引っ越し

(一)輪一の場合

 諏訪輪一は、気が付くと苦しい眠りから覚めていた。流しの上にある窓からうっすらと夜明けの薄日が差している。
 「まだ早いな」
 昨夜からの胸の重さ、今はそれが腹の不快感となってまともに眠っていないような感じがした。

 大学生の輪一は、阪急十三駅から徒歩十分の「さつき荘」の一室でしきりに煩悶していた。
今日は、恋人の鏡子の引っ越しだ。鏡子は、輪一より一歳年上で、一足早く大学を卒業して谷町にある老舗の紳士服メーカーに就職することになり、それを機に、実家から出て独り立ちするという。
 彼女は、以前から就職したら実家を出たいと言っていたので、輪一は、なんとも思わず、引っ越しのためのアパート探しに付き合った。輪一のいる十三駅から阪急一本で割と近い正雀駅の不動産屋で、国鉄岸辺駅前にあるアパートに決めた。正雀駅と岸辺駅は歩いて行けるほど近く、岸辺駅にしたのは、通勤と二人の今後の付き合いの便宜を考えてのことだった。

 アパートは、最近大きな倉庫の二階を改造して作ったもので、大家の老婦人が住む大きな部屋と賃貸用の板間付き六畳の部屋が五つあり、廊下を隔てて向かい合っていた。鏡子は、大家が迎える最初の借り手であった。玄関は広く、入ると目の前には、広さそのままでいやに長い階段が視界いっぱいに広がる。倉庫の上だからだろうか、普通の二階よりずいぶん高い。
 倉庫の上に住むのは、鏡子としてもあまり乗り気ではないが、割安で、月給が七万円ちょっとでは、致し方なかった。
 巷には、「神田川」や「同棲時代」といったなんとなく自由恋愛をあおるような歌が流れ、輪一と鏡子も気楽な付き合い方に疑問を持っていなかったのだが、大正生まれの鏡子の両親は、違っていた。
 「輪一君、次の日曜日に君のご両親にこちらに来てもらって」
両親は、鏡子が就職を機に独立したいということについては、しぶしぶ承知していたのだが、アパートを借りるのに輪一がかなり加担していることを鏡子から聞いて父が言った。
 輪一なる青年と、このところ付き合っているのは薄々気づいていたが、輪一のことは、何も知らず、自分から打ち解けて話そうとしない輪一を、父は心よく思っていなかった。たまに家に遊びに来ても、軽く会釈するだけで、あいさつもろくにできない。長髪、ジーパンは、当世風としても、目も合わそうとしないことに、自分に対する敬意が少しも感じられず不快だった。
 「輪一君は、帰ってもらいなさい」
 家で、鉢合わせでもしようものなら、不愉快そうに大きな声で聞こえよがしに言うのがこの頃の父の態度であった。その父が、心を決めたのだ。輪一とその両親との間で、鏡子の独立は、輪一との結婚の約束の上で行われるということを共通の認識にすると。

 早速呼ばれて、三重県に住む輪一の両親が鏡子の家にやってきた。高校教員の鏡子の父は、二人が付き合って一年以上であることを両親に説明してから、輪一と鏡子に確認した。
 「輪一君は、鏡子との今後をどう考えているのかね?結婚を視野に交際しようと思っているのかな?」
 輪一は、下を向いて何も答えない。しばらく沈黙が続く中、輪一は無表情のまま固まっている。
 鏡子が、顔を覗き込むと、輪一は顔を上げたが、虚空を見つめたまま黙り続けている。
 鏡子の母が、しびれを切らして「輪一君どうなの?鏡子と結婚する気があるの?」とやさしく助けに入った。母は、この一年の間に輪一に慣れていた。家に来ても、母とも話さず、鏡子とだけ、大きな声でよくしゃべり二人楽しそうにしている。母は、父と違ってどういうわけか輪一には親切であった。
 母に促されて輪一は、喉の奥から絞り出すように小さなかすれた声でようやく、「ええ、は、はい」と言った。
 父は、事務的に手続きを進めるように「鏡子、お前は?」と聞き、鏡子が「うん」と即答すると、次は、輪一の両親に「二人は、今後結婚を前提にお付き合いをするということで、お父さんお母さんにもご了解をいただいた、ということでよろしいかと思いますが、つまり婚約ということで」。
 輪一の両親は、恐縮したように下を向いたまま、うなずき、「はい」と二人そろって言い、父の目的は終了した。

 父が席を立つと、後は引っ越しの段取りが話し合われた。鏡子の母が言うには、東京で結婚生活をしていた鏡子の姉が、一昨年海外へ行ってしまって、残された家具数点をひきとったが、家に置き場所がなく奈良の母の実家の蔵に保管してもらっているが、それを鏡子に使わせたい、と。さらに母は、畳みかけるように今回の自立のはなむけにタンスを注文しといたから、と付け加えた。
 鏡子の兄の修が話に加わって、「俺が、日曜日の朝から大阪市内にあるレンタカー屋で、トラックを借りてここ八尾に戻って来る、そしてタンスと鏡子を乗せて、奈良へ向かうのでお母ちゃんは電車で大和高田へ行っといて。蔵から運び出すのに男手がいるけど、それはおじさんにお願いしといて。それから岸辺に向かうけど、どう見積もっても長い距離を走るので、トラックを返す約束の時間があるし、その後俺も予定があるので、荷物をおろすとすぐトラックを出さないといけない、悪いけど運び込むのは手伝えない、だからどうしても岸辺で一人手がいるな」
 修は、言葉を切ると、鏡子の方に目を向けた。鏡子は、おもむろに輪一の方に向き直ると、「輪一、次の日曜日は空いてる?」と、そっと聞いた。
 輪一は、「え、う、・・・」言い淀んでいると、
 「輪一が都合悪いならいいよ、まだ卒業したばかりだから、友達の男の子に連絡とってみるから」
と、鏡子がきっぱり言う。輪一は、慌てて「それは嫌や、僕がするから、だれにも頼まないで。僕が岸辺のアパートの前で待ってるから。それで、何時に行けばいい?」と早口に言った。
 鏡子は、「本当にいいの?あてにしても大丈夫なの?あの途方もない長い階段をベッドマットやタンスを持って上がるのは、私一人では無理だから。都合が悪いのなら、無理せんとそう言ってほしい。人を頼むなら、早いほうがいいから」と、疑わしそうに念を押したが、輪一は、「絶対に僕がする」と言い返したので、鏡子は、機嫌を直して「じゃ、二時に、少しぐらい遅れてもいいからお願いね」と、にっこりした。

 輪一の「さつき荘」の部屋は、四畳半に流し台と一口コンロが付いた二階角部屋で、窓は二つあるが、一つの窓を開けると、隣の雑居ビルの壁に手が届いた。もう一つは、北向きの流し台の上にあり、今、ぼんやりとした朝の光が少しずつ勢いを増し始めていた。
 鏡子のお父さんの分厚い眼鏡の奥にある目が、あの鋭い目が迫ってくる。次第に大きく見開いて、輪一をとらえて離さず、のしかかってくる。輪一は、いつも話をするとき、人の顔を見ることはしない、いや出来ないのだけど、あの時ちらっと不用意に目の隅で見てしまったあの目が、心に焼き付いて恐ろしい魔物のように輪一に迫ってくる。鏡子のことは大好きでずっと一緒に居たいと思っている、けど、僕はまだ、今年21歳の大学生。結婚などまだまだ遠い先のことで、考えたことはなかった。今日は、引っ越しの日だけれど、鏡子の引っ越しで、僕は手伝いのはずなのに、僕の役割は、いつのまにか大きく重いものになっているように感じた。
 鏡子のお母さんは、お姉さんが残していった、たぶん婚礼用だった家具とそれにタンスを一つ鏡子用に買ってあるという。小さなアパートでそんな家具は不似合いな感じがする。まるで新婚生活のようだ。鏡子は、「私の自立だから」、と言った。彼女の自立に僕はただ協力したつもりだったのに、今日の引っ越しで家具が運び込まれたら、そして僕がアパートで待っていて自分の荷物のように運んだら、もう・・・二人の門出になってしまう。早春の早朝、まだ肌寒いはずなのに輪一の額は汗びっしょり心臓が早鐘を打っている。窓からの光もだんだんとはっきりと強くなってきた。
 輪一は、何度も寝返りを打つうちに、腹の具合がなんだかおかしいのに気が付いた。
 気づいてから腹痛は、どんどん激しくなっていく。あまり眠れなかったうえにこの激しい腹痛では、引っ越しの手伝いはできそうにないかもしれない、痛くて痛くて引っ越しどころの騒ぎではない。どうしよう、行かないわけにはいかないのは分かっていたが、行ったところでこの腹痛じゃ何も運べず、役に立たないだろう、どうしようもない、と輪一は、行かないことに決めた。世に言う、赤十字休戦だ。時計を見ると、まだ間に合う。鏡子はまだ家を出発していない。善は急げ、輪一は、階下に降りて管理人の所に急いだ。電話をかけ、鏡子が出ると「大変だ、ものすごく腹が痛いので、今日は引っ越しに行けないから」というなり、鏡子が何か言う前にガチャンと受話器を置いた。
 階段を駆け上がり、部屋に飛び込むとファンシーケースのファスナーを開け、ボストンバッグを取り出し、ハンガーにかかっている服と下着類を数組、机の上においてあるリンガフォンのカセット、文房具など当面の生活必需品を押し込んで、部屋を後にした。管理人は、ボストンバッグを持ち、慌てたように出ていく輪一を怪訝そうに見ていたが、輪一は何も言わずにアパートを出た。幹線道路に出ると、そこに架かる大きな歩道橋を渡って商店街を通り抜け、十三から梅田、国鉄大阪から鶴橋まで、そこからの乗り換えはやたら階段が多いのだが、難なく小走りで近鉄のホームにつくと、やっと一息ついた。「あとは名古屋行特急に乗り四日市まで座っていれば着く」、と小声で言ってみた。安堵とも不安ともわからない何かが胸に渦巻き、頭の中はふわふわと真っ白だった。そしておかしなことに腹痛の事は忘れていた。

 実家に着くと、母は、輪一を見て、「あらま、輪一、どうした今日は、・・・」と言って、後は口ごもった。なんとなく察したようで、輪一が二階に上がると、後は誰も何も言わなかった。
 輪一は、九人兄弟の末っ子だった。父母は子供たちを苦労して育て上げたのだが、輪一は兄弟の中で初めて大学進学した子供だった。父母は、とりわけ輪一に期待をかけ、苦しい家計の中から毎月三万円仕送りしていた。兄姉達は、もうすでに家を離れて独立していたが、その多くが県内に住み、休みの日などにはよく実家を訪れていた。
姉たちは、この日入れ代わり立ち代わり実家に来て、階下はにぎやかだったが、直接輪一に事情を聴こうと、二階まで上がってくる者はいなかった。
 輪一は、昼ごはんに呼ばれても、「お腹が痛いからいらない」と断って横になっていた。
 しばらくすると、突然長兄がバタバタと階段を駆け上がってきて、
 「輪一、行こう。今から俺の家へ」と誘った。
 「あ、いや、行きたくない、お腹が痛いから」と輪一が断っても、半ば強引に有無を言わさない口調で、「いいから、行くんだ」と、言いつつ輪一のカバンをつかむと、階段を駆け下り家の前にとめてある車に放り込み、もう一度輪一を呼びに戻った。輪一は、仕方なく兄に従うと、母や姉たちはみんなで見送ってくれた。輪一は、車に乗るとカバンを引寄せ、抱きかかえると、行くのは自分だけなのか、とぼんやり思った。

 長兄は、輪一より十五歳年上で、高校を卒業すると地元の化学会社に勤め、しばらく前に家を新築したのだ。これまでにも、見に来ないかと誘いは受けていたが、輪一は、まだ一度も訪れたことはなかった。家に着くと、兄嫁がいたが、特に輪一を歓迎するでもなく、輪一は、所在なく一人、畳の部屋でごろんと横たわっていた。居間では、訪問客があるのか、時折話声が聞こえては、消えていく。なぜ自分はここに来たのか、兄はなぜ自分を連れて来たのか、さっぱり訳が分からない、と思いながらうとうとまどろんでいた。
 部屋に夕日が差すころになって、居間の電話が鳴った。

 「輪一さん、鏡子さんから電話」兄嫁が呼んだ。
 輪一が電話に出て、いきなり
 「もう引越し、済んだ?」と鏡子に聞いた。
 鏡子は、それには応えず
 「すぐ岸辺に来てちょうだい」と言うと、
 「だから引っ越しはもう終わったの?」ともう一度輪一がくり返す。
 受話器の向こうでしばらく沈黙があり、
 「今すぐこちらに来るように」と最後通牒のような鏡子の言い方に、
 「今すぐ行くから、ちょっと時間がかかるけど待ってて」と言うと輪一は、あわてて受話器を置き、カバンを手に取った。
 兄は、電話で察したのか何も聞かず、無言で四日市駅へ輪一を送った。もうすっかり暗くなっていたが、駅の周辺はまばゆく明るいネオンで輝いていた。鏡子が電話をかけてきたことで、なんとなくほっとした。

 岸辺のアパートの階段を上がって、突き当りの部屋のドアが開いているのが見えた。その前の廊下に、タンスや何やらが乱雑におかれていて、入るのも一苦労だったが、乗り越えて部屋に入ると、裸電球が一つぽつんとともるだけの薄暗がりの中、梱包した家具や道具類に囲まれて、鏡子が座っていた。
 「お腹はどう?」と鏡子は座ったまま聞いて、輪一が何か言う前に「荷物を部屋に運んでね」それから家具を置く位置を座ったまま輪一に指図した。輪一が、一人でタンスやマットを運ぶのを鏡子は、一切手伝わずにいた。輪一は、黙々と作業をこなし、やり終えたころに、鏡子が言った。
 「今日は、新しい発見があったわ、それは、輪一は約束ができない人だということがわかったこと。そんな大きなボストンバッグをもって、お腹が痛くて、近くの岸辺に来られないのに、朝早くからはるかに遠い四日市に行ったなんてね。おまけに実家で寝ていたのじゃなくて、お兄さんの家まで足を延ばしたみたいね。じゃ、ご苦労様、またね、さよなら」
 とげとげしい鏡子の声に、輪一はアパートを後にしたが、心は満ち足りていた。結局引っ越しを手伝えたのだ。そしてそれでよかったと思った。

(二)鏡子の場合

 早朝の電話で起こされた。
 「もしもし」
 と言うなり、輪一が、お腹が痛いので引越しに来られないと言って、電話を切った。
 寝起きで何が何かわからないまま、しばらくぼんやりとしていた。しかし、輪一の体に異変があって、輪一が困っているということが次第に分かった。身支度を整え朝食を食べてから、鏡子は輪一に電話した。
 アパートの管理人は、「さっき出ていったようです」と不機嫌そうな声で言うだけだった。
鏡子は、輪一が部屋で横になっているものとばかり思っていたのだが、出ていったということは、病院にでも行ったのだろうか、だとすると、いつもの腹痛ではなくもっと深刻なのかもしれない、と心配になった。
 そうこうしているうちに、兄のトラックが家の前に到着して、タンスを積み込み、トラックは出発した。鏡子は、助手席に乗っていても、輪一のことが気になって言葉数が少ない。
 修は、鏡子の様子がいつもと違うので
 「大丈夫? えらい静かやけど、何かあった?」
 「うん、輪一がお腹痛くて今日来られないって」
 「来ないのか、それは困ったな・・・。輪一君って大丈夫かな。でも鏡子は好きやから仕方ないね」と独り言のように言った。依然として鏡子は黙っている。しばらく間をおいてから修は、向こうの運び込む作業は手伝えないから、と念を押すように言い添えた。

 奈良の母の実家に着き、蔵からセミダブルベッドの枠とマット、堂々とした立派な鏡台、意匠を凝らしたサイドテーブルなど、鏡子の趣味とは真逆のごてごてしたものが運び出された。
 鏡子は、いらないものばかり、と思ったが何も言えなかった。晴れやかな顔をして蔵の掃除をしている伯父さんに、全部置いていきたいとか、処分してほしいとは言いだせない。先に来ていた母は、にこにこと上機嫌で、
 「トラックに積み終えたら、お昼にしましょう」と言った。
 お昼ご飯の時、鏡子はもう一度輪一のアパートに電話したが、管理人の「呼び出しに出ません」の声を聞く羽目になった。この時、鏡子の心に兄の言った「輪一君って大丈夫?」の意味が姿を現し始めた。

輪一からの電話は、一方的で、自分の言いたいことだけを言うと、鏡子が何も言う間もなく切った。まるで欠席届を出すみたいだ。まだまだ約束の時間までゆっくり寝てお腹の調子を整えられるのに、電話の後、割とすぐに出ていったのだ。ひょっとして部屋で寝ていることが嫌だったのかもしれない。

 鏡子は、この考えをいったん中止することにした。このまま考えを進めていくと行きつく先が見えるからだ。トラックが出発する。助手席に乗り込んだ。その機会をとらえて、輪一への疑惑を停止した。

 トラックは、快調に県境を越えて、大阪に入るが、二人とも重苦しく黙ったままだった。トラックの運転に不慣れな修は、カーブの多い山道に加えて、荷物の不安定に揺れる様子が気になり、ありったけの神経を集中しなければならない。一方鏡子は、引っ越しのこの先が思いやられ、一人で家具を運び込む方法を必死で見つけようとしていた。

 アパートの前にトラックを止めると、二人で、玄関前に次々と荷物を下ろした。ずらりと並んだ家具に囲まれた玄関は、人がやっと通れるほどの隙間しか空いていない。大家さんは、「早う片付けてくれなんだら、玄関が使えへん。どうもしゃあないで」と階段から下りてきて小言を言った。「すみません、今、片づけますから」と鏡子は謝りながら、サイドテーブルを両手で抱えるようにして、階段を上がり始めたが、あまりに重くてすぐに足が止った。それを見ていたのか大家さんは、
 「それから言うとくけど、この階段にキズつけんといてや、もしキズつけたら弁償してもらうさかいな」
と続けたが、すでに修のトラックは出ていってしまっていた。大家さんは、なおもぶつぶつ言いながらも二階に上がっていった。

 荷物を運ぶのにもう一人必要なことは、はじめから分かっていた、だから輪一に頼んだのに、あれだけ念を押したのに、輪一は、来ない。鏡子は、玄関横の植え込みにうずくまって途方に暮れていると、胸に熱いものがこみあげてきて瞬く間に涙がとめどなくあふれた。幸い、アパートの玄関は通りに面していないので、こんな無様な姿を人に見られる気遣いはなかったが、気の強い鏡子には、痛手だった。自立の厳しさをこんな形で突きつけられるのは、それも、よりによって輪一の裏切りによって、なのだ。鏡子は、突然、輪一を探そう、と思い立った。輪一は、どこにいるのだろうか? 今まで、そう言えば友達に紹介されたことがなかった。友達のいない輪一の立ち寄り先を考えれば、鏡子には実家しか思いつかなかった。実家なら、電話番号を知っていたので荷物はそのままにして、表通りを渡ってしばらく歩き岸辺駅に行った。公衆電話を見つけ、電話するとお母さんが出た。
 「あのう、輪一さんはそちらに居ますでしょうか?」
 鏡子が聞くと、お母さんはすかさず、
 「輪一? 帰ってないで、今日は、見てないけど、・・・ねえ」と電話のそばの誰かに言っているようだった。
 「そうですか、でも・・・」と言おうとした時、警告音が鳴り、急いでコインを探したがなく、電話はそれで切れた。
 慌てて、両替をしてもらうにも、切符売り場は、両替お断りの張り紙がある。キオスクのような売店は見当たらず駅を出て、通りの向こうの商店らしい家に行き両替を頼んだ。
 小銭を握りしめながら、もう一度電話をかけようかどうか迷い始めた。そしていったん家具の所に戻った。
 実家のお母さんの応対に何か引っかかるものを感じた。輪一は、どこへ行ったのか?
 鏡子は、しばらく思案した後で、途中で切れた電話の詫びを入れようと、再び駅へ急いだ。電話すると、今度は、お姉さんと思われる人が出た。
 「あのう、輪一さんはそちらに行ってませんか?」
 「輪一? ちょっと待ってね」としばらく話し声が聞こえて、コインが落ちる音にヒヤヒヤしながら待っていると
 「兄ちゃんのとこへ行ったみたい」
 「お兄さんの家の電話番号を教えてもらえないでしょうか?」
 番号を教えてもらうと、さっそく電話しようとしたが、もうコインはなくなっていた。
 再び、同じ商店に行き両替してもらい電話を掛けた。
 「もう引っ越しは済んだの?」が輪一の第一声だったが、素早くコインが無くなるので、とにかく来るように言った。
 鏡子は、急いでアパートに引き返すと、できるだけ小さくできるものや分解できるものをバラバラにして、気力を振り絞って、一人で階段を運んだ。大きなマットや引き出しを抜いたタンスはそれほど重くはなかったけれど、かさ高いのでどうしても引きずってしまったが、日没までに玄関前は開けることができた。紅茶ポットを落として割ったり、重すぎるサイドテーブルを階段だけでなく、廊下までずっと引きずってしまった。キズを付けたかどうでもよかった。それ以外術はなかった。輪一が来るかどうかも、もうどうでもよくなっていた。
 部屋は、突き当りでドアの前まで運んでおけば、とりあえず人の邪魔にはならない。そこから部屋の中まで家具を運び込む気力と体力が尽きて、ドアは閉まらないがそのままにして部屋の中に倒れこんだ。どれほど時間が過ぎたのか、どうやら眠っていたようだった。暗い部屋で目覚めたはいいが、何がどこにあるのかわからない、外から差し込む薄明りを頼りにとりあえず持ってきたはずの電球を探すことから始めた。
 輪一が来たのは、それから小一時間も過ぎてから、大きなボストンバッグをもって満面の笑顔で現れた。とんぼ返りの帰省が何だったのか、説明はついになかった。