲う。あいつが、母を引き込んで強大化していく敵のような怖さを感じる。はじめにきっぱりと門前払しておけばよかった。すでにあいつは俺の大事な梅の木を折った。そして今は、盗人のようなまねをしている。このまま許していては、本当に何をするか分からない。この家は、俺と母の人生を飾る終の棲家、安住の場であるべきなのだから。
 修一郎は、サボテンを一つ一つ手にとって、少し眺めてまた元に戻しながら、心の中でつぶやいた。『探しているけど、それが何か分からない。要るものがあるのかどうか、それも分からない。でもはっきりしているのは、おじさんにとって大事なものを奪おうとしていたのではない、ということ。たぶん引き出しの中身よりも引き出しそのものに惹かれたのかな。よく分からない、きっとぶらぶらうろつくのと何も変わらない、単なる動作なのだ』黙っていてはいけない、何か言わなければと思っても、どうしてもうまく表せそうに思えず、修一郎は、一平のするどい視線を背後に感じながらも黙り続けるよりほかになかった。
 しばらくすると、一平は出て行ったようだった。とたんに肩が軽くなったような解放された気分になって、奥の部屋からオカリナを持ってきた。サボテンが並ぶ出窓を背もたれにして、床に座り込むと控えめに吹いた。繰り返すうちに、ちりぢりに分散した心が音色に集まって来るような気がする。一心に吹くことで自分と旋律が一つになれる。修一郎は、何度も何度も短い旋律を繰り返し奏でた。暗い淀みに自分を引きずり込もうとするものから、離れようとして、目を閉じて吹き続けた。東京のアパートの一室では、音を殺して吹いていた。そして周りに誰も文句を言う人がいないこの山の中でも、やはり大きな音は出せなかった。思いっきり吹くことなど、考えも及ばないのだ。修一郎は、はじめから自分を許せなかった。生まれたことそして今も生きていることは、受け入れられる事ではないのに、それをどうすればいいのか分からない。いつも窒息しそうな苦しさをどうすることもできずにいた。

 家に近づくにつれオカリナの音色が聞こえてきた。マサ子は、なんだかつぶやきに似た吹き方に、修一郎の心を聞こうとしたが、例の短い旋律が耳にこびりつくように繰り返されるだけだった。マサ子は、家に入って、道ばたで摘んできたヨモギで草餅を作り出した。「草餅は好き?今はもう、ちょっと時期を過ぎたけれど、できるだけ柔らかそうなところを選んで摘んできた。うまくできるといいのだけれど」というマサ子に修一郎は、立ち上がってそばに来て「僕は、蒸しパンが好き。ヨモギが入った蒸しパンはばあちゃんが作ってくれた」と言った。「そうなの。あいにく草餅と蒸しパンは粉が違う。それに作りなれていないから自信がないの。でもまあいいわ、修一郎さんに食べてもらいたいから見よう見まねで蒸しパンを作ってみる」と言うと、マサ子は作りかけの餅の生地を脇によけ、改めて小麦粉を計量して、考えながらたどたどしく作り始めた。ようやく蒸し上がって、修一郎は、緑のまんじゅうのような蒸しパンを前にして「すごい色、僕のばあちゃんのはもっと薄い緑だった」と無感動に言って一口かじってみた。緑色の皮のすぐ下から黒い粒あんが出て来て、「あれえ、あんこだ。こんなんじゃない、だってばあちゃんの蒸しパンはふっくらしてちょっと甘くて、あんこなんか入ってなかった」と言うと、残りを乱暴に皿の上に投げ入れた。いつの間にか居間に入ってきていた一平は、この動作を見逃さなかった。「食べ物を乱雑に扱うな。おばあさんがせっかくおまえのために作ってくれたんだ、ありがたく食べろ」と言うなりかじった蒸しパンをつかんで修一郎の口に押し込もうとした。修一郎は、驚いて急に立ち上がると、一平がつかんで押しつけている蒸しパンを左手で払いのけようとして、その手が一平の顔にあたり、蒸しパンは床にとんだ。一平は、顔に平手をくらいカッとなった。

 一平は、大股で居間を出て行くと、すぐ段ボール箱を持って戻り、出窓に一列に並べられているサボテンを次々と勢いよく箱に放り込んでいった。全部入れ終わり、一平は段ボール箱を持って居間を出て行くとき、マサ子に言った。「枯れたサボテンは、捨てる。それから、母さん、草餅を俺のために作ってくれないか?俺が草餅を好きなことを母さんは知っていた?母さんが毎年春になるとヨモギをたくさん摘んで、草餅を山盛り作ってみんなでよく食べた。俺は、それが楽しみだった。こっちに俺が戻ってからは、春になっても一度も作ってない。今日こいつのために作ろうとした。そこにある材料はもったいない、今から俺にそれで草餅を作ってくれない?」「ああ、でもヨモギは使ってしまって、もうないよ。修一郎のために作ってやろうとしたのは、少しでも食べてもらいたかったからなの。このまま食べないと、死んでしまうよ。」「母さん、目の前にいる俺を見て。俺は、母さんの目に入っていない。物心ついたときから修次、修次。俺は、勘定されていない。俺がこの家に戻ったことを少しも喜んでいないし、俺が一生懸命工夫してこの家のために働いても、その工夫を認めてくれない。いつも父さんより上手にできないからだ。そして今度は、修一郎だ。この間まで生まれていたことすら知らなかったのに、そんな奴が母さんにとって大切なの?」一平は、『この俺よりも』という言葉を飲み込んだ。いい年をしてそんな恨み言を母親に言っている自分を、修一郎はどう思っているのだろうと、居間の隅に無言で立っている修一郎に目をやった。無表情にこちらを見ている。一平は、手にした段ボール箱を少し持ち上げ、「これは処分する」と言って居間を出て行った。

 刈草の堆肥場につくと、一平は小さな鉢を逆さにしてカラカラのサボテンを一つ一つ草の山に落とした。母が後をついてきた。一平が空の鉢を重ねて箱にしまうと声をかけてきた。「おまえがそんな風に思っているとは少しも知らなかった。おまえは小さい頃から手のかからない子で、困らせることもない子だった。口数も少ないから、あんまり何を思っているのか分からないところがあったけど、危ないことや悪いことはやらないだろうと信じていたんだよ。私が気を配らなくてもそこにいて、言いつけを守っている。でも修次は、私の心を揺さぶる、気になって仕方ない子だった。よく話をし、よくいたずらをした。大きくなると危険なことや悪いことも平気でやった。嵐に巻き込まれたみたいに、私は知らんぷりなんてできない。修次が家にいたときは、いつもはらはらそして時々たまに底抜けの楽しさが訪れる。どちらの子が好きか、じゃなくて修次には、巻き込まれてしまうのだよ。それから修一郎が大事ということはないけど、あの痩せ具合が、気になってしようがないの。実際食べる量があんまり少ない。とにかく食べなければ死んでしまうんじゃないかと、心配なんだよ。気が気じゃない。・・・おまえに聞いてみたかったんだけれど、私は、おまえにとって必要かい?」母の意外な言葉に、一平は何を言われているのか分からず、母の顔をしげしげと見つめた。「おまえは、私によそよそしい感じで、時には私を冷たく見下すように思えたものだから。おまえには、自分の弱さを見せることができず、虚勢を張っていたの。口べたで自分の思いをあまりうまくしゃべれなかっただけなんだね。寂しい思いをさせたのなら、謝るよ、ごめんなさい。」母は、肩を落としてうつむいたまま、一平が何か言うのを待っているようだった。

 一平は、母の言葉を聞いているうちに、かつて互いに思いを寄せあったはずなのに、実を結ぶことがなかった自分の恋に思いをはせた。相手が去ったのも、自分から去ったのも、結局同じ事、いずれも決断しない相手を感じて、やむにやまれずにとった行動だったのかもしれないと。でも決断しないとは、何を?相手を選ぶ決断なのか?自分の心をはっきりと見極めようとする覚悟なのか?一平と母は、親子で、決断以前の関係があると思い込んでいるから、続いている。間違いがあれば、正すこともできるが、他の人とは、切れればその傷を背負っていくしかないのだ。すでに何の実体もないのに、心にいつまでも残る古傷として。一平と相手の間にあったものを、自分のせいにしたり、相手のせいにしたりしながら、自然にうずきがおさまるのを待つしかない。二人の間のものは、二人のものであり、どちらか一方のものではない。実体がなくなれば、消滅するのが筋なのだ。それでも、残った傷跡に苦しんでいる。一平は、成就しなかった恋愛、獲得できない自分の自信を思えば思うほど心が乱れるのだった。
 母は、いつまでも口を開かない一平から離れて、菜園の方へ行った。風もなく、鳥の声も聞こえず、家のまわりは静寂につつまれていった。

 一平が家に戻ると修一郎は母の作った緑色の蒸しパンを少しずつちぎって口に運んでいた。一平も気がつけば、朝食を食べたきり何も食べていない。修一郎と自分にお茶を入れて、テーブルの上の蒸しパンを食べ始めた。少しひからびて堅くなっていたが、よくかめば草と粉の素朴な味が口に広がる。一平は、『これは蒸しパンではない、堅いまんじゅうみたいだ』と思うと、少し笑みがこぼれた。母の悪戦苦闘ぶりが思われた。修一郎は、と見ると下を向いて黙って少しずつ食べているが、その手にぽつんと涙が落ちた。一平は、構わず食べ続け、一段落して修一郎に言った。「食べ終わったら、散歩に行こう。」修一郎は顔も上げず、何も言わず、小さな緑のかけらをしきりに口に運んでいる。そしてあんこだけが皿に残った。数えると三つ。修一郎の手がやっと止まったのを確認して、一平は「行こう」と言って立ち上がった。修一郎は、少し渋るそぶりを見せたが、それでも少し離れてついてきた。山源果樹園の家族の散歩は、部落跡と決まっている。少し歩けば分校のグラウンド、通りを挟んで向かい側に木を組んで作った鳥居があり、石の台座の上に馬頭観音がのっている。通りを歩くと、昔の人々の息づかいが聞こえるようだ。今は誰もいない。空には、まだ光り満ちていない白い月が、静かにまん丸の形で浮かんでいる。一平は歩きながらかなり後ろにいる修一郎に語りかけた。「ここは、山を削って作った町だ。木を切り倒し、道路を作り、住宅を建て水道や電気も完備した。人々が暮らし、それからすっかりいなくなった。草が生え、若木が育ち、動物たちも戻ってきている。いわば、これは山にできた傷だ。傷は今だいぶ癒えてきた。古傷は、おそらくいつまでも痕跡として残るだろうけど、どんどん自然が治してくれる。時間がたてば、向こうのペースで治してくれるんだ。俺たちは、だから過去の恨みや哀しみを、ほっておいていいのだ。古傷は、自然に任せて、もう後ろを見ないで前を向いて歩くのだ。」一平が歩みを止めると、少し先で砂利道をキツネが横切った。
 「ママの形見だったのに。どうして捨てた、僕の大事な物をなぜ捨てたの?」修一郎は、そう叫ぶと、来た道をゆっくりと戻って鳥居の木にしがみついて泣いた。「サボテンを枯らしたのは僕なんだ。ママは、ほかの花は上手に育てられないけど、サボテンならお手の物だと、よく言っていた。それくらい青々として花もよく咲かせていた。なのに僕は、それをみんな枯らしてしまった。ママがこの世で生きた証は、僕とサボテン。なのに出来損ないの僕がもう一つの証を抹殺したんだ。僕なんか、生きていることが悪なんだ。せめてサボテンをきちんと育て続けることができていたら、僕もママの役に立てただろう。僕はママを喜ばせることをしたかった。僕を産むことでママが抱えた苦しみを、癒してあげたかったのに、ママはもういない。そしてママが心をかけたサボテンもなくなった。」一平は、そばに寄ることができずに少し離れた道の上に立ったまま耳を傾けた。修一郎の哀しみで木々の梢が揺れ生き物たちが息をひそめているように思えた。そして一平が、何かに突き動かされるように語り始めた。「おまえの母さんが喜ぶ方法があるよ。それはおまえが生まれてきて良かったと心底思えるようになることだ。サボテンを枯らしたことは、何でもないこと。水やりとか温度管理が難しいから、いきなり渡されてできる人はいないよ。みんな失敗するんだ。だからもう忘れていい。でも、おまえが元気になって、これからの人生を前向きに生きることは、おまえの母さんとおばあさんの二人が喜ぶことなのだ。苦労した二人が今なお願っていることなんだ。だから、その願いを叶えてあげようじゃないか。俺には、子供がいない。おまえはこの家で、修次の子ではなく、俺の息子として暮らせばいい。そうして、おまえは、元気になって希望と目標を見つけるんだ。俺は、おまえという息子を得て、ますます気を引き締めて仕事に頑張るよ。」
 いつの間にかすっかり黄色くなった月が、一平の目に飛び込んできた。「ああ、急がなきゃ。畑もハウスも道具が出しっぱなしだし、扉も開けっ放しだ。早く」そう言うと修一郎の体を立たせて、抱えるようにして家に急いだ。温度が下がらないよう、動物が入らないよう、きちんとハウスの戸を閉めると、一息ついて、修一郎に道具の片付け方を教えた。「毎日一つ一つ覚えてやっていけば、それがだんだん自分の居場所になるんだ。そう、自分の居場所だ。俺がこの家に戻ってきたときは、病床の父も母も俺を特に歓迎した訳じゃない。俺は、仕事をやめて、行きたい所も特になく、これといってやりたい事も見あたらなくて、家に帰ってきてしまった。母がこれから困るだろうと、理由をつけて。でも母は、俺が帰ってこなければ、こないで何か方策を見つけていたんだ。その方がずっと良かったのかもしれない。でも俺はこの家に帰るしか道がなかった。おまえと俺は五十歩百歩なのかもしれない。その日以来、自分の居場所を少しずつ築いている。そのつもりだった、おまえが来るまでは。そして仕事を分担することだけでは、居場所を作ることができないと、おまえがきてから分かったんだ。自分の気持ちをちゃんと正直に伝えることが、大事だと。当てつけや、遠回しは、相手に伝わらず、誤解を生んでいくからね。相手の心に自分の場所を築くことが、本当の意味で、この家が自分の居場所になるのだと、分かったんだ。思いは、ふたをしないで打ち明けることが、どういう結果になっても、いいことなのだと今は思う。」一平が、自分に言い聞かせるように語っている間に、修一郎はいなくなり、一平が家に入ると母の横で立って芋を食べていた。

 夕食の時、マサ子がぼそっとつぶやいた。「あの鳥居をくぐったところにある石の馬頭観音、なんだか昔から今までずっと私を見ていたような気がする。なんとなく、いつも心の内を語りにあそこに行っているもの。」「母さんは、手を合わせたりしていたの?俺なんか疲れたときの腰掛けにしてた。」いつになく打ち解けて一平は機嫌良く話した。修一郎は黙ったまま無表情に食べ物を前にして、ほとんど手をつけない。そして堰を切ったように「食事は、だめだ。食べなければいけないというこの状況は、ますます僕を食べられなくしてしまうんだ。僕はもっと自由にしていれば、少しずつ食べることができるように思う。戸棚とか引き出しとか、どこかに食べ物がいつもあって、僕がほしいときにいつでも手に取れるようにしておいてくれればいいのに」と言うと、席を立ち土間で長靴をはきだした。「どこへ行くの?」というマサ子の問いに、「ちょっと散歩してくる」と言い残して修一郎は戸を閉めて出て行った。
 修一郎は、言ってしまって何となく恥ずかしかった。自分の秘密をついポロッと口にしてしまったようなばつの悪さを感じていた。食べ物は、いつもそうやって食べてきた。小さい頃から何となくそうしていた。一人でいることが緊張しないで、何となく安心していられる、その上で何でもできるんだ、食べることも、笑うことも。散歩するのは、部落跡っていっていたっけ。ほかに行くところを知らない修一郎は、満月の意外な明るさに意を強くして夜の森へ歩み出した。

 昼間の光で見た道や木々の太く黒い幹は、すっかり陰に隠れ、昼間には、ひとかたまりでその他大勢だった草の葉の一枚一枚が、月に照らされその葉脈の美しさを見せている。月は、森の奥深くにまで分け入って今が盛りと可憐に咲いている小さな野の花をギラギラと見つけ出す。「僕は、今、月に照らされているに違いない。昼間と違ってこんなに足取りが軽い。」木々にぶつからないように注意しながら進むとあの砂利道に出た。石でできた分校の門が、白く輝いて真新しい。修一郎の歩みにあわせて、闇の中ではゴソゴソ、カサコソ密やかな生き物の音が波のように伝わっていく。「同じ場所なのに、まるで別世界だ。」修一郎は、ドキドキと高揚しながら鳥居をくぐり馬頭観音の前にきた。風雪にさらされた石が白く浮き上がる。昼間は、くすんだ、ただの石の塊のように見えたのに、こんなに神々しい姿が隠されていたことに修一郎は驚いた。「手を合わせるしかない」とやったことがなかったけれど、両手を合わせて目を閉じて頭を垂れた。すると自然にばあちゃんやママに話かけていた。「現状報告するね。僕は、ここで元気だよ、安心してください。きっと食べられるようになるから、見守っていてね。お願いします。」修一郎は、あわせた手をそのままに頭を上げ、目を開けた。すると観音像のずっと後ろに暗い人影があった。こっちに来る。いつからいたのか全く気がつかなかった。修一郎は、走って逃げようか、それとも「今晩は」、と普通に挨拶した方がいいのか、分からずに、ただうろうろしていた。
 草を分けて地面を踏む音が大きくなって、もう少しのところで月の光が届くところにきて、人影が「新顔だな」とかすれた声で言った。あと一歩こちらに歩めば月の光の下に入るのに、暗さの中にとどまっている。自分は身を暗闇に隠して、月に照らされた修一郎を観察しているように思われた。修一郎は、身を固くしてその場に釘付けになった。するとその男は語り始めた。「やめた方がいいよ。去年、一人、その三、四年前に一人、ここを死に場所にした奴がいた。俺も、はじめはそのつもりでここへ来た。けど、やっぱり死にたかないんだ。そうこうしているうちに、空き家の中に、まだ十分住める家があることが分かって、そこを住処に、今は、こうやって生きている。明日の事は分からないが、俺にできることは、一日でも長く生き続けることぐらいしかない、と思い定めた。それから分かったんだけど、ここにしょっちゅう志願者がやってくるんだよ。常連もいる。おまえさん、まだずいぶん若いように見える。やめとけ。生きていれば何とかなるもんだ。本当にそうだよ、・・・ところで何か食べ物もってないかな、俺腹が減って、あ、いや実は金を持ってるなら、少しでいいんだけど、そいつもほしいんだけど。」そう言うなり男は、いきなり光の中に躍り出てきた。黒光りする卵形の顔が、銀色の髪と髭に縁取られて、子供の背丈ほどのところで笑っている。修一郎は、一目散に走った。何度も躓きながらも、家に向かって走った、つもりだった。ただ実際には早歩きくらいにしか体を前に進めることができなかった。体に力がなかった。骨ががくがくと音をたててしきりに悲鳴を上げている。「長い間、まともに食事をとることができず、すっかり体力もなくなっている。男が追いかけてくるなら、すぐに捕まってしまうだろうけど、あんなこびとのような年寄りなら、捕まってもふりほどけるはずだ。いや、あの黒光りする顔は、案外力持ちかもしれない。」修一郎は頭の中で一刻も早くこの廃部落の闇から抜けることばかり思っていた。昼の散歩コースは、とんでもない者たちの暗躍する夜の修羅場と化していた。

 絡みつこうとする暗闇を、振り切ってようやく家にたどり着いた。マサ子と一平は、修一郎のための食べ物をどこに置いておくか、で火花を散らせていた。テーブルの上には、おにぎりが三つ、おかずが二品ほど置いてある。「こんな食べ物を、戸棚や引き出しに置いておくことはできない。虫やネズミが来るし、カビが生えたり、腐ったり、とにかくろくな事がない。食べ物に関しては、作って食べて、残れば冷蔵庫に入れる、というのがきまりじゃないか。食べ物をあちこちに出しておくなんて事、考えられない。」「でも、冷蔵庫じゃ、駄目みたいだから、とにかく引き出しとか、戸棚に入っていれば、食べる気になるって言うのだから、そのようにしてやることがいいのじゃないの?私だって、生まれてこの方、食べ物を引き出しに入れることなんかしたことはないから、抵抗はあるんだけど。虫やネズミがきてないか、腐ってないか、しょっちゅう確かめるしかないよ。それはきちんと私がやるよ。」マサ子は、言いながらおにぎり一つを引き出しに入れた。一平は、押し切られた格好で、あきらめかけて、玄関に座り込んでいる修一郎に目をやった。帰ってきたのは知っていたが、改めて見てみるとひどく疲れているようで、ぐたっとしている。「修一郎、どうした?大丈夫か?」一平は、駆け寄ると、修一郎は「水、水をちょうだい」と、やっと言うとその場に崩れてしまった。マサ子は、大急ぎでコップに水を入れ持ってくると、一平と二人して修一郎に飲ませた。だが少し飲んだだけで、修一郎は、むせてはき出してしまった。「全く、どうしようもないね。食べないから。ちょっと散歩をしたくらいで、この有様だ。とにかく部屋に入れよう。母さん、靴を脱がして、俺がソファーに運ぶから」一平が修一郎の両脇を抱えて、言った。

 修一郎は、しばらく横になって落ち着きを取り戻して言った。「あのね、鳥居のところで、出会ったんだ。真っ黒い顔で小さな人が、話しかけてきた。すごく気味悪かった。廃屋に住んでるって言っていた。あそこに人がいるって知っていた?」マサ子は、それに答えて「廃部落届けが出されてからは、住人は一人もいないはずだよ。私は、会ったことないけど、変だねえ、それでどんな人だった?」と何となく腑に落ちなさそうに言うと、すかさず一平が「いや、あり得るな。こっそり忍び込んで空き家を占拠しているのかもしれない。そう言えば、この山向こうにある別荘地では、よく物が盗まれるってきいたことがある。家庭菜園をしていても週末まで留守をしていると、次に来た時には、作物がすっかりなくなっていることもよくあると。家の中の物もよく盗まれるらしい。あの部落跡に潜んでいて別荘地まで盗みを働きに行っているのかもしれない。今まで、どこか他所のまちから盗人が来て、荒らしていくんだって、もっぱらの噂だったけど、違うな。あの部落跡にいれば、見つかることはないだろう。そうだ、きっとそうだ」と自信ありげに言った。修一郎は、話が急にのっぴきならない方へ行き、現実味を帯びてくるにつれて、不安になってきた。あれ程背が低いのに、顔がいやに大きい。真っ黒な顔のまわりに、まるで縁取りをするように銀色の繊毛のような物が生えている。あれは、本当に人だったのか?それともあまりの怖さに自分の心が幻影を作り出したのか?それとも、馬頭観音の背後から幽霊か何かがあの世から出て来たのかもしれない。修一郎は、確かに人がいたのか、そしてその人と話をしたのかどうかさえ、あやふやになって、「いや、よく見えなかったから、どんな様子かあまり分からなかったんだけど」とマサ子の問いに答えにならない答えをした。そして、話がこれ以上発展しないでほしかったので「僕は、お化けを見たのかもしれない」と茶化した。そして話を変えるべく「あのう、引き出しや戸棚に入れておくのは、スナックとか袋入りのお菓子だよ。ご飯やおかずは、僕も入れたことがない。ここでは、そんなお菓子はないから、いいよ。僕は、食事の時にちゃんとご飯を食べるよ。そこにあるおむすびもらってもいい?」と言って少しほほえんだ。
 修一郎が、おむすびを食べる間、一平はいつまでも不審な人物にこだわっていたが、マサ子が「今度、みんな総出で探索してもらうことにすればいい。やっぱり廃屋をそのままに残しておくのは何かと不用心だわ」と言うと、それでおさまっていった。
 修一郎は、寝床に入って、思うのだった。あの観音像のところで出会った人は、確かにいた。黒い顔をはっきりと覚えている。それが恐ろしかった事も事実なのだ。だけど、人が何か言うと、とたんに自信がなくなり話を引っ込めてしまう。何事も確信がなくなり、いい加減に返事をしてしまう癖がある。いつも、人との会話が重苦しく、できれば避けたいと思うのだ。自分の気持ちなんて、人に分かるはずもない、と決めつけているような所がある。だから、人と自分の思いの間にある違いに、耐えられなくなってさっきのように事実と違っていても、適当な話を作って終わらせてしまうのだ。「お化けなんかじゃない。本当にいたんだ。」と布団の中でつぶやいてみた。すると、その言葉が自分に跳ね返ってきた。誰も嘘だと言わなかったのに、自分から嘘っぽくしてしまったのだ。そうだ、おばあちゃんもおじさんも、僕が人に出会った事を話したとき、きちんと聞いてくれた。僕は、話していいんだ。そして修一郎は、おむすびを食べることができたのが、嬉しかった。その晩はいつになく眠れそうな気がした。

 一平は、修一郎を果樹園に連れ出し下草刈りや消毒、摘果、など何でも手伝わせた。山の斜面を這いつくばっての作業に、はじめはすぐに音を上げ、休憩ばかりしていた修一郎も、食が進み始めると、早朝から昼まで連続して作業ができるようになっていた。マサ子も一平も、修一郎が食べても食べなくても、一喜一憂するのはやめて、早寝早起きの自分たちの生活になじませていった。低温が続き、その後の度重なる台風で、ほとんど寝る間もないくらい動き回っていたので、気にする余裕がなかった事も幸いしたのかもしれない。
 夏が終わり、収穫を迎える頃、今までになく収量が少ないことがはっきりしてきた。これでは、生活に必要な最低限の現金も得られそうになかった。山の斜面で小規模に果樹を育てるのは、労多くして報われることの少ない、半ば苦行のようなもの。一平は、今までになく沈んでいた。退職金をもらったとはいえ、働かなくては食いつぶすだけだ。あのとき母の元に戻ることができたことで、救われたのだ。母とともに、母のために生きることで心の底から元気がわいてきた。自分一人では、どうあがいても気力のかけらもでなかったのに。素人なりにここまでやってこられたのは、母の存在があったからだ。けれど、現実の厳しさに徐々に追いつめられ、貯金も底をつき、ここでも退場を命じられたように感じてしまう。源一郎との力の差だけではない。昔は部落もあって町の人口も多く、流通も悪かったので地物の新鮮な果物は、重宝がられたものだ。規格もなにもうるさくなかった。時代が変わって、山源果樹園は商売としては成り立たなくなってしまったのだ。一平の心は過ぎ去ってやり直すことができない過去と、老いた母と修一郎と自分の見通せない未来とを、絶えず行ったり来たりする。一平は、頭を抱えて物思いにふけることが多くなった。
 マサ子も、修一郎もその状況に気づいていたが、具体的にいい案が思い浮かぶわけでもなく、ただ不安を共有するだけで精一杯だった。とは言っても収穫と出荷で忙しく、一段落してから遅い朝食をとっていた。みんな黙り込んで事務的に飯をかき込んでいたとき、マサ子が思いついたように言った。「修一郎は元気になったよ、それにたくましくなった。これは掛け値無しに良いことだわ。」 まるで場違いな、何かの宣言のようで、修一郎も一平も、きょとんとして一瞬顔を見合わせた。マサ子の言葉は、空中で放たれそのままどこかに飛んで行ってしまったように見えた。修一郎は、その後すぐ「ごちそうさま」と箸を置き、一平はそれからも黙々と食べ続けていたが、しだいに言われてみるとそうだな、と思いだした。修一郎の状態が良くなった。はじめの頃よりずっと良くなっている。修一郎は、ここに来てよかったのだ。それだけではない、修一郎が来る前の母と二人の生活は、互いに肩肘張って昔の思いにとらわれていた。けれども、修一郎が加わったことで、母と気楽に思っていることを話せるようになったと思う。これはほんの少しの変化だけど、大事なこと。母に言われなければ、どうということのない些細な事と、見過ごしていた。生活のことばかりに目を奪われて、良い事が見えなくなっていた。一平は、箸を置いて、窓から空を見上げた。青く澄んだ空に白い雲がゆっくり流れていく。青い空も良い事のうち、と心の中でつぶやいた。強がりでもいい、少しでも良い事を見つけて行こう、そうすればそのうち何か出口も見えるかもしれない。昔のことやこれからのことではなく、今は、今できることだけを見てそれを精一杯やるのが、良い事なのだ。一平は、空を見ながら体の中に力がわいてくるのを感じていた。

 そろそろ、もうひとがんばりするか、と一平が出て行こうとしたその時、家の前で車が止まる音がした。修一郎が窓から覗いてみると、パトカーともう一台車が止まっている。顔に覚えのある駐在と、その他に男が二、三人家に向かってきた。一平が玄関で話を聞くと、どうやらあの部落跡で、逮捕劇があったらしい。一平は、修一郎から不審な人物に出会った話を聞いた時に感じた予感が的中した、と思った。あれから、たとえ昼間であっても、家族の誰もあそこに散歩に行くことはなかった。忙しかったということもあったけど、やはり修一郎の話を信じたからだ。でも駐在所に不審者情報を知らせるということまではせず、ただ、近寄らなかった。「それで、頻繁に起きていた別荘荒らしの犯人ですか?」と一平が聞くと、駐在がそれには答えず、刑事の一人が「どうしてそう思うのですか?」と逆に質問した。一平は、修一郎が部落跡で男に出会った事を話した。そして話ながら、自分でもどうして窃盗犯だと思ったのか、不思議な気がした。夜に知らない男に出会ったという修一郎の話を聞いたとき、すぐにぴんときたのだが、それを人に説明するのは難しかった。一平の話は、しどろもどろになって行き、やがて黙った。「山喜修次のことを知っていたんじゃないだろうね?」後ろに立っていた刑事が言った。マサ子も修一郎ももちろん一平も、修次の話が出てくるとは思いもしないことだった。「修次がどうかしたの?」とマサ子が聞くと、駐在が「お宅の修次さんが、逮捕された窃盗集団の中にいたんです。それでひょっとしてお宅がかくまっていたんじゃないかという人もいるので、今日は、ここにお邪魔して尋ねているわけです」と口調は柔らかいが、はじめから疑っていることをあらわにして言った。
 「修次がいたの?この近くに?いつ頃からこっちに来ていたのかしら。あの子は進学のためにここを出てから、一度も帰ってきていないの。こんなに近くにいたなんて、いったいどうしてなのか、まったく分からない。逮捕されたって、何かの間違いじゃないですか?本当に修次なのですか?」マサ子が、駐在に激しく詰め寄ると、駐在は、「どうも本人らしいよ。山喜さんの事だから、知っていてかくまったとかいうことはないと思うんだが、まあ、詳しいことはこれから追々分かると思うけど」と軽くマサ子をいなして、今度は一平に向かって言った。「この前、ええーっつと、いつだったか、お孫さんだと言っていたそこにいる人を、ここに私が連れてきた事があったよね。修一郎さんと言う名前だったかね」と言って、部屋の奥に立っている修一郎の方をじろっと見た。修一郎は、離れて知らん顔をしているより、みんなの話に加わる事を求められていると感じて、渋々一平の後ろにきて立った。一平は、あのときの事を思い出した。初めて見る修一郎を、まるで知っているかのように振る舞ったことを。修次の息子、修一郎は、そういえば、どうしてこの家にきたのだろう?一平の心に、ずっとくすぶっていた疑念が、改めてまたわいてきた。ひょっとして修次と修一郎は、会ったこともない関係ではなく、それどころか二人が共同で何かの企みをしていたのではないか。一平は、自分の想念に混乱した。その時「僕は、父に会ったことがありません。ここに来たのは、母が父の住所を教えてくれて、家を訪ねると、父の奥さんが出て来て、ここの住所を僕にわたしてくれたから。父は今どこにいるのですか?僕は会ってみたい。それに、おばあさんと一平おじさんは、いい人です。悪いことをする人を、たとえ家族でもかくまったりはしません」と修一郎は静かに言った。修一郎のきっぱりとした口調に促されるように、一平は気を取り直して、修一郎がここに来た経緯を説明した。そして修次から来た手紙を見せ、修次のことは他に何も知らないと言った。マサ子も涙声になりながら、修次にずっと会っていないと付け加えた。駐在たちは、しばらく言葉を交わして、また来ると言って去っていった。
 波が引いて静まりかえった室内に、マサ子のすすり泣く声が残った。それぞれの胸に修次という重い石を抱いて、深い海底に沈んでいるようだった。
 一平とマサ子には、修次が罪を犯した事に、失望と悔恨と悲しみがあった。そしてもう一つ共にした感情があった。それは、刑事たちに見せた修一郎の姿勢と自分たちを語る優しい言葉だった。驚きであると同時に、嬉しかった。普段一度も自分たちに見せることがなかったけど、修一郎の気持ちを知ることができたのは、たとえあのような形であったにせよ、有り難かった。一平は、今度こそ、心の奥にくすぶっている修一郎に対する根強い不信感を恥じた。そして自分の生来の優柔不断さも痛感させられた。マサ子は、泣くのをやめて修一郎に言った。「修次の家に行ったんだね。奥さんがいてちゃんと暮らしていたのだろうかね?いつどのようにしてそんな悪いことをするようになったんだろう?生前お母さんから何か聞かなかったかい?」「家は、僕たちのとは違って立派な一軒家で裕福そうに見えた。でも奥さんは、僕のことをろくに見もしないで紙切れを渡して追い出した。それからしばらくここに来るかどうか迷っていたけど、他に方法が見つからずに来てしまった。僕は、最初どうせ追い払われるだろうと思っていた。僕なんかいてもいなくても、誰も気にもしない、まして僕みたいな余計者を背負い込む奴なんかいない、とずっと思い込んでいた。でもここは違っていた。おばあちゃんは無条件で僕を受け入れてくれたし、おじさんも親身になって叱ってくれた。そんなことは、僕のちっぽけな予想を遙かに超えている、それこそ信じられない事なんだ。はじめは何が何だかよく分からず、不安だったけど今ようやく少し分かってきた。僕は、ここにいて良いんだと。」修一郎は、立ち上がって、お湯を沸かしながら「僕、おとうさんに会えるよね」と嬉しそうに言った。
 「いつかきっと、修次の方から連絡があるよ。実家の近くに来ていたのにこの家に顔を見せなかった。帰れるはずもない、ということだったのかもしれないけど、私は、どんな状況であってもここに来て話をしてほしかった。おまえをここに来させたのは、きっと陰からでもおまえを見ることができると思ったからかもしれないしね。修次は、今でも、自分が育ったこの山源果樹園に信頼を置いてくれているような気がする。ここなら息子を預けられる」と、マサ子が誇らしげに言うと、「かもしれないね、でも僕があの部落跡であった黒い顔の人は、お父さんじゃない。僕はどちらかというと色白で背も高い方だよ。あんなのはお父さんのはずがないよ」と修一郎は大げさにむきになってみせた。一平は、二人とも修次が犯罪を犯した事に、あまりこだわっていないように見え、なんだか少し安堵するのだった。 そしてお茶を飲むと、日暮れまでもう一仕事しに出て行った。