人は変わる ― (1)ゲームがよく分からないプレーヤー

人は生まれながら本性を備えている。遺伝的に継承している生物的側面はともかく、日々の行動の仕方や考え方、判断方法などは、後天的に獲得される。本能についても、人は、他の動物ほど固定的、組織的、確実なものでなく、もっと衝動的活動力の潜在的可能性として持っている。
人は、必ずどこかの社会の中で生まれる。そしてどんな社会も人々の相互作用の一定の様式を持っている。ある社会に属する個人は、同一の事態に直面して似たような反応することが観察される。どの社会も、年月を経て現在の習俗、風習、さらに法政治体制などを持つに至ったのだが、時代が変わり体制が変化しても何らかの同一性をのこしている。それはあたかも、子供が成長して大人になり、考え方や行動の仕方が変化しても、その人であり続けているようなものである。

慣習と習慣

社会の慣習とは、その社会が自らを反映する似姿のようなもので、そこに生まれた子供は、そこの人々の相互の行動パターンの仕組みに組み込まれ、刺激を受けながら、自分の習慣を作って行くことになる。身近な個々人の行動のパターンから影響を受けると同時に、世間に空気のように漂う精神性のようなものから逃れえない。

個人的な習慣は、特定の社会的環境、条件のもとで、生まれながらに備わった衝動的活動の源の助けを借り、刺激しながら、行動の仕方を自ら組織して自分そっくりの一つの世界として作り上げたものである。
この習慣は、条件が変わりすっかり不合理になったとしても、いったん出来上がると、頑固に持続する。衝動的活動力そのものには、方向性がなく空虚なものだが、生きている限りほぼ無尽蔵にあるので、エネルギーは供給され続ける。習慣は、日常の何気なく繰り返す動作を支配するだけでなく、何か問題が起きた時に対処する際にも大きく影響する。習慣は、感じ方、考え方、価値観などとともに、主要なのは行動のパターンである。日々の行動選択は、その都度、場面ごとに考え、一からどうするかを決めているつもりで、その実、自分の持つパターンから回答を引き出すことが多い。過去において、誰かから教わった、その当時はそれでうまくいった、というような思いから、条件も環境も問題そのものも変わっているのに、機械的に同様の行動を選択して失敗することも多い。いわゆる「思い込み」が訂正されないのだ。
また、その反対に現在の習慣にいつも吟味を加え、自分自身にあった習慣に改良していこうとする側面も、困難さを伴うが、私たちは持っている。

前置きが長くなったが、本論文は、行動パターンを戦略とみなして、私たちのリラクタントプレーヤーが、その戦略を変えるとすれば、協調の全体量が増えるのかどうか、について考察してみた。

ゲームについてよくわかってない人が、ゲームをしている状態を想定した。そんなプレーヤーを「インディファレント」とした。「インディファレント」とは、ゲームの構造を完全に理解して、他プレーヤーの行為の筋の通ったモデルを把握し、合理的計算ができる、いわばゲームを完全に知っているプレーヤーの意味的対語である。
「インディファレントプレーヤー」は、常に i (論文ではI)を取る。訳が分からないのでC,Dを用いることはしない。CとDの区別ができないので選択は意味をなさないからだ。これは、リラクタント系のプレーヤーであるので、共通性質として、相手プレーヤーとの協調を基本的に望み、相手との同じ方向に向かう傾向を持っている。ただ、その性質は、ゲーム上で顕現せず、とる手は相手のとる手にかかわらず機械的にいつも i である。さらに、遺伝的に親の戦略を受け継いでいるのだが、それも潜在化していて、自分自身も気づかない。 i の利得は、相手の手の如何によらず損得は微々たるものである。

本論文で、DRゲームに通常のプレーヤーの外に、ある割合で上記のインディファレントプレーヤーを入れた(生まれた時点で20%の確率でインディファレントである)。このプレーヤーは、ゲームの状況を十分理解しないためとる手はいつも i である。そしてある期間ゲームをして、経験、学習することを通して、潜在的に受け継いだ本来の戦略をとるようになるものが現れる。「戦略が変わる」、正確には潜在的に持っていた戦略が顕現するのである。それが起こるのは、高々一生に一度きりである。 i を取って対戦している間に、得られた経験は、すぐに行為( i )を変更させず、潜在的に蓄積され、一度きりの機会が訪れた時それが影響をして変わる。したがって変わるとしても遺伝的に受け継いだ戦略にかわるだけで、実際の人物像としては、親のやり方を踏襲するのがせいぜいということになるのだが、人の変容をゲームで扱うため、モデリング上の簡素化、単純化によるもので、現時点での試論とする。

得られた結論

インディファレントプレーヤーを導入しない同様のDRゲームと比較して、インディファレントな状態から変わらず、つまり経験から学習することなく i を取り続けて一生を終えるものが多ければ、インディファレントが存在することで、協調の全体量はかなり下がる。より非協調な社会になる。 そして、 i を取るプレーヤーが、潜在的に持っている戦略に変われば変わるほど、協調の出現率は増してゆく。さらに「共感力のあるプレーヤー」が身近にいて、自己犠牲的にコストをはらってインディファレントに協調の良さを知らしめるなら、 i を捨てて戦略を持つプレーヤーになる数が多くなり、したがって協調の出現率もさらに上がる。
協調を志向していても、どうすればお互いが協調することになるのか、ということが理解できなければ、つまりゲームの性質をよく知らないプレーヤーの存在は、結果として低調な協調を導くのである。

習慣を変える

インディファレントのイメージは、幼子のそれを彷彿とさせるが、必ずしもそればかりではない。私たちは、日常生活において常にあれかこれかの選択をしているが、何もかも分かっていて行為の選択をしているわけではない。商品を選ぶ際も、商品の区別も自分の必要を満たす商品がどれなのかも、判然としない。行政制度も法律も完全に分かって役所に行っているわけではない。よくわからないといえば、結婚相手を選ぶなどは、それの最たるものだろう。すべてわかって合理的な判断をすることは、不可能に近いので、ある程度妥協してそこそこ満足することにしている。

社会の慣習の下、私たちは、いつか、こんなもの(認識)、こうすることがよい(判断)、こうしたい(選好)などをはめ込んで自らの習慣を作り上げ、その基盤の上で半ば自動的に一つ一つの選択をしているのではないか。いつか経験した「こんなもの」という認識や判断がたまたまうまくいけば、それは強化され持続する。他人の経験の成功・失敗譚が自らの習慣の中に組み込まれることもあるし、極端な話、歴史上の人物の経験すら、時代、環境、条件がすっかり異なっていて自分の問題の解決に役立たない場合ですら、その行動のパターンを適用してしまうこともある。日常の行為の選択は、習慣的思考に負っているし、その延長線上にあるといえる。そして時として、習慣的思考は、強固な「思い込み」を生み、現実、事実を客観的な目で見ることを押しのけて暴走し、判断を誤らせ思わぬ行為に導くことにもなりかねない。

行動習慣は、意思決定を的確に行うために大変重要であるので、常に、現在の習慣が、自分自身をよく反映しているかどうかをチェックする必要がある。自分が今何をやっているのか、どんな問題に直面しているのか、自分と周りをよく見まわし、もっと改良できるところはないだろうか、と探す態度が求められる。情報があふれ、何が真で、だれの言葉を信じるか、かってないほど難しい時代であるが、定着し固定化した習慣を、湧き上がってくる内的な衝動と自己内に取り込んだ外的矛盾の諸相と葛藤を、行動のパターンを変える活力として、より今の自分に適した習慣に作り替えていくことが必要である。