タグと意思決定 ― (1)協調しあう関係を求める

自分が協力すれば、相手もそれにこたえて協力してくれるという関係を私たちは、望んでいる。まず自分が手を差し出すか、相手が先で、自分がそれにこたえるのかといった後先は重要でないが、相互に利益を期待し得る関係を得たいと考える。
つまり問題は、相手を信用できるかどうかである。そのためにはまず相手を知ること、であるから相手に関する情報を集める。それは商品を買うかどうかの時に、付いているタグ(ラベル・レッテル)を見るような行為に似ている。商品のタグは、商品についての情報が記載されているので、例えば素材、製造元、製造日時などの情報が得られる。タグは、情報を伝えるだけであるが、消費者は、それ以上を読み取る。
オーガニック、無添加、産地などから想起する購買者が持つイメージに基づいて購入を決める。人間にはタグはついていないが集めた情報から、その人物像を自分なりに浮かび上がらせて、自他の間で協力関係が生じそうか、信用してもよいかを見きわめようとする。また、対面によっては表情、服装、言葉使い、しぐさなどの情報が、さらには対話から国籍、宗教、支持政党なども知ることになるかもしれないが、集められた情報が真実かどうかは保証の限りではない。そしてもし真実であったとしてもその人を信じること、との間にどこまで行っても不確実なある乖離がある。
会社で人を採用する時、履歴などの情報の外に肌の色、出身、アクセントなどから面接者に喚起される好悪の感情なども採用に影響する。タグそのものは、中立で意味はないのだが、それに意味・感情がまとわりつく。私たちは、協力し合える人を見つけようとするのだが、結局いつもだれを信じてよいかわからない。確かな情報源、正確な結果、納得が得られる精緻な説明を求めているが、たどり着けないでいる。

信用するかどうかの判断は、ある意味騙されるリスクを抱えているので慎重になるのだが、私たちは常に、分からなさに囲まれながら判断と選択をすることになる。より的確な判断をするために手掛かりとなるのは、書かれた情報に基づいた合理的推論による判断だけではなく、直観のような非言語的コミュニケーションである。自分の利得や思惑などの関心と相手の関心との間で整合性があるなら、双方に利益がもたらされるかもしれない、がしかし、自他の情報に対する保証がない。選択をするには、わからない中でそれを評価する必要がどうしてもある。その際にタグはコストのかからない「手がかり」となる。
判断の背中を押す役割を果たすのは、結局のところ、もっともらしさであったりする。身なり、肌の色、目を合わせないなどの挙動から伝わる情報は、信用するということに関わる価値を含んでいる。もともと肌の色と信用できるかどうかは、関係がないが判断するときにはすっかり分かちがたいものとなっている。
信じやすいこの性質は、子供のころは有用である。文化を吸収し学習するにはまず模倣から入る方が効率的である。従順な子供は、身近な大人から困難なくスキルや知恵も教えられる。疑念を持つより正しいと信じて受け入れることは、子供にとって有利に働く。そして長ずるにしたがって、疑念を持ち警戒することを学ぶようになるのだが、それは信じてばかりでは、騙されることになることを学ぶからである。意思を決定するということは、「信じる」と「警戒する」を使い分けるということでもある。
小さな子供は、だれとでも遊ぶ。「白い」色は、ただ色が白いだけで、そのほかの意味やイメージはない。小さなコミュニティーの身近な大人によって色づけられた価値・意味・感情を学ぶことによって、例えば、白い色を見れば、無垢・良い・正しいなどを連想することになる。それも日常生活の基本を支える文化や宗教の枠組みで語り継がれたものは、定着し容易には変わらない。

ゲームにタグを導入する

私たちのゲームにおいて、プレーヤーは警戒しつつ協調を志向する。繰り返しのゲームで、毎回のわずかな損得より長期の利得の増大を目指すのである。「リラクタント(遅れのある同調戦略)」というのはプレーヤーの人間像、特に思考や認識方法を、より現実的な人間に近づけたものだ。
日常生活の意思決定は、論理を用いて行うと思っているが、そうではない。新しいことに出会い、その都度の選択をするとき論理的に正しいかどうか、ましてや自分の利得にかなうかどうか、を計算したりはしない。それよりなんとなく普段の感覚や経験にあっているか、しっくりいくのはどっちだろうと考える。
自分の選択をした後で自分の考えをとらえ直すとき、論理が使われる。他者に自分の行為を説明する時、こんがらがった自分の思いや考えの筋道を構成、定式化する時も、論理は使われる。選択するというのは、新たな考えなどにつながる可能性を秘めた、漠然とした未来の結果をつかもうとする行為であるともいえる。
同じ値段の大きなリンゴと小さなリンゴ、どちらを買うか、大きいほうが食べる部分がたくさんあって得だから、と大きいほうを買った人は言い、小さいほうを選んだ人は、同じ値段なのに小さいので、よりおいしいのだと思ったからと後で言う。男女ともに結婚相手に優しい人を求めるが、自分が求める優しい人がどんな人なのかよくわかっていない。結婚をすると決めた人が、優しい人かどうかわかると思っているだけかもしれず、そして「優しい」に求めるものが何なのかはっきりしないまま、選択した理由を聞かれたら、優しいから、と答えたりする。述べられた理由は、自他にわかりやすいというだけで、本当はとにかく決めたというのが事実なのだろう。語られた理由が間違いというのではないが、選択するには論理的理由以上にもっと、多くのいわば投機的ともいえる未来に関わる要素がある。自分でもあいまいであやふやで、その時言葉にもならないけど、掴もうとする何かを選ぶのであって、論理的理由は、選択を構成する一部に過ぎない。感情を排して合理的に行動するほうが自分の利益になるとよく言われるが、これは誤りで合理性と感情は決して矛盾しないばかりか、合理性にこだわるあまり、より狭い領域に利得を押し込めて失敗しかねない。

私たちは、このような人間の意思決定の過程と認識の仕組みを論文に組み入れる試みをした。その方法とシミュレーションの結果については次回に。