ローカル・グローバル

共同体

 家族や仲間内での助け合いは、社会全体の協調とどうかかわっているのか?そんな疑問について考える。協調の手を取るか、裏切りの手を取るかは、自分が得をするか損をするかによって決まる、とはいえ、日常の生活では、何事もそれほど判然としないもの。

 プレーヤーの戦略に、常に協調の手を取るというのがある(お人よし・All C)。相手が裏切ったとしても常に協調で応えるので、利得は徐々に減っていき最終的には、利用されて終わると思われる。世の中には、常に裏切りしかしない人もいるから、この戦略は、不利である場合が多く、大体は、カモにされて、生き残れそうもない。だが、自分と相手がともに協調の手を取り続けることが、もっとも利得が多いので、共存して共栄する道(C,C)を選ぶことが、双方にとって最もよい。しかし、相手が協調してくれるとは限らない・・・この堂々巡りを終えるために、今回私たちは、ゲームを空間(人工空間)に移して、動きとプレイの二つの観点から協調の動向をシミュレーションした。

 本論文で見たかったのは、小さなコミュニティー(人のつながり)での協調と社会全体の協調量の関係である。プレーヤーを、「動き」と「プレイ相手」を距離の観点で4つのタイプに分けた:L(local)、G(global)の略。例(L,L)=Local move Local play

(L,L)・・・
   動き:小さい(隣のセル、しかも空いている場合のみ移る)。
   プレイする相手:地縁、血縁、友達など見知っている人とだけ。
(L,G)・・・
   動き:小さい。
   プレイする相手:遠くの未知な人とだけ。
(G,L)・・・
   動き:大きい(遠くへ移動、遠くならどこへでも)。
   プレイする相手:移動先の周辺の人に限る。一定期間を過ぎれば、再び大きく移動し、その近隣の人。
(G,G)・・・
   動き:大きい。
   プレイする相手:移動先に拠点を置き、そこから遠くにいる人。一定期間を過ぎれば、再び大きく移動し、見知らぬ遠い人。

プレーヤーは、リラクタント系(tit-for-tatの変化形)の2種類と“いつも協調(All C)”、“いつも裏切り(All D)”の計4種類で、30×30のセルの盤上でゲームした。

 協調の出現の定義・基準など詳しくは本論文を参照していただくこととして、結果から言えることは、
1)小さな固定的集団がなければ、基準を満たす社会の協調が起こらない。
2)”お人よし(All C)“は、小さな集団内でのみ生き残こることができる。
3)”いつも裏切り(All D)“は、グローバルな動きの中で生き残り、繫栄することも可能、ということである。
即ち、小さな集団の内部で、”お人よし“がいなければ、協調はほとんど出現しないので、社会全体の協調の出現のためには、小さな集団と常に協調する人の存在が重要であることが分かる。

 共同体の性質には大きく分けて二つの側面が考えられる。一つは、人々の紐帯・連帯それによる一体感(連帯感)・安心感をもたらす。今一つは、成員個人を拘束し、個性を発揮する自由を制限する。
かつては、生活の基盤を共同体(地縁・血縁など)にゆだねていた。そこでは、現在の生活だけではなく、過去からの今に続く紐帯があり、未知な領域である未来はもっと不安に満ちているので、いかに不満があろうとも、そこからの離脱は考えられなかっただろう。そこからの追放は、死を意味したかもしれない。それに比して現代は、共同体に根を置かず、一人きりでもやろうと思えば生活は可能である。未来は自分で切り開いていける。地縁、血縁による共同体は、その役割を弱め、しきたりに縛られ、共同作業を強いられたかつての人間関係のわずらわしさからずいぶん解放されてきた。
自由を手にした一方、安定的で親密な人間の関係を失い、不安定で寄る辺ない個人ばかりの世となった、と嘆息してみても事は深刻である。

 共同体は人々が組織するもので、地域、学校、職場、などいろいろだが小さな単位としては、家族がある。家族の一員として、日常を暮らす中で、自分が家族に向ける顔を家族同士が記憶しあう。生活を通し形作られた他者による自分イメージは、はじめ他者が作ったものであったとしても次第に自分のうちに取り込まれ、そのイメージに沿うように自ら反応するようになるものだ。いい子、いい親、良き伴侶、であってほしいと家族は期待するが、様々な場面の連続である日常生活の中で、自らの期待外れな行為によって失望させることもある。
必ずしも、自分が望む家族でいてくれないし、自分も自分の良きイメージを保持できないということが起きる。

 共同体が生む安心感は、身近さと頻繁な交流による。身近な存在同士の頻繁な交流だから、常に同じ人には同じ顔を向けているわけにいかない。よく見知ったもの同士は、長期的な生活空間の関わり合いの中で互いが多くの個人的側面をさらしあわざるを得ない。一人の個人が、共同体の一員である場合、一面的な性質の個人として記憶されるのではなく、その個人全体(複合体としての個人)として記憶される。日常的に相互に確認と承認を、少しずつ修正をしながら繰り返す。
自分を丸ごとを知ってもらい、丸ごとを受け入れてもらうことほど、私たちに安堵・安心をもたらすものはない。誰しも誰かが傍らにいて、承認のうなずきとまなざしを向けてくれることを欲している。

 自分の中の様々な面を知ってもらい、受け入れられることは、安心感や満ち足りた幸福感をもたらすが、反面、周りの他者の期待に添わず、慣習的に維持している共通の価値を超えるとき、思わぬ叱責、批判、非難、罰則、さらには共同体からの追放をもたらすことにもなる。見えないがはっきりとした縛りの中に生きていることは、窮屈で、拘束と感じるだろう。広い未知な世界、「荒野へ」の世界に憧れる。

 協同体を出て、その縛りから自由になり「記憶されている者」としての自分をひっさげることなく、未知の他者に関わることを始めるとする。他者とは、表面的で短期的なかかわりを持ち、その範囲を超えないように、いつも決まりきった一つの顔を向ける。店員と顧客のように、上司と部下のように。役割は、単一で、相互に協働するとしてもその枠内にとどめる。 グローバルに移動し、グローバルに仕事をするということには、気楽さと、潜在的な抜け駆けの要素がある。偽りの身分や役割を短期的に演じることができる。しかし、当然、いくらグローバルでも、現代はネットの網が張り巡らされている。社会的信用や、評判から全く解放されているわけではないが、小さな共同体の網より距離が大きい分、確度も迅速性も緩くなる。もっとも網の目はついてまわりはするが。
”いつも裏切り“の人は、グローバルを好む。相手が協調をしても、容赦なく裏切るのである。All D戦略は、共同体では生きるのが難しいが、見知らぬ場所で新しい人々と短期的にならやっていける。事実、シミュレーションでも、利得を増やし、子孫を増やす。共同体が無くなれば、世の中に”All D“しかいなくなる。しかし長い目で見ればAll Dばかりでは、繁栄どころか互いに自滅の道を歩むしかない。

 人間関係のわずらわしさ、はどこから来るのだろうか?

 全人格的な関係であればあるほど、煩わしい。だが承認されるとすれば、それほど充足をもたらすものはない。人は、単一の役割や成果に対する賞賛や承認では、なにか充たされない。自分の中にある欠点も含めて認知され、承認してもらいたいのである。
ひょっとして他者からの不承認とは、自分の自身に対する不承認の投影かもしれない。人間は、矛盾を入れる器といわれる。実際、自分は何をしたいのか分かっていても、できない自分がいる。自分は何を欲しているのさえ分からず、困惑する。いや、そんなことを考えてしまう自分も、嫌であるが、そんな自分から逃れることも受け入れることもできない。異なる他者を排除したいが、すっかりつながりをなくすことも恐れることと同じように見える。
人は、自分の中にある自分でも認めたくない要素を無いものとして生きる傾向にある。しかし、例えば悪い言葉、それを他者に向けて表出してしまえば、それは事実となって、他者との間で共有せざるを得ない。なかったことにしてほしい失敗や裏切り行為も、明るみに出れば他者との間で記憶される。一方、自分でも良いと認めている自分の要素も、他者は、隠しているかもしれないが、記憶にとどめてくれているものである。
もし、たとえ法に触れる行為をしても、援助の手を差し伸べてくれるのは、よく知っている人たちの中からでしかない。協調することを通して、善も悪も、超えることを学ぶ。人は結局、自分のすべてをわかることはない。他の人々を通じて、自分を知るしかないほど、よくわからない自分を持て余しているのではないか。
「なぜその行為をしたか」に対する答えを用意するが、答えはいつも何か足りないという思いが残る。利得計算なのか我執なのか、それとも何らかの根源的な動機からなのだろうか。とりあえず思いつく理由を挙げておく、というのかもしれない。

 個人が協調を選ぶことと、社会が協調的になることは、直結しない。だが、内輪の身近な人の連帯の中で協調をはぐくむことは、協調的な社会を作るうえで、決定的に重要である。
協調的なつながりを人との間で作ることによって、自分の根を下ろす土壌を獲得する。基盤は、しかし、容易にできない。初めから協調的な関係などなく、自分の矛盾した感情・思いなどのやり取りを通じて、反目や和解を繰り返すことによって、より全人格的つながりを獲得していく。反抗心やわがまま、甘えなどを自然にたわめる術を身に着けることを、日常生活の地平で身近にいる人との間で育むことが望ましい。そういう他者(できれば生きている人)を少なくとも一人必要としている。一人でいいと思うが、一人もいなければ、根を下ろす基盤ができないので個人の存続にとっての危機的状況である。これと思う人を見つけたら、簡単にあきらめずつながりを求める努力をすることだ。
協調的な社会は、小さな単位の協調的な関係から作られていく。かつての地縁や血縁の共同体は、今や、消えて、その役割を担うことができないが、他者との関係を自分が安定して前を向くために必要なものととらえ、広く浅くというより、まずは少数の他者との関係を深めることが大事である。心の紐帯で結ばれた島にいれば、どんな小さな島であってもグローバルな海の中で、元気に生きていけるものである。グローバルな海は、大自然の包容力でどんな島でも生かしてくれる、それが大きくなって他の島との間で軋轢を生み始めると、グローバルな海は、島に対して何らかの修正を求めたり、他との協調を要求する揺さぶりをかける。島の掟よりグローバルな掟に従わせようとする。それが、ひいては小さな島にとっても良いことなのだ。自由は常に縛りの中にしかない。

 ゲームは、対戦の成果を便宜上、利得という基準で表示するが、個人にとって大事なのは損得ではなく、満足な充足した人生である。