龍の風

 青い海に向かって突き出た岬は、青い空に向かっても、高く突き出ていました。海岸に吹く風はこの崖にぶつかって空高くあがるので、この風に乗って鳥たちは海を渡るのです。夏に生まれたヒヨドリの兄弟が、お父さんとお母さんと一緒にこの岬にやってきました。崖近くの木の上に住みながら海を渡るのにちょうど良い風が吹いてくるのを待っています。

 夏も終わろうとするある日、崖の近くの木々は、どこから集まってきたのかたくさんのヒヨドリでいっぱいでした。朝早く起きたお母さんは、この光景を見てあわてました。いいえさ場はどこもすっかりあらされています。いつもは行かない遠い野原まで飛んで行きましたが、いいえさ場は見当たりません。仕方なく、戻ろうと勢いよく飛び立ち、ゆっくりと巣のある木の方角に向きを変えた瞬間に、まぶしい太陽の光が両目に飛び込んできました。まぶしくて目を開けていられないくらいです。片方だけでも目を閉じようとしたその時、光をさえぎる影が目に入りました。しまった!と思ったが最後、お母さんは、ハヤブサに捕まえられてしまいました。

 お母さんが亡くなったことは、一家に知らされました。みんな恐ろしさと悲しさで体を寄せ合っていました。お父さんは、子供たちに言いました「崖は、ハヤブサが住んでいて危険だ。それにヒヨドリも大勢集まって来てえさがない。次に海から大きな風が吹いてきたら、出発するよ。いよいよ海を渡るんだ」

 崖の下には白い波頭、海から吹く風も冷たさを増しています。ヒヨドリが崖の上空を飛び交い、見る間に、数十羽を越え大きな群れとなって、崖の上へ下へ飛びまわります。群れが移動するたびにヒヨドリは数を増し、巨大な塊になっています。その塊はまるで大きなひとつの生き物のように、がけを縦横無尽に動き回り、せわしなく今か今かと海へ飛び出す瞬間をうかがっています。

 周りにいたヒヨドリが、一羽また一羽とその群れに吸い込まれていく中で、お父さんも飛出し、大きな生き物の尻尾の一部になろうとしたとき、群れがいっせいに方向を変えたので、お父さんは一瞬、その動きに遅れ、一羽だけ離れてしまいました。上空から見ていたハヤブサは、急降下。あっという間に、お父さんを捕まえて飛び去っていきました。

 「あ、お父さんが」でも兄弟は、どうすることもできないのです。そうこうしている内に、大きな群れは海のかなたへ飛んで行きました。

 兄は弟を励ますように、「お母さんもお父さんもハヤブサに食べられたけど、勇敢だった。ぼくたちも助け合って次に大きな風が吹いたら、一緒に海を渡ろう」と言いました。でも弟は怖くてたまりません。

 「ぼくはいやだ。怖いよ。ハヤブサは崖に住んでいて、ヒヨドリが舞い上がるのを待っている。今までぼくはヒヨドリが大勢でかたまって行けば、ハヤブサに食われないと思っていたけど、大勢いるからこそハヤブサに見つかるんじゃないか。ぼくは風が吹いても、みんなのところへは行かない。」

「行かないって、どうするのだ。これから寒くなる一方なのに。海を渡ればもっと暖かい所にいけるのだよ。ここにいたら、地面は雪に覆われ食べるものがなくなる。それに寒さで凍え死ぬかもしれない」

「お父さんは、ハヤブサにおそわれて、ほかのヒヨドリは海を渡ることができた。兄さんはこれをどう思う?」

「みんなが暖かいところに飛んでいくことができて、お父さんは喜んでいると思う」

兄の眼に涙が浮かんでいるのを見て、弟のヒヨドリはもう何も言えませんでした。

 それから何度か大きな風が吹き、何度もヒヨドリの群れが海を渡っていきました。北国の秋は足早にやってきて、山のてっぺんには雪が積もりました。そんなある日、兄弟が近くの池に水を飲みに行くと、もう薄い氷が張っていました。弟のヒヨドリは、水に映った自分の姿が小さくて、弱々しいのに驚き、「兄さん、ぼくはとても海を渡れそうもない。何度風が吹いても、飛び立てない。兄さんは、ぼくなんか置いて早く飛び立って、海を渡って」と兄に向かって大声で叫びました。風が吹いてヒヨドリが群れになって飛び立つたびに、弟は兄が自分のそばにいて飛び立とうとしないのにいらだっていたからです。

 兄は、水の中の弟に語りかけました。

「お前はぼくの大事な弟だ。ぼくはお前とはなれない。飛び立つならお前も一緒だよ」

それから、こう付け加えました。「お前はずいぶんたくましく大きくなった。その翼ならどんな遠い国にだって行けるよ」

「兄さんには見えないの?こんなに小さく弱々しいぼくの姿が。」

「ぼくはお前の姿をじかに見ているんだ。ところどころ氷のはった水に映った、ゆがんだ姿を見ているのじゃない。お前は、水に映さないと自分の姿が見えないから、それを本当の姿だと思うのだ。お前ほど立派でたくましいヒヨドリはいないよ。」

 弟は、兄の言うことが本当ならいいな、と思いました。本当なら、なんだか体の芯から力がみなぎるように感じるのです。そして、何だってできそうな気持ちがするのです、ハヤブサの前に出て行くことも、海を渡ることも。でも信じることができないのです。

 崖にいたヒヨドリは、ほとんど飛び去り、ほかの所から崖にやって来るヒヨドリもいなくなりました。兄弟は、相変わらず崖の木の上で暮らしていました。雨が、みぞれになり、やがて雪になって、二人の上に積もります。兄が励ましてくれる言葉を、弟は信じられないまま、季節が過ぎようとしていました。

 月が明るく二人を照らすある夜、兄が弟に言いました「明日、風が吹く。龍の風だ。海から出て、がけを登り大暴れする。ぼくたちはその龍の風に乗るんだ。」

「何のことを言っているの?兄さんは」

「龍の風なら、ハヤブサは近づけない。ぼくたちは守られているからね。」

「龍は怖くないの」

「いいかい、よく聞くんだ。龍の風は、風で、龍ではない。ぼくたちを助けてくれる風なのだ。明日の朝早く、その風が吹いたとき、一緒にそれに乗ろう」

「ぼくたち二人で海を渡るの」

「そうだよ、もうだれもほかにヒヨドリはいないからね。でも心配は要らない。ぼくがお前と一緒だから」

 兄は、月明かりに照らされた静かな海を眺めて、続けました、「大勢の群れじゃないから、ハヤブサに気づかれにくい。お父さんもお母さんも、渡る前に死んでしまったけど、ぼくたちは海を渡ろう。海の向こうへ行きたいのだ。本当はお前もそうだろう」

 弟は、兄の気持ちが分かっていました。夏から何度も風が吹いて、たくさんのヒヨドリが群れを成して、風に乗って海を渡っていったのに、兄は飛び立とうとしない弟を置き去りにせず、ずっとそばにいてくれたのです。嬉しかった。けれども、そんな思いと裏腹に、弟の口をついて出たのはこんな言葉でした。

「こんなに寒くなってしまって、海を渡るのはもう無理だよ。そんなに行きたければ、兄さん一人で行けばいい」

海を見おろしたまま、兄は、「お前に龍が見えたら、ぼくの後に続くのだ。いいね」と言いました。

 次の朝、日の出前、東の空にぼんやりと赤みがさしたころ、二人は目覚めました。海は暗い波を静かにたたえ、空は一面黒い雲に覆われています。暗い地の底のような世界に、一条の明るい光線が差し込み、日の出が始まります。しかしそれもつかの間、瞬く間に、細かな雪が降ってきて、太陽も海も空も灰色に塗りつぶしていきました。

 弟は、迷っていました。一人ここに残るか、兄とともに海を渡って暖かいところに行くか。厳寒の地で一人で生き延びることは、恐ろしいことでした。でも崖に住むハヤブサの前に飛び出してハヤブサにつかまるかもしれないと思うと、どうしても飛び立てません。すると、その迷いを断ち切るかのように、横にいた兄が決然と飛び立ったのです。海風が吹き上げ、雪が下から上に降っているように見えます。そして風はしだいに勢いを増して、雪はどんどん空高く舞い上がります。兄は、その風に乗って、弟が来るのを辛抱強く待っていました。でも、弟は、飛び立つことができず、兄をじっと見ているだけです。風に翻弄されながら、不安定にやっと体を保っていた兄が、弟の方へ戻ろうと体の向きを変えたとき、今までにない強い風が向かい風となって、兄を飲み込んでしまいました。と、その時、きらきら光る氷のうろこをまとった、龍が、がけを昇ってきたかと思うと、体をくねらせ空に向かって大きく跳びはねました。よく見るとそれは小さな無数の雪のかけらが集まって、一匹の巨大な龍のように動いているのです。弟は、力強く羽ばたき、崖の上に飛出していきました。「見た、ぼくには見えたよ。兄さんを信じることができたよ。ぼくは飛び立つことができた。兄さんと二人なら、どんなに遠くまででも、飛んでいけそうな気がする」弟は、体中に力がみなぎるのを感じながら、兄のほうを見ようとしました。が、兄の姿が見えません。どこにもいません。そして力強い雪風にのって弟は暖かな国に運ばれていきました。「兄さん、ありがとう。ぼくは兄さんが来るのを待っているよ。ぼくがここでしっかり生きて、今度はぼくが、暖かい火の龍となって氷の国にいる兄さんを迎えに行く。きっと」からりと晴れた東の空を仰いで、弟はそっとつぶやきました。