楽観的な人の存在と協調的社会の関わり

楽観的な人と悲観的な人がいる。そのどちらでもない人を加えて、世の中を三種類の人で構成されているとしたら、どんな人で構成されている社会がより協調的だろうか?

楽観的と悲観的

私たちの論文では、シミュレーションを行う必要上、便宜的に楽観的と悲観的を次のように定義した。
例えば、ある人が他の人を夕食に招待するとする。招待する人をドナー、招待される人をレシピエントとするDRゲームでシミュレーションを行う。
夕食の招待を受けた場合、人それぞれに重きを置くことや興味のあることは違うが、次の3点に絞った:1)食事の質に関すること、2)時間は守られたか、3)部屋は清潔で整頓された状態か。

楽観的な人とは、三つの項目の内二つの項目で不満足であったとしても、たった一つでも満足な点があれば、よい夕食会だったと思う人である。時間がルーズで、帰りがすっかり遅くなり、部屋は片付かない状態だったが、食事は文句なしにおいしかったので、食事会は満足のいくものだった、よかったと思う。
それに対して悲観的な人とは、二つの項目で満足であったとしても、たった一つでも不満であれば、夕食会は、ひどかったと思う人である。時間も厳守で食事もおいしかったけれど、部屋の汚れが気になったので、食事会は、ダメだったと思う人である。
つまり、物事の評価について、評価する項目すべてに満足することはないが、少しでも良いところがあれば、他の至らぬ点は、すべて考慮の外に置く傾向を持つのが楽観的な人で、それに対して、ダメなところに着目してほかの良いところは、考慮の外に置くのが悲観的な人ということである。
そしてどちらでもない人とは、各項目の評価の平均を食事会の結果とする人で、よいところと悪いところを平均し、それをよい夕食会だったかどうかの最終的な結果とする。考慮の外に置く項目がなく、また一つだけに強く焦点を当てるということもない。
以上のような定義は、シミュレーションのためにあえて簡略化したきわめて限定的なものであることを了承願いたい。

シミュレーションの結果

楽観的な人と悲観的な人、どちらでもない人は、もし一種類の人しかいないとすると、もっとも協調の出現率が高くなるのは、どちらでもない平均的な人である。平均的な人ばかりが住む世界であれば、高い協調が得られる。次に高いのは、楽観的な人となる。そして悲観的な人々ばかりでは、社会は非協調になる。

母集団の初期分布が二種類(楽観的・悲観的・平均的のいずれか一つがゼロ)のとき、協調の出現率は、一番高いのは、楽観的・平均的な人の組み合わせで、次に高いのは楽観的・悲観的な人の組み合わせである。楽観的な人がなくて悲観的・平均的な人の組み合わせは、もっとも協調が低かった。そして三種類が等しく存在する場合は、比較的協調の出現率は高かった。このことから楽観的と悲観的の役割が見える。すなわち、楽観的な人は、協調の高い出現率に必須である。しかし楽観的な人だけでは協調の出現率は伸びず、協調が促進されるためには、平均的な人・悲観的な人が必要といえる。悲観的な人は、一般的に協調を押し下げるのだが、楽観的な人だけよりは悲観的な人が混じる方が、協調の出現率は上がるので、不思議である。シミュレーションによる結果が、直観とのズレを表した形である。(詳しくはこちらを参照。)

世の中は、いろんな人がいて社会が成り立っていて、しかも私たちは日常を営むに十分なほど協調・協力して生活しているのだから、実情を反映しているのかもしれない。
とはいえ、現代を生きる私たちは、どちらかと言えば悲観的傾向を強めているようにも思う。それは、漠然とした希望や夢にエネルギーを傾けて生きるより、今の状態をよりよくするために、現実に潜む問題を見つけようとする傾向、つまり被害や損失への防衛的傾向があるように思われる。悲観的な人が多くなると、食事会の継続は難しくなる。

楽観的悲観的は性格的特徴なのか。

マーヴィン・ミンスキーは「心の社会」の中で、“性格的特性と呼んでいるのは自分でわかる自己の規則性である”と言い、性格といったくくりでとらえられる特徴を、パーソナリティーに一貫性を持たせるためにイメージ化して自らに教え込んでいるという考えを示している。自分自身については自分でもよくわかっていないという。自分が行動しておきながら、自分でもなぜそうしたのか判然としないということは、よくある。先の食事会の例で、「私は楽観的な人だから、部屋が汚かろうが、食事がおいしかったからそれでいいのです、満足です」という人は、いわゆる「楽観的な人のイメージ」に合わせて自分を語っているのであって、その方が、聞いている人に自分をわかってもらいやすく、自分にとっても自己イメージに対する不安が起こらない方法だと考えての事なのではないか、と言う。

人間についての研究は、昨今目覚ましい進歩を遂げ、人工知能などがいろいろな分野に進出している。そのことによって、人間の意思・行動の決定の仕組などが徐々に明らかにされてきている。それもまた私たちの「原始の心」に接近する有力な方法の一つだと思う。

人間の思考の仕組みについて、ミンスキーは「フレーム」という概念で説明を試みている。私たちは、生まれてから今まで、経験によって身に着けてきた構造を記憶していて、新しい状況に出会うと、それが活性化する。食事会に招待されると、今まで何度となく経験した食事会の記憶が呼び覚まされる。当日にならなくても招待の話を聞いた時から、それは始まる。行くと決めたのだから、自分にとって何か善きもの、例えば相手との親睦をはかる・おいしい手料理を食べる・楽しい時を過ごすなどの期待をもっている。一方、懸念もおきる。手土産は何にする・どんな格好でいくなど、今までの過去の記憶のページをめくり、自分が今回重きを置く目的に失敗しないように経験を役立てようと気を配る。ただ、自分が身に着けている過去の食事会のイメージは、今回の食事会と同じものではないので、期待や予測の段階から現実とのズレが生じることになる。懸念にしろ、期待にしろ、過去の経験から呼び起こされるのだが、その道筋はよくわかっていない。新たな状況に出会うと、私たちの心は、実際に見ているものと、実際には見ていないが目の前の情景から過去の記憶につながって生じた新たなイメージに心はとらわれ、強烈な時は記憶される、といってよい。そして私たちの内奥に蓄積された過去の様々な状況の典型が顔を出して、期待や不安に接続されるが、その接続のされ方もよくわかっていない。
私たちには、食事会とは、こんなものという自分なりの想定がある。当日、家を訪問して出迎えてくれる、といった当たり前の出来事のこまごまとした場面のすべてを私たちは記憶していない、のみならず、言語で記述できないことは拾えないので素通りしてしまう。 靴を脱いで上がって、お土産を渡して、・・・と続くが、そのすべてを言語で実況中継するように、また動画を撮るようには記憶しない。したがって記憶されるのは、目に入るもの、人の表情、言葉などからその時々に触発されたイメーだといえる。

問題解決における楽観・悲観とは

何か問題が起こったとき、楽観的・悲観的な人は何が違うのだろうか。
現状を「問題あり」と認識するのは、両方とも同じだが、楽観的な人は、現状と目標すなわち解決後の状況の比較において、それを自分の行為で埋めようとする。そしていくつかの解決方法があるとき、その中でいいものを選択する。選択肢の中から行為を選ぶだけの問題になる。例えば、毎月の生活費が足りないという問題を考えてみると、節約するか収入を増やすか、その両方併用が思い浮かぶ。無駄使いを見直し、さらにバイトをする、などだろうか。無駄使いを見直すことができて、バイトも見つかって問題が解決したなら、それでよしとする。
少しの気晴らしのためのお金と余暇の時間を削っても、なんとか生活が回っていくので問題は解決したということになる。今後そのことによって何らかの問題が発生するかもしれないが、その時はその時である。問題を解決できたことの満足がある。

一方悲観的な人は、最悪な事態を想定しがちな人である。無駄使いを見直すといっても、そもそも必要なものにしか出費していないし、収入を増やすというのは簡単なことではない。時間的にも体力的にももはや余剰なものはない。毎月の赤字は、このままいけば借金となって積み重なっていくだろう。解決方法が見えない。思いつく選択肢が、実現不可能性を帯びてくる。目標とする状態にたどり着く手立てやプロセスを見つけることができず、考えれば考えるほど、絶望へと向かっているように見える。そして最悪の状態をイメージする。
現状を抜け出せない、万事休す、そしてそのまま無気力に現状維持ということもよくあるが、一方、往々にしてひらめきが訪れることがある。それはありふれた解決策ではなく何か新しい選択肢である。時として、誰も考えつかずに見過ごしていたような新奇なことをする人がいるが、それは、そんな追い詰められた状態になったからこそ生まれたと思われる。
悲観的であることは負の側面だけではなく、解決への積極的関わりをももたらすのである。

なぜそのようなことが起きるのか、それは今までの記憶の整理方法が大きく分けて二通りあるからである。何度も同様のことを経験すると、記憶のファイルからすぐ取り出せるようになっているが、過去の経験の中でもあまり繰り返されないと、どこにしまわれたのか分からず、取り出すのが困難になってしまう。生活のすべての記憶と記憶がもたらすイメージは、私たちの中で、刻々と記録されてはいるが、長期間保存されているのはごくわずかで、短期でなくなるものが大多数なのである。だが、無くなることは、私たちの中から出ていくことではなく、どこかわからなくなっているだけなのだ。何かの場面で、ふと昔のことを思い出したりして自分でも驚くことがある。追い詰められたとき、別の収納場所にある記憶・記憶イメージと当面している問題がリンクする、そして別ジャンルでの有効だった解決方法を当てはめることをするのだろう。

楽観的な人・悲観的な人の想定は、実は、私たちが持っている二つの心の機構といえる。言い換えるなら、だれでもその二つを適宜使い分けて暮らしている。楽観的・悲観的傾向の強い人でも雨漏りがしたら問題発生とばかりに解決の選択肢をすぐに探り出すだろう。しかし選択肢の思いつかない問題はどうだろうか。例えば、お金持ちになりたい、有名になりたい、などの個人的な願いから、世界が平和になってほしいがどうすればいいのかなど目標と現状からの距離が遠い問題がそうである。目標が遠大になればなるほど、方策をつないでいかなければならないので、道筋が読めないものだ。時には、ベクトルが反対に向いていると思われる方法を使ったりするかもしれない。悲観的な人は、現状と目標との距離が、日常的に遠くなりがちな人といえなくもない。問題の種類や領域によって、その距離をうまく設定することで、すぐ思いつく解決策を採用するのか、それとも革新的な方法を編み出すのかを使い分けるのが賢明なのではないだろうか。

食事会の場合、私なら、楽観的な人の態度をとる。部屋が汚いことに、ことさら焦点を当てて、それを料理の安全性に対する疑惑に結び付け、関係を断つことより、他者との良好な関係を維持し、楽しむ方が人生の実りは多いはずと考える。協調的な人間関係は、まずその維持に努めることからしか始まらない。関係が安定すれば、その時両者にとってより良い提案もしやすくなり、気になる事柄にも言及できるようになるのだから。