「協調します」という宣言は有効か?

私たちがどんな行為を選択していけば、より協調的な社会になるのだろうか?
個人の行為と全体との関連を探る。

「私は、良い人です」「私は寛容な善人です」「私はあなたを裏切らない」などという人に出会えば、それが初めて出会う人である場合、大部分の人は、警戒をする。さらにその人物が「だからお金を貸してください」「だから作業を手伝ってください」などと要請してくれば、断る人が多いのではないだろうか。

なぜなら、その人が嘘をついているかもしれず、その目的が不明なこと、よく知らない人と何らかの関係が生じる不安が生じるからだ。実際の生活場面では、その人物の風体、容貌、あるいは自分が常日頃偏見を持っている種類の人かどうか、その人物と出会った場所や時刻、など他の要素が醸し出す感じにもよるだろうが、一般的には、相手の言うことを信じるときは、お金を貸すこともあるだろうが、嘘をついていると思うと、お金は持っていても貸さないということになることが多い。信用できるかどうかの判断が難しく、失敗した場合、詐欺事件となるが、後を絶たないのも事実である。

つまり
人は、基本的には自分一人でやりくりしていこうと思ってはいるが、本心では「協力し合える仲間」を求め、できれば増やしたいと思っている。自分一人で生きるより、相談しあえる仲間を持っている方が、共有できる情報も多くなり、危険を回避することができ、得することも増えるからだ。したがって相手が協力してくれそうな人なら、協力するほうが得策であり、仲間になろうと考える。しかし協力が見込めそうにない人とは、自分の利益を棄損されかねないので、協力しない。
信用できるとは、自分と他者が、「ともに互いの利益を考えて行為する」という合意があるかどうか、という判断なので、利得の観点からは、見知らぬ人と協調・協力するのは難しいように見えてくる。つまり人間関係を、主に自分の利得との関連でとらえようとすれば、他者との関係は消極的にならざるをえない。

そこで
私たちは、あるシミュレーションを行った。今回はDRゲームを使う。
DRゲームは、ドナー(贈与する側)とレシピエント(受け取る側)に分かれて交互手番で対戦するゲームで、通常レシピエントは何も行為しないのだが、今回私たちはレシピエントに表現の機会を与えることにした。それは「私は協力的な人です」と言うことができる、というものだ。
DRゲームでは、ドナーは、「協力する」か「協力しない」、のどちらかを選択するが、「協力する」を選ぶ場合にはドナー自身がコストを払わなければならない。ドナーが「協力」を選択すれば、レシピエントは利得を受け取るが、「協力する」と発言してもしなくても、コストはかからない。シミュレーションの結果は、表現の機会がない場合より、発言できる機会を導入した場合の方が協調の全体量が増えることが分かった。
詳しいシミュレーションは、こちらを参照にしてもらいたいが、結果を受けて、「意外だ」と「当然だ」の相矛盾する感想があった。

何も言わない相手と、「自分は協調的です」と言う相手を、ドナーはどう判断するのか?
相手がドナーになったとき、協調で返礼してくれると思うなら、コストをはらっても協調の手を取るだろうが、嘘をついていると思えば、ドナーは協調を取らないのが合理的である。レシピエントは、自分が嘘をついた時、ドナーが信じてくれれば自分の利得になるので嘘をつく誘因はある。レシピエントに対する信・不信が「協力する」発言の導入によって変化したことになる。
以上は、いわば利得を基準とした論理的な考えの世界である。

この論を推し進めても、残念ながら、互いに協力する社会の実現には向かいそうもない。個人的な行為と社会的な関係における典型的な例は、公共財をただ乗りするということがある。公共財は、社会成員間の協調が形となったものと言えるが、ただ乗りは、それを個人・集団がコストをはらわず自分の利益を受け取る行為である。フリーライダーは、利己的論理であるが、社会の成員は各々公共財のコストを負担することで、より大きな利益を享受できると信じている。だから成り立つのであり、自利の合理的追及に走るフリーライダーの数が大きくなればシステムは崩壊する。

公共財を協調が現実に現れた形だとして、自利や利他の観点を排し、社会の全体の助け合いの良き姿の表れとしてみるなら、システムや制度など以外の世界、即ち私たちが取り巻かれている世界があることに気づく。公共財は、ある一定の合意があるが、はっきりと合意が示されない慣習もある。私たちの周りの環境に私たちは影響されるだけではない、自ら関与もしている。合意が形を成す場合と形すらなく、いや意識にすら上らず、しかも心身ともに関与しながら私たちは日々暮らしているのではないだろうか。そして私たちは、合理的であるとともに不合理である。論理的思考方法は、極めて限定された小さな領域の問題を扱うときには役立つが、日常的な問題にはあまり役立たない。なぜなら、論理の運用が、人間自身であり、運用の場が矛盾も含む現実の生活世界であるからである。論理を極めるときには、感情をはじめとする諸々の人間が持つ特質は厳しく排除されるから、出来上がった理論には、人間性は入り込む余地はなくなっていく。現代においては、全体からテーマを、切り離し、分類して、合理性を追求して正解・真理へ向かうほど、人間的特性は、排除される仕組みになっているといえる。

私たちの論理的思考法は、原始の時代からはるか時を経て、私たちの精神が集団から次第に個別化していくにつれ発達したということらしい。レヴィ・ブリュルは、「未開社会の思惟」で、未開の人々の周りとの関係を「融即」(participation)と表現して、かつて人々が、現代の人々といかに違った対象のとらえ方をしていたかを述べている。その片鱗は、先住民族の儀式を目にしたり、神話を読むことによってすこしうかがえるのかもしれないが、集団意識そのものを私たちが彼らと同じように体感するのはもはや不可能だろう。

私たちと彼らとの大きな違いの一つは、矛盾に対する態度に現れる。私たちは、論理的矛盾を厳しく排除する。Aであり同時に非Aであるなどということは許されないと思う。それに対して彼らは、わざわざ矛盾を探そうとしない、あっても排除しない、つまり無関心であるという。遠くへだたってしまったように見える私たちと彼らの思考法や心性について、今日その研究の必要性が増してきたのではないだろうか。それは、私たちの内奥にいまだ消失せず残っていて、現代人の疲弊した精神活動に光を投げかけ、生き生きとした生命力を付与してくれるのではないか、との期待からだ。周囲のすべての物と親和性を持ち、集団的な意識の中に抱合されればされるほど、安心感と幸福感は増すのだろうが、しかし、現代人は、もはやそこには戻れない、なぜなら、すでに大いなる生命の塊からちぎれてしまっているからだ。

原始の心性は、しかし残存する、というよりすべての論理的思考も、その上に築かれたものなので、その土台ともいえる精神を無きものにしていては、私たちが満足する発展は望めない。

私たちが求める協調的な社会とは、私たちの考えが、部分・個別から逆に全体へ広がる過程で見出され、それを糧に実現していくものかもしれない。そして「私は協調的」という発言は、ひょっとして論理的思考による自利を超えて、集団的意識の領域に至るスキマとなったのかもしれない、と思う。

「私は協調する」という発言を導入してシミュレーションした結果、協調の全体量が増加した、ということに対して「当然そうだろう」と感じたのは、いまや風前の灯火となってもなお息づいている元々私たちが持っている内的感情から出たものかもしれない。それは、私たちが本能的に元来持っている公正感や罪悪感、いわば、共通の倫理(未分化な道徳)へたどり着く方法を示唆しているように思う。