沼のほとり

 山の中腹に小さな沼がある。沼は、国道からは見えず、山の奥に隠れていたので誰一人訪れる人はなかった。沼の岸辺に一人の男が住んでいた。男は毎日忙しく働いていた。仕事は仕分け。いつも休む間もない。

 沼は小さく、中ほどに浮島があった。島はゆっくりと、いつの間にかその場所を変える。男がある朝目覚めてふと窓の外を見ると、島が接岸していた。こんなことは今まで一度もなく、男は驚き、あわててパジャマのまま外に飛び出した。はだしのままぬれた草をかき分け、見に行くと、手が届くほど近くに島があった。
 森が庭先に現れたようで、すっかり視界をさえぎられている。男が、森の中を見ようと身を乗り出した時、何かが動いた。もっとよく見ようと、岸と島の境ぎりぎりまで行くと、水がチャプチャプ言いながら、境界線を広げている。島は再び動き出している。男はあわてて、「おーい、こんにちはー」と声を張り上げた。すると驚いたことに、かすかに「こんにちは」と声が返ってきた。男がさらに声を張り上げ「お名前を教えてください」というと、声は「トリステ」といったようだった。浮島に誰か住んでいるといううわさを聞いたことがあったが、実際見た人はいない。浮島で人間が生活し続けるのは、どう考えても不可能だろう。男はそう思っていた。「トリステか・・・。いや、これはひょっとして」男は、離れていく島のなかに何か少しでも手がかりが見えないか、と目を凝らした。しかしはやくも、島は、青いシルエットになって朝霧の向こうに隠れてしまった。
 男はしばらく沼の波紋を眺めていたが、島は霧の向こうに行ったきり、姿を見せない。男は、予期せぬ隣人の出現に、当惑とうれしさを感じながらも、そそくさとその場を離れ、家の中に戻った。足もパジャマのズボンも朝露でびっしょりぬれていた。

 軽い食事をして身支度を整えると、仕事である。家をでて、芝桜とクローバーとスギナが生えている一帯を目指した。今は、芝桜の花の季節だから、芝桜とそれ以外を区別して、芝桜を残して他の植物は抜く。芝桜かそれ以外全部か、を選別するのだ。芝桜はできるだけ一本も抜かないで、そのほかの草はできるだけすべて、一本残らず取り去る。皆地面を這う草で、複雑に絡み合っている。その絡まり具合を調べつつ、絡まりをほどいていって最終的に抜く。細かい気の抜けない作業だ。男の家の庭はこの十年の間に広大な芝桜の花畑を持つようになっていて、朝から夕日が沈むまでほとんど休みなく芝桜に没頭する。芝桜に取り掛かるのは、まだ花をつける前。そして芝桜をすべてきれいにし終える頃には、花の時期がすっかり終わっている。
 その作業は、文字通り寝食を忘れるほど、男を没頭させた。指先に全神経を集中させて草花の比較をする。共通の性質ではなく、違いを見つけながら物と物の間の境界をひいて行く。目と指と直感を研ぎ澄まして、導かれるように分け進む。後にはきっぱりとした、何をもってしても否定しえない境界線が引かれて行く。それは、草を刈ることではない。分けることなので、どれだけ作業が続いても、草はそれなりに生い茂ったままである。

 鳥が種を運び、風が花粉を飛ばし、太陽が恵みと微笑をこの庭に向けたとき、命が芽を吹く。それは何の恣意もない。命の饗宴のこの庭に男は来る日も来る日も身を投じるのだった。
 物心がついたころから、違いを探していた。おはじきや、ボタンの箱をひっくり返して、何かの基準に、それとそれ以外を分けた。いつも一人でそんなことをする子を、母は漠然と案じて、少年野球やボーイスカウトなんかのグループに入れた。集団がいやではないから、いつも母の勧めにしたがった。小学校の高学年になると、母は職業について話すようになった。教師をしている母には、一人息子に対する期待があった。それは「自分を生かす職業についてほしい」ということ、だったように思う。学校から帰ると、庭に出て何時間も草むしりをしている。そしてその割には草がきれいさっぱりなくなることもない。長時間、庭で何かをしているにもかかわらず、成果が見当たらないことに母は不安を感じたのだろう、中学に入るころ、さらに塾と、絵画教室に通わせた。将来に対して可能性を広げておくためという説明だった。たぶん自分の子供を庭から遠ざけておきたかったのかもしれない。男は母の考えに従い、母の希望を受け入れ、一生懸命勉強も、絵や音楽も、スポーツもこなした。男は、順調に進学し、母のいないときにだけ庭にいるようになった。大学を出て会計士として働き始めた。「仕分け」へ傾斜する自分の性質は、職業において生かされていくだろうと思ったからだ。

 職業は、成果を問われることと無関係でありえない。草を分けることは、分けることの過程にこそ妙がある。成果はなくはないが、本人にしか見えない。職業としての仕事は、少なくとも他者に成果が見えなければ成り立たない。他者に成果を知らしめることは、できなくはないが、あまりにも自分の時間とエネルギーを奪われた。男は、日々疲労と息苦しさを抱えるようになった。世間にある鋳型に自分を合わせることは、想像以上につらかった。そしてそれがこの先永遠に続くと思うと、すぐにでも状況を変えたいと思い始めた。とはいっても成果を問われない仕事があるとも思えない。結局、体を壊してもうやっていけなくなるまで十年弱頑張った。ついに代替の状況のないまま、しがみついていた手すりから両手を離した。貯金は、あった。しばらく暮らせるだけはあった。そして縁もゆかりもない村に来て、沼のほとりにある一軒の古家を格安で手にいれた。

 生活は一変した。 成果を他者に示すことは必要なくなったが、成果がなければ自分が困ることになった。まず、昼となく夜となく、ヤブ蚊が塊となって、男を攻撃してきた。家の隙間や網戸を補修しなければじっと座ってもいられない。全身蚊に刺され真っ赤に腫れながら、対ヤブ蚊戦を繰り広げ、数日後ようやく家の中にいる限り蚊に悩まされることがなくなった。しばらくすると、今度はネズミや蛇が家に侵入してくることに気がつき、もう少し大きな生き物対策が必要になった。床下や天井の穴をふさぐため見回っていると、家中にカビ、錆びがはびこり、キノコのようなものまで生えているのを発見した。沼のすぐそばという立地は、湿気に事欠かなかった。家は腐りかけている。男は自分が挑んでいる戦いに勝利する以外生きるすべがないことを悟った。完全なる勝利などあるはずも無いが、自然が男を飲み込もうとするのを、少しでも遅らせようと、必死でもがいているようだった。しかも軍資金は思いのほか早いペースで無くなっていくことに気づいた。

 すべてが力仕事で、やってもやっても終わらない。毎日くたくたに疲れた。家の補修の合間に、自分の食料を確保しようと、畑を作った。春から夏にかけ種をまけば、秋には芋や豆ができる、というくらいしか知らなかったけれど、食べ物を買うことはできるだけ控えないといけない。畑を作るのは、しかし難事業だった。鍬で、硬い岩だらけの土地を耕す。少しずつ岩を取り除き、小さな木を倒し、そして根が張っているものは取り除くのをあきらめ、そのままにして、よけて通る。大木は伐れないからそのままにする。アリの巣も壊さない。アジサイや、シダの大きな美しい株は、抜かずそのまま残して避けて耕す。そうして畑の形はいびつになり、どこからどこまでが畑なのか、畑とその他の荒地の区別ができるのは男だけだった。それでも畑は少しずつ広がっていった。

 家の周囲は、畑と花壇が入り組んで、畑の中に花の群生があるのか、無造作に花が咲いている野原なのか、あるいはところどころに木々が点在する草地なのか、一見して判別できない。人が見たら、畑にも花園にも草原にも、あるいは荒地にも見えるだろう。だが男は、勤勉に彼だけの境界をひき続けた。畑と花壇、草地と畑、木の領分はどこまでなのか。男は毎日細かい作業に自分自身を投入した。境界線はくねくねと曲がりながら複雑にひかれて行った。そして男の目は、整然とすべてが識別され、調和のとれた美しい「庭」を見ていた。
 「庭」は、季節とともに動いた。イチゴ、ミョウガ、菊、ミント、など集団で移動する。クローバー、スギナ、熊笹、ドクダミなどはもっと力強い覇権争いを繰り広げる。境界線は、そのつど修正を余儀なくされた。引いても引いても、かき消される境界線。芝桜の覇権を許すのか、今回はクローバーに加担するのか、自分の指先は常に迷った。「あれか」「これか」の迷いの延長線上に、彼の境界線がひかれた。

 男が沼にやってきてかれこれ十年くらいたった。時々近隣の農家で手伝いをして、食料や、たまに現金をもらう他は、村の人との付き合いも、決まった収入もない。家は、朽ちるに任せているというわけではないが、男の抵抗ぐらいでは間に合わず、購入時ですら荒れていたが、その面影さえもすっかり消えた。外壁はつぎはぎの板、屋根はさび付いて穴が開いたトタンをさまざまな板切れで何重にも覆ってある。壁も屋根も厚さがところどころで異なり,デコボコ。しかし男は、決して家に無頓着なのではない。彼にとって、補修は、元の状態を維持するというのではなく、穴や崩れた箇所を塞ぐことを意味していた。動物があけた穴、錆びて開いた穴、腐ってできた穴、大小の様々な穴は、的確で、それに応じた大きさの板でその部分だけきれいに覆われた。余分に大きく覆うことはない。したがって家が持っている直線という直線がガタガタと曲線のようになっている。屋根の一部などは煙突と同じ高さになっている。家全体としては大きな板切れの山のようだが、打ち付けた板の境界は鮮明である。
 家も庭も、男が精魂こめて打ち込めば打ち込むほどその様相は混沌化して行った。そして不思議なことに整然とした秩序が、細部にみなぎっていた。

 浮島が突然家の近くに現れたのは、そんな頃だった。
浮島は、時折目にしていたが、特に気に留めることもなく、周辺の景色の一部だった。それがあの朝を境に状況が一変した。島の中でほんのわずか、何かが動くのを見てから、男の心も動いた。隣人がいるならもう一度、挨拶を交わしたい。会ってみたい。何とかして、島に行きたい。男は、「仕事」をしている間にも、浮島のことを思い、ぼんやりすることが多くなった。そろそろ夏も終わり、時に秋風が吹く。草木は、次第に勢いを失い、選別も緩慢になっていたことも手伝って、男は沼の岸に座って浮島を探すのだった。浮島は、いつも見えるわけではない。霧や雨などによってはまったく消えてしまう。また距離が遠くても、沼の岸の木々に隠れても、見えない。浮島が見えていれば、それだけで男はうれしかった。あの島に行きたいが、男は、泳げない。ボートもない。もう何年も前から金もない。そこで男は森に行ってできるだけ大きな風倒木を見つけ、それで舟を作ることにした。持っている道具の主なものは、かなづち、のこぎり、のみ、かんな。舟があれば島にいけるのだ。舟についての知識もなく、模型すら作ったことはないが、男はいつの間にか作業に取り掛かっていた。
 倒木の表面にコケ類とキノコのようなものが息づいていた。大小の虫もせわしなく倒木の上を行き交っている。男はまず長過ぎる木をのこぎりで切ることからはじめた。ここでも境界は大事で、できるだけコケの繁茂が途切れ、キノコが群生していないところを選んだ。舟の長さはこうして決まった。太い木は切るのに一月ほどかかり、雪がちらつく日が多くなったために、作業は来年の春に持ち越された。

 例年なら冬の間はすることもなく、薪ストーブの薪の補給と自分のための食事の用意だけで日が暮れていたが、今年は違っていた。男は、明るく晴れた日には、沼の水で洗濯をした。そんなときには浮島もきれいに見えて男の心は躍った。それに木の枝を削って、舟につけるオールつくりに精を出した。さらに家の入り口から沼の端まで雪かきを欠かさなかった。この細い雪道は男と浮島のトリステを結ぶ絆のようだった。
 人との絆はない、はずだったが、母のことは、断ち切れないでいた。この家にやって来るとき、母に知らせなかった。母の期待にこたえられず去っていくことは、理解してもらえないと思った。自分に対する不甲斐なさと情けなさそして自分に向けられた怒りで心は爆発しそうだった。母は自分に何を期待したのか? 何も。母が期待したのはただ一つ息子に幸福に生きてほしいということ。人の社会で居場所を見つけて自分なりに生きることだった。そのためになると思えば、物惜しみせずなんでもしてくれた。男は、母の献身に報いることが出来ず、胸が痛んだ。心の悲しみが押し寄せるとき、「仕事」の選別にもいっそう力が入った。指先は対象と一つになり忘我の歌を歌うのだった。

 冬も過ぎ、また春が来て畑や庭つくり、家の補修をしながら舟作りに励み、それから三年が過ぎたある秋の日、とうとう舟が完成した。男はそのすばらしさに満足だった。左右アンバランスに削られた丸太の表面はびっしりとコケで覆われている。丸太の上部に大きなくり抜きがあり、そこに水が溜り、ボウフラがうじゃうじゃわいている。舟は、完成しても水辺に運べず、大きな緑色のオブジェになった。男はそれでも製作過程に自分のすべてを刻んだので文句はなかった。しばらく眺めていたが、ゆっくりと沼に向かい、霧にかすむ島に向かって舟ができたことを告げた。

 またいつものように冬が来た。男は、いつものように冬の仕事をしていたが、この冬は例年になく大雪だった。沼までの雪道は、だんだん細くなり、作っても作っても雪が埋めていく。この境界はどうしても消せない。男は、道が雪に埋まっていくのを黙ってみているわけには行かず、道に立ってスコップを動かし続けた。
 汗をぬぐいもせず日夜雪かきを続け、体中が熱くなり、とうとう家の中にふらふらと入ったきり、その場に倒れこんでしまった。そのまま寝込み、寒さで目が覚めたとき、薪が途絶え、ストーブは消えていた。もうろうとした意識で、それでも布団にだけは何とかもぐりこむと、再び昏々と眠りに落ちていった。猛烈な熱さが襲ってくるかと思えば、次には氷の海に浸かっているような寒さに身もだえした。それでも男は眠り続け、高熱の苦しみの中で一つの夢を見た。悪夢なら数え切れないほど見ていたが、これは違っていた。

 小学校の教室。自分は黒板に向かってたった一人だけ座っている。教壇には女性の先生らしき人のぼんやりとした姿が見える。何か厳かな雰囲気がして、セレモニーのようである。名前を呼ばれ、前に進みでると、先生が何か言って表彰状のような紙を自分に手渡した。見ると、大きな「よくできました」の文字の朱印が捺されている。先生を見ると顔はよく分からず、姿すらかすんでいるが、胸の名札は「取捨」とはっきりみえた。
 「認められた」とつぶやいて、口元を少しゆがめて微笑んだ。この沼の家に来てから病気になるのはこれが初めてだ。会計士をやっていたときは、眠るためにも、食事をするためにも、薬がいるような半病人で、毎日をやっと生きていた。それがここでは薬も飲まず病院にも行かず、元気だった。厳しい生活環境に、頬はこけやせ細っているが、気がつけばすっかり丈夫になっていた。何かに後押しされている感じがしていた。自分に命を分けてくれたものに見放されてないと思うと、心底安堵できた。男はさらに眠り続けた。

 空腹で目が覚めた。次に寒さがやってきた。ストーブに薪を入れ火をおこして湯を沸かす、それが必要なことだとわかっているが、できるだろうか。のろのろとおぼつかない足取りで布団から出てゆっくりと立ち上がる。だがすぐに倒れてしまう。もう一度布団にもぐる。それを繰り返して、立てないと分かると、今度は這いながら薪を持ってきて火をつけようとするが、それも失敗を重ね、ようやくストーブがついた。火のそばで再び眠ってしまい、耐え難い空腹で目が覚めると、水のタンクのところまで這って行き水を少し口にした。
 ストーブの赤い火は柔らかな暖かさで男を包み、水の冷たさは体中に精気を運んだ。タンクの横に崩れて座ったまま、ぼんやりと浮島のことを思った。

 何の役にも立たず、自分を社会的に抹殺してきた「仕分け」に対する強固な傾斜。その性質は、自分が生まれながらに持っていたものだ。それを何かの一般的な職業に生かすことが出来るなら、自分も人並みに社会で暮らしていけただろうが、その術を持たなかった。検査、検品、あるいは外科的手術など、一部にその適性を必要とする職業もあるが、その部分を発揮するには、自分には何の興味もない学習と訓練を要した。狭い領域への強すぎる執着。自分の性質は、それでもこの世を構成する一つの要素に違いなかった。浮島の「トリステ」は「取り捨て」で、自分をこの世界に生み出したもの、人間という形で、この要素の純粋な切片として、自分を放出した大元なのかもしれない。純粋な切片では人の世で生きることは難しい。沼にやって来たのは、当然の成り行きだったのだ。
男は、ゆっくりとなべを取り出し、そこに一掴みの米をいれ水をたっぷり注いだ。立ち上がって、鍋をストーブの上に置き、ついでに薪も足した。ぐつぐつと心地よい音を立てる黒い鍋を見ていると、生きていることがうれしくなった。望まれている限り、頑張ってみよう、と思うのだった。粥を食べると、再び永い眠りに入った。

 眠りから覚めると、部屋の内部に明るい光がさしていた。雪はやんで、晴れている。布団から起き上がると、まだ頭痛がして関節の節々が痛んだが、ずいぶんよくなっていた。浮島は、一度自分の家の裏岸にやって来たのだから、またいつかやって来る。自分から出かけていっても、あのときすばやく去っていったように、離れて行くだけだ。いつか来る再会の時を励みに、自分の「仕事」に邁進しよう、と男は心を決めた。
 厳しかった冬も終わろうとしている。解けた雪が家の天井にしみを作りながら壁を伝ってぽたぽた床に落ちている。雪解けの地面は泥の海と化し水を汲みに行くのも、木切れを拾いに行くのも一苦労だ。家の修理も緊急を要しているが、それより、薪が底をついている。さらに食べ物が残り少なくなってきた。米はなく、雪に埋めた大根、ジャガイモを掘り起こしてみるとだいぶ痛んでいる。干した小魚は、天井から吊るしておいたが、室内の湿気でカビが生え、大半が異臭を放っている。大量に作ったイチゴジャムは、ほとんどがカビで覆われ、緑色に変ってしまっているのもある。春先は地面にまだ何も食べられそうなものが生えてなく、いつも絶望的になる。これが男の冬と春のいつもの境界線。行きつ戻りつの境界を越えれば、正真正銘の春になる。そして誰が見ても春になれば、また春と夏の境界に入っていく。春はなくなるのではなく、まためぐってくる。「この世から消えてなくなるものはなく、なくなったように見えるだけ」と男は思うのだった。