協調は困難か

囚人のジレンマ(以下一回限り)は、ケン・ビンモアが言うように決して”人間の協力問題の本質を体現しているものではない“。つまり協力が発生しないように仕組まれた装置である。その理由は、利得構造とプレイヤーの関心が自分の利得の大小以外にない、という二つの限定による。この点について少し分け入って考えてみる。

利得構造

自分と相手の利得が相反するようになっている。自分は、相手の手の如何によらず自白の手を取ったほうが利得が大きい。相手も同様に考え、自白・自白という結果になる。そしてこれは両者が合理的であるので均衡(安定)である。 囚人のジレンマは、相手の選択を予想することができるときの、単独での意思決定の様相を示している。 また、よく知られている、二人が乗った手漕ぎボートの問題がある。海上で嵐にあったとき、二人が協力して漕いで、できるだけ早く陸地に到着しようとする。この場合、個人的利得の観点から、協調が合理的選択となる。また、沈みかけているボートに救命胴衣が一つしかない場合は、通常協力はできない。このように、協力するしかない、あるいは協力が不可能であるといった選択の余地がない利得構造になっている場合は、協力するか競争するかという問題は起こらない。 囚人のジレンマの利得表は、個人的利得を追及すると二人にとって両損的な結果になるように作られている。つまり協調と競争(対立・裏切り)の両方を考えざるを得ない、のに協力へたどり着けない。

プレイヤーの関心

自分の利得の最大化という目標に対して合理的な選択をする。この囚人の場合、共犯の相棒の利得は、考慮しない。自分と相棒の行為選択(自白・黙秘)とその結果、相手に訪れる刑期の長さは全く問題ではないことになっている。

かくして、両者が協調することはない。両者が協力してやっていくほうが自分にとっても相手にとっても良いのに、協力できないことになる。

協力の問題

私は、自分が困っているときに、誰か助けてくれることを願う。
他人が困っているときに、自分がその人に手を差し伸べられることを願う。
幸せを感じるのは、私がそんな社会に住んでいると思えるときである。

すべて人間関係は、持ちつ持たれつだから、できるときは協力を惜しまないのがよい。
そして助けてもらったら、感謝をあらわす、それがまた次の協力的行為を生んでいく。

協力的な社会を作るために私は、他者にどんなことをすればよいのだろうか?
個人的な選択と協調的な社会を作ることの間に、どんな関係があるのだろうか?

競争と協調の相克

人は、誕生した時から、ある場所である時代に、ではあるが、その社会が持っている行動の様式を身に着けて成長する。多様なパターンが存在するので、同じ時代同じ社会に生まれた者同士でも個々人によって身の内に存在するパターンに違いはあるが、それでもその社会の共通するパターンを身に着ける。つまりその社会に適応(社会化)する。自他の行為が刺激と反応となりその社会に共通するパターンを持つ。自分のうちにそのパターンの鋳型を獲得、保有して成長する。

それは、日常生活において、何もいちいち考える必要はなく即座に反応をすることができるので考えるエネルギーの省力化である。日本人が知り合いと出会うとき、会釈、お辞儀するのが丁寧とされる。相手が、知り合いか、目上の人か、嫌いな人かなどによって微妙に幾パターンにも変化するかもしれないが、握手したりしない。あまり考えないで「日常の普通の事」として行為する。

日常の場面で、当たり前のことは、行為の選択や決断に時間はかからない。これはルールを守ることでもあり、別な言い方をすると社会・仲間への「協調」の意思表示ともいえる。もちろん昨今はハグするなど欧米化が進んできたが、それでも依然として欧米とは異なるパターンがある。どの社会にも「こうするものだ」といったスタンダードがある。その遵守は、日常の繰り返される場面では、人間関係の円滑なやり取りに欠かせないし、まさかの時にスムーズに協力しあえることにつながる。

自分と相手の利得

もう一つは、問題が起きた時などにじっくり考える行動パターンである。問題を精査して自分の取れる選択肢をあぶり出し、どれにするかを決める。囚人のジレンマはこれを簡素化した。二人の囚人は、ともに自分の利得を最大にしたい。相手のことも、過去や今後のことも考えの埒外である。二人が、裏切りを選択するのはそれが相手に依存せず自分にとって比較的高い利得が得られるからである。囚人のジレンマは、「協力できない仕組み」になっているので、協力できないだけなのである。

囚人のジレンマのプレイヤーは、他者の選択に依存せず自分の利得のより多いほうを目指すことを目的としているので両損的結果となるのは当然の帰結なのである。

社会の底流に流れる「共通のパターン」には、人が人と協力をする源泉がある。しかしだからといって競争や裏切りがないのではない。「協力的である」ことと自分(自分の属する集団)の利益が合致するとき、協力は初めて意味がある。協力的な行為が自分や自分の属する集団の利益に反する場合は、すなわち競争関係にある他者・他集団への協力は、裏切り行為(悪くすれば自滅)となり自集団から罰せられる。無制限の協力はあり得ない。

自分・自集団と他者・他集団の価値が異なるとき、もっともたいていは異なるものがあるのだが、盲目的な協力行為は、裏切り行為となる。集団内の協力は奨励され、競合する他集団への協力は、裏切り行為となるのは明らかだ。「誰にでも親切・正直・誠実であれ」は、現実的ではない。

子供に教える「知らない人について行ってはいけません」が、日常的な常識となって久しい。 見境のない協調的行為は、別の見方をすれば必ずではないが、自身・自分の属する集団への裏切り行為となる。 常に、ではないが、自分と相手の利得の間にはある種の緊張が付きまとう。

では、次に自分が所属する集団内に限定してみよう。集団は、協力行為を奨励する。協力的な集団のほうが、内輪もめしている集団より競争に優位である。しかし、協力するかしないかの問題は、集団内であっても存在する。集団内の人間関係において、ある人にはより積極的に協力し、別の人にあまり協力しない、ということが生ずる。信頼・親密、仲間などといった感じを持っているか、またその程度に応じて使い分けるのである。

では、集団が二人からなる場合はどうか。先のボートの二つの例で見た解は、自分の利得と相手の利得のベクトルが同じなら、利得構造によって、自分の協調が両者の利益に、ベクトルの向きが反対なら競争となる。しかし、ボートの二人が、もし祖父と孫なら救命胴衣をめぐって争奪するだろうか。
ここまで考えて、もう一度囚人のジレンマに戻ってみる。

他者が気になるプレイヤー

囚人のジレンマのプレイヤーは、他者のことに関与しない。これは、人間であるという前提である限り不自然な気がする。私たちは、自分の利得も気になるが、他者の利得も気になる。得をしていても他者がもっと大きく得をしていれば不満であり、損をしたとしても他者の損に比べればたいしたことがなければ問題を感じない、ということがある。公平かどうか、が問題である。つまり私たちは、他者(相手)のことが気になる。このことが捨象されたプレイヤー像に不自然さが付きまとう。自分自身と他者の間にある「気になる」という部分が ひょっとして人間が存続するためのかなり本質的な性質なのではないか、という思いを拭い去れない。違和感は、「他者の扱い」についてである。たとえ一回限りであったとしても、完全に他者を無視しえない。囚人のジレンマのプレイヤー像には、他者とは、自分の存立に不可欠な存在ではなく、自分にとって利益を見込めるかどうか、で関わるかどうかを決めることができる存在となっているように思われる。つまり他者とは、自分自身が操作可能なもの(手段)だと考えているように見える。切り離すこともかかわることも、自分の意思によって決められる、と。

だがしかし、人は誰でもどこかの社会に生まれる。その行動様式を身に着けて成長するのだが、それはその社会の人間どうしの対応関係なので、行動の習得とはまずその社会で生きる人間関係から入り、それが基底として組み込まれた枠組みを自身の内に取り込むことになる。後の学習はその枠組の上に築くことになるので、利害・損得を考えるにあたっても、この基底的枠組みを外すことは不可能なのだ。それは状況により問題の質によって、時として大きく顔を出す。例えば、人は、時として、自分の利得から考えれば起こりえない選択をすることがある。川で溺れる人を見て自らの危険を顧みず飛び込むなどといった英雄的行為がそれである。人は、行為を損得だけで決めるわけではない。人は協力から学び始めるところに協力の源泉があるような気がする。社会に初めて登場する新参者の赤ん坊は、まわりから協力を得られることが必須である。初めに他者の協力ありきでスタートする。競争や対立などではない。そして生存していくのに、互いが協力するほうがいいので、利己よりも他者との協調を促すやり方を発達させてきた。一般に道徳といわれているものは、他者との協力を可能にするためのものだ。

そしてさらに、私たちが行動を選択するときに「協力的である」ことと、「非協力(競争的・対立的)である」ことは、対象となる他者との関係によっては反転することもある。道徳は、他者に対して、自分に対するのと同等の配慮や尊重を求めるのだが、どんな他者に対しても、ではない。侵略・侵害・犯罪など生命を脅かす他者に対してはいうに及ばず、同じ価値・信念・信仰などを共有しないものに対しても時として道徳的歯止めはなくなる。どんな他者かが問題なのだが、協力と対立・競争は、はじめからコインの裏表といってもいい。

協力への道

ヒントとなるのは、やはり囚人のジレンマである。一回限りのゲームではなく繰り返しのゲームでは、双方が協調することが解となる。一回だけで終わらず、次のゲームがある、まだ続きがある、ということはどんな意味を持つのだろう。

プレイヤーは、相手との間にいわば長期的展望を持つことになる。利得的に言えば、自分だけの損得ではなく、お互いにとって良い選択をする、すなわち両者にとってもっとよい利得を得ようとする可能性が出てくる。つまり両者とも協調(黙秘)を選択する誘因が生まれる。

1980年代初頭にアクセルロッドとハミルトンが行った対戦実験でアナトール・ラパポートの「しっぺ返し」戦略が勝利した。相手が前回とった手をそのまま返すという「しっぺ返し」は、なぜ協調を導き出せたのだろうか?自分がしたことをそのまま相手からお返しされるので、相手に良いことをするのが、相手から良いことをしてもらえる一番の方法だからかもしれない。繰り返しゲームは、私たちの日常における人間関係を彷彿とさせるし、戦略としての「しっぺ返し」は、自分のとる手を機械的に相手依存にしているのであるから、相手は、少なくともそういう意味で気になる存在として登場する。自分の利得を損ねず、両者が協調できる道を探すことが私たちの望みであり、その方法を探そうと思う。