人は変わる ― (2)参加しないプレーヤー

ゲームに参加することが、プレーヤーにとって必須なことではなく、参加しない選択ができるゲームについて、考えてみる。

昨今の社会のありようの中に、気になる現象がみられる、それは「社会参加を極力しない・できない」人が増えているとみられることである。消極的・積極的不参加者の増大は、協調的な社会を生み出すことにどのような影響を及ぼすのか調べてみた。
私たちの社会は、二つの側面を兼ね備えている。一つは、個人主義、分離された個、利己主義、それともう一つは、一塊の集団として協働、統合された共同体、である。前者は、自由、後者は、平等・公正を社会の一員として私たちは社会に求める。
論文では、与える側と受け取る側に分けて、考える。例えば、地域の清掃活動。清掃に参加するかどうかは、自由である。参加すると、自分の時間や労力を費やす。参加しなければ、その分の持ち出しはない。一定の人数がその活動に参加していれば、清潔なきれいな環境の中で誰もが生活することができるので、その活動は、永続的に行われることが住人全員にとってよいことである。このように、災害時のボランティア活動に参加する、寄付をする、献血や臓器提供、など必要とする場所や人に広い意味で必要な資源を提供することは、社会的善であるといえる。言うまでもないが、あくまでも自由意志によって行われることが前提である。私たちは、提供する側になり、受け取る側に回る。提供する側になると、費用・労力の持ち出しがあり、受け取る側は、何もコスト負担(相手が非協調の場合は若干の負担があるが)はないので、利得を重んじるなら、受け取る側になった場合のみ参加する、という人もあれば、その逆もある。例えば、参加に関して、匿名性が高い場合とそうでない場合では、参加・不参加の選択が異なるかもしれない。

ドナー・レシピエントゲームで、私たちのプレーヤーは、リラクタント系プレーヤーである。
つまりプレーヤーの目的は、対戦相手と「協調・協調」となることであり、少しでも相手より得をすることではない。協調の手を自らとり、そしていずれ相手も協調を取るようになることを、目標に置いている。これは、レースや、競争に慣れている人には奇妙に感じられるだろうが、私たちは、日常の生活において人々間の協調が見られることを念頭に置いているので、自己防衛は必要だが、相手を打ち負かすことは、不要なのである。
(1)
まずプレーヤーが、“全員参加する”ゲームで協調が出現するかどうか。 500期300ランをして、100人より多く生き残っていて、協調率が20%を超えた時、協調が出現するとした。結果は、協調の出現率は、63.3% であった。
(2)
次に、ゲームに不参加の可能性を導入し、それを参加確率として表した。参加確率は、生まれつき親から受け継いでいるものとする。本論文では、参加確率が「低い・高い・常に参加」、の3タイプである。ちなみに「完全に不参加」のプレーヤーについては、おおむね協調の出現率は低調であり、特に、ドナーの時に、全く参加せずにレシピエントの時は必ず参加するタイプが、構成メンバーにある割合混じっていると協調は全く出なくなる。今回は、ドナー・レシピエントのいずれかまたは両方に不参加であるタイプを除外した。なぜなら、レシピエントの時に完全不参加の人は、寿命までに死んでしまうか、寿命が来て死ぬ、つまり利得が得られず、生き延びることが難しい。ドナーの時に完全不参加でもレシピエントの時に参加すれば、相手によっては、生き延びる可能性が出てくるのだが、上記の通り、協調の出現率はゼロである。

さて、参加率という観点から見て、もし1種類の人で構成されている社会があるなら、どんな人が住む社会がより協調的かといえば、ドナーの時には毎回参加してレシピエントの時に、高い確率で参加する人である(69.3%)。次に、ドナーの時に、高い確率で参加して、レシピエントの時に必ず参加する人(67%)、その次にドナー・レシピエントともに高い確率で参加する人(64%)、と続き、これら3種類の人単独で比較すると、毎回必ず参加する人(63.3%)より協調の出現率が上回った。
これは、少し意外な結果かもしれないが、参加して非協調を出すと、ドナーとレシピエントがともにわずかながら損をするが、少なくともどちらか片方が参加しなければ対戦そのものがないので利得は動かないということと関連するのだろう。
世の中は、多種多様な人々で構成されているので、3タイプのプレーヤーが同じ割合で混合した社会だとすると、協調の出現率は、44.7%となり、「不参加」可能性を導入したことによって、全員参加の場合より協調の出現率は減った。
(3)
生まれつき決まっている参加確率を「経験によって変わる」ことができる可能性を導入した。
直近の10対戦で、相手から協調される経験が多ければ、低い参加確率であった人は、高い確率で参加するようになる。またその逆に、非協調の経験が多ければ、高い参加確率の人は、参加確率が低くなる。全参加の人は、協調・非協調の経験に関係なく一生変わらない、と設定した。

つまり、あまり参加しない人が、参加した時に相手から協調的にされることが多いと、もっと参加してみようと思うようになり、よく参加していたが、非協調的な態度に接することが多いと、もう参加したくなくなる、というようなことをプレーヤーに組み込んだ。

結果は、参加確率において「人は変わる」を、導入した場合の方が人は一生変わらないとする場合より協調の出現率は最大1.5倍強増加する(表5)。
シミュレーションの際のパラメータ設定については、筆者が、現実をどのように見るかということが反映される。それは、社会の現実、人間像をシミュレーションに持ち込むことになるので、主観的価値観に依らざるを得ない。できるだけ偏らないようにするために、完全非協調、完全協調のプレーヤーも同じ割合含めた。このような極端な人間も私たちの社会には、常にある一定量は存在するとみている。
私たちが着目するのは、「完全非協調」つまり常に自分の利益のみを求める人が、やはり生き残る率が高い(利得が高い)、という点ではなく、ある一定の「完全非協調」が居ても、それでも全体として協調的な社会が保たれていることである。非協調の人ばかり増えていくと、社会が、「共有地の悲劇」的になるので個人の、存続繁栄もなくなり社会も衰退する。「裏切り」ばかりでは短期的に利得を得ても、徐々に利得が減っていき、やがて互いに死滅においやることになる。
ここで言えることは、人は、人から良い経験・良い思いを受けると、もっと人とのかかわりを増やしていこうとすることである。その逆に、悪い経験などすると、活動をやめていく、ことを組み込んでシミュレーションをしたら、協調がより多く出現した、ということである。
世の中で協調が現れている様態を説明する一つの要素とみている。そしてそれは、私たちの直感と矛盾するものではない。
ちなみに「完全協調」、常に協調の手を取る人は、予想通り利得が少なく生き残るのは難しい。しかし、いつも一定数は残る、それは、ローカルな人間関係がそれを支えているからではないか、と推測している。「お人よし」といわれる人の存在も深い意味・役割があるように思われるが、それについてはまた別の項で検討してみたい。

人の一生は、長い。私たちは誰でも「活発に社会活動する」時期も、「引きこもる」時期もある。「引きこもり」の人ではなく「引きこもる」という状態にある人ととらえる方が正しい。個人的に参加・不参加を選択するとき、できれば参加を選択するほうが、より協調的な社会に近づくと言える。しかしだからといって、他者や社会からの参加圧力のようなものは、有害である。社会活動を組織する際に、人々の多様性が十分考慮され、多様な人々にとってそれぞれに魅力ある活動が生み出されるなら、人々の参加はおのずから増すだろう。一方個人の側からは、他者の「差異」をあまり重視しないことだ。ほどほどの無関心の下でこそ、私たちの真の個人性を伸ばすことができるのだから。